第26話 姫喰い(4)
「えっ、じゃあその姫神を喰らう儀式について知ってたんですか」
「知らなきゃ来ないよ」
「知ってたら来なかったですよ」
儀式の詳細を聞き終えた助手の田賀は蒼白な顔でいった。夜闇に降りしきる雨がぬかるんだ地面を穿つ。村井への田賀の糾弾は止まらなかった。
「場所は? 日本って書くんですか。そんなのすぐに問題になりますよ」
「もちろん論文にはしないさ、向学心だよ。学者ってそういう生き物だろう」
「仕事にならないならますます来なかったですよ」
うんざりとして反意を突き付ける田賀に村井は言葉を重ねた。
「喰わずに帰れないよ。聞いたろう」
「何を」
「『儀式に参加するのかえ』って。あれは超えてはいけない神域だったんだよ」
「勘弁してくださいよ」
悲嘆にくれた声をかき消して雷がまた地を揺らした。自分の肝が震えたのかと勘違いするほどだった。向学心だが、でも抱いている感情はそれだけじゃない。心根には恐怖の渦が滞留していて、これからヒトを喰らうという怯えがある。
「姫神はじきに野に下る。神の地位を退いてヒトへと孵るんだ」
あとは神聖なものに触れることへの期待がほんのわずかだけ。それすら疲れのまどろみで有耶無耶になりそうだったが。
「僕は食べませんよ」
村井は暗澹した声でいった、ひときわ大きな雷が落ちる。鼓膜がきいんと鳴った。
「いったろう、もう戻れないんだよ」
後から聞いた話だが魚代は雷雨のその晩に屠殺されたという。大男に組み敷かれて静かに首をひもで絞められて白いまま死んでいったそうだ。気になることがひとつだけ。
そう、無抵抗の死の間際に
「会いにゆきます」
とたしかに薄く笑ったそうだ。
そして——
村で一番大きな屋敷に成人した村人が一堂に会した。末席に村井と田賀も参加した。老婆が静謐のなか、言を発した。
「この儀式を持って姫神はヒトとなりました。生まれて初めてヒトになれたのです」
村人全員がひとりの人を弑した罪にいい訳をしているように聞こえた。集団による黙殺。この罪が裁かれることは決してない。
全員の前に小さな漆の椀が配り終えると女中が小さく声を出した。
「魚代さまのお恵みにございます」
村井は固唾をのんだ。それは残酷というにはあまりに美しすぎる白い切り身だった。脂汗を浮かべる。魚か、と思うほど。だがそのうちにとてつもない罪深さに襲われた。これを喰うのか、一拍呼吸を置く。一晩かけて覚悟したのに心拍がまだ定まらなかった。
老婆が胡坐を掻いたまま深く頭を垂れると椀に手を伸ばして箸で持ち上げる。小さく手が震えている。幾度となく引き継がれてきた因習だろうが、その高齢の老婆ですら慣れぬのだろう。目を閉じ口をもそもそとすると小さくいった。
「お恵みありがとうございました」
老婆を皮切りに一人ずつ同じ動作を繰り返していく。横の人間が頭を上げ終えると次の人間がという風に。右隣の人間が頭を下げていよいよと村井は構えた。心臓が豪打するなか切れ切れの吐息が漏れる。
だれもかれもが目を伏せて他人事を決め込んでいた。村井は途端、断崖に立たされているような心地に襲われた。
指を伸ばすと箸先がかつんと鳴る。
「いただ……き……ます」
ゆっくりと持ち上げると身がそよぐ。口を開け閉めしてうわごとのようにごめん、ごめんと繰り返す。そっと身を口に含むと涙が出そうになった。息を止めて震えをこらえながら咀嚼する。味などない。隣に座る田賀の右こぶしが痙攣しているのが見えた。
「お恵みを……あり……が……ました」
情けない声で懺悔する。人を喰ったのだ。オレはたった今人を喰ったのだ。
張りつめていた緊張がすっと抜けてその瞬刻、静かな声が聞こえた。過ぎ去った味がぶり返して臓腑が恐怖に炙られた。その声は確かにこういっていたのだ。
「会いにゆきます」
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