第22話 フグ
演劇というのは相乗効果で大抵の場合主演だけでも成立しない、モブだけでも成立しない。要するにどっちも必要ってことだ。
「立長、のど絞れ!」
オレは苦しそうな顔を作ると右腕と左腕をクロスさせて喉を絞めて表情を引き裂いた。
「ああ、あああああ」
「まだ絞り込みが足りない」
「がああ、ああああああああ」
「いい、そうその表情だ」
演技指導をしていた岸本さんが熱のこもった眼差しを向けている。こちとら真剣、一歩も出し惜しみしちゃいねえ。
「ちょっと休憩しよっか」
ひっつめ先輩が声を差しはさんでオレは事なきを得た。タオルで額の汗をぬぐいながら腰を落ち着ける。死ぬかと思った、マジ死ぬかと思ったわ。
休憩時間に誰かの差し入れのお菓子をつまんで談笑する。部長はひとり不機嫌そうにぶっすり腕組をしている。腑に落ちねえだろうな、一応主演だものな。
モブ組一斉ストライキのあと部長はすぐに折れた。たぶん本人の意思じゃねえ。練習に影響があるからと周囲からの進言があったのだろう。
「どうしてモブの演技指導ばっかりしてるんだ。主演とかどうでもいいのか」
岸本さんにたて突くようにいった部長に岸本さんはこういった。
「舞台全体のためにいってるんです。細かなディティールにこだわってこそでしょう」
部長は鼻から息を吐くと唇をぶっと鳴らした。
「観客はどこを見ていると思う?」
「人に寄りけりです」
話にならない、と部長はジェスチャーしてジュースを買いにいってしまった。
「いいんすか、アレ」
オレはスポーツ刈りをタオルでふきながら岸本さんを上目遣いで見た。
「いいよ。部長なりの気持ちのまとめ方だから。役柄に捉われるといつもナーバスになるんだ」
「ふうん」
いったいどっちが年上なんだかと心でつぶやいて周囲を見渡す。たぶん持っていき方なんだろうな、今回の公演はいつにもましてみんなが生き生きしている。空気もいい。モブを大切にしていることの証左だろう。
「岸本さん、オレ目いっぱい演じているつもりなんすけどまだ足りない気がするんですよ」
「どん欲だな。なにを欲している」
「恐怖っす」
恐怖、とオウム返しして岸本さんは黙考した。いいアイデアが浮かんだのだろうか。口角をくっと上げる。
「立長、帰りにスーパーで買って帰って欲しいものがあるんだ」
帰宅したオレは座卓で一つのパック詰めと向き合っていた。帰りにスーパーで購入したフグの干物だ。岸本さんの提案はこうだった。
「姫喰いでは姫の肉を喰らった村人が呪われる。喰ったら死ぬんだ。お前は確実に死ぬ。イメージトレーニングとしてフグの干物を買って帰れ。スーパーで売ってるのは白サバフグという無毒のフグだが、想像力を膨らませて毒フグと認識しろ。それを知らずに美味そうに喰う。だが喰ったあとに死の恐怖が押し寄せる。それに苛まれてお前は一晩中眠れなくなる」
オレはコンロの前にいって火をつけた。中火でフグの干物を炙っていく。半濁色の干物が端から順に色づいていく。オレはそれを呆然と見ていた。頭には言葉が反響している。喰ったら死ぬ、喰ったら死ぬんだ。
菜箸で裏返すといい焼き色がついていた。もちっとした弾力がある。だがすでにオレの脳内には美味そうという安直な言葉は浮かんでいない。死ぬのか、オレはこれを喰って死ぬのか。
火を止めると皿に移した。座卓に置いてフグと向き合う。心は真剣そのものでそこに偽称という言葉はない。この美味そうな干物には毒がある。村人Cになり切ってそれと見つめ合う。
しばらく見つめ合っていたが意を決して箸を持った。箸先をそっと伸ばすが震えが止まらない。
「ダメだ!」
箸を投げて床に突っ伏した。ダメだ、ダメだ、ダメだ。恐怖で喰えねえよ。
しっかりしろ、オレ。村人Cは知らずに喰うんだ。少なくとも喰う前は平常心だったはずだ。
「いただき……ます」
口にそっと運ぶと目を閉じてがしがしと咀嚼した。口ん中で身がほろほろとほぐれていく。美味い、美味い、いや怖い、怖くてたまらなかった。ぐっと飲むと床に仰向けに倒れた。どうしよう、喰っちまったぞ。
ここからが大事で村人Cのリアルな心理に持っていく。姫神を喰った村人は呪われる。呪われ——
「ああ、ああああああああああ」
喉が苦しくなってきた。両手で首を絞り吐き出そうとするが吐き出せねえ。胃が裏返りそうなほど気持ち悪くなりトイレに走る。のどに指を差し込んでえずくと胃の内容物を吐き出した。
「おヴぇぇええええええええ」
「おヴぇええええ」
「おヴぇえええええええ」
胃液まで吐き切るとふらふらとトイレから出てベッドに倒れた。恐怖で仕方ない、オレは死ぬのか。本当に死んでしまうのか。
ここからが地獄の時間で本当に眠れなくなった。何も入っていない腹を胃液が刺激している。何時だ、今何時だ。
脂汗が流れて呼気は荒い。秋の涼しさなど忘れて一人蒸した空気と葛藤していた。時計の秒針だけが輪郭を持って響いている。助けてくれ、誰か助けてくれ。
恐怖が限界に達して救急車を呼ぼうと思った。電話は部屋にない。下宿にあるのは共用の黒電話、近くの貯金箱に十円を入れて使用する。財布から十円を取り出して薄暗い廊下を歩き電話の前に立った。だがここでふと冷静になる。
やめよう。冷静になれ、死んでいないだろう。
廊下をいったりきたりで最終的に部屋に戻り、座卓に突っ伏した。神経が限界に達している。朝の四時だった。固く冷たい座卓で額を冷やして、冷静になれといい聞かせる。
死なない、死なない。オレは絶対に死なない。
無限の刻のなかでやがて外が明るみ始める。か細い安堵の呼気が漏れた。死ななかった、オレは生きている。そしてようやく朝日が昇り始めたときに理解した。部屋には静謐が満ちていた。
オレが向き合おうとしているのはこういう恐怖なんだ。
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