第19話 大学生活その1
ライフォールの鏡の公演は大成功を収めた。結果からしてみれば特段この生徒が良かったということではなく、むしろみんな良かったのだと思う。舞台としては一つの完成形を見せ、公演を終えたばかりのオレはようやく舞台人としてスタートしたのだなという感覚があった。
当然学業のことは置き去りで、というかオレはもともと勉強があんまり得意じゃない。演劇のために入ったコースだ。なんで工学部なんだよというツッコミには、文学部じゃ工学部畑の父ちゃんが折れなかったからだと答えておく。今時就職にいいんだってさ、知らねえよ。
「はあ、まじきちい」
オレは机に突っ伏してノートを頭にかぶった。じゃりとした感触がある。月代が微妙に伸びて雑草となり、傍からみれば頭頂部だけ微妙に薄いスポーツ刈りの青年だった。
「s軌道とかp軌道とか意味わかんねえ」
写し取った有機化学のノートに書かれた立体図を眺めてみても頭のなかに分子構造は浮かび上がらない、エステル? アルキル基? 頭がこんぐらがってきた。超絶ないんだなこういう理系の才能、うん。
唇と鼻でシャーペンを挟んでうんうん唸なりながら時計を確認すると五時だった。
「おっといけねえ、飲みだったわ」
ノートをカバンにつっこむと急いで教室を出た。
演劇部の飲み会はいつもの大衆居酒屋、風来坊で行われる。特段美味い店ではないが座席の都合がすぐにつくから都合がいいんだとか。
「それではお疲れさまでしたー」
なにがお疲れなんだろう、今週一週間まるっきり部活休みだったぞ。まるでサラリーマンの飲み会じゃねえか。とツッコミながらビールジョッキをぐいっと煽る。
「はあああ、うめええええ」
この頃のオレはビール腹だ。飲み盛りの大学生だから仕方ねえ。もともとのオレは手足が長くほっそり痩せ型でそこにビール腹がくっついた。おいそこのお前、フンババっていうなよ!
偶然にも対面に座っていたのは専属脚本家の岸本さんだった。いつもは口数の少ない寡黙な人、談笑した記憶なんてほとんどない。岸本さんは銀縁眼鏡の奥の瞳で枝豆を狙っている。頬はほんのり赤く一杯ですでにキテいるらしかった。
岸本さんは酔った唇で枝豆を貪り食うと静かにオレを見定めてこういった。
「立長さあ、お前ちょっと違うよね」
「ここっすか」
そういって頭頂部を撫でる。いやいや、と岸本さんは立膝をして笑った。
「ライフォールの鏡の演技見て思ったんだよ、あの時舞台上には死んでる演者がたくさんいたんだ。でも本当に死にたくないって藻掻いてたのはお前だけだったと思うよ」
ちょっと言葉もなくて沈黙した。軟骨のからあげに箸を伸ばしてパクリ。
「あざっす」
ちょっと照れ気味で返事をすると岸本さんがこちらをじっと見つめていた。照れるなあ、こういう視線は。
「なんすか」
「オレさあ、今公募用に新作書いてんだけど」
新人プロ作家の岸本さんは公募用に作品を常日頃から書き溜めているらしい。きっとその話をしているんだろう。
「どこに応募するんすか」
「ま、そういうのはいいよ。オレ応募止めるから」
え、と声を漏らしてしまった。作家が大事な作品を応募しないってアリなんか。岸本さんの決意の瞳は揺らいでいない。酔っているだろうが込められた気持ちは真剣そのものだった。
「秋の定期公演の脚本に新作下ろすよ。ずっと結末考えてたんだけどしっくりこなかったんだ。ああ、コレ過去形ね」
いっていることが伝わらなくて首を傾げた。少々日本語も怪しい。
「お前のあの演技見てたら立長に演じてもらいたくなったんだ」
「主演っすか!」
いやいや、と岸本さんは笑う。
「主演じゃないよ、モブその三くらい」
期待させて突き落とす。残念感がすごくてケラケラと笑った。
「でも大事なんだ。お前のあの演技が」
岸本さんはウーロン茶を飲んでいた。頭は幾分冷静になったのだろう。射抜くような瞳でオレを見つめている。
「誰かのために書きたいんなんて思ったのは初めてなんだ。それくらいに可能性を感じてるよ。作品のポテンシャルを高めてくれる立長の演技に」
これ以上ない誉め言葉に胸の底が温まった。焼酎を流し込んでいるせいもある。照れ隠しに笑ってみた。
「いいっすよ、演じてあげても」
うふっとつけ足すと月代に平手チョップが落ちた。馬鹿いうなということだろう。
「で、どんな作品なんすか」
「タイトルを決めかねていたんだけど、今決まったよ」
そういってテーブルに置いていた日本酒のビンのラベルをこすった。共喰いと書いてある。背筋を行く引きもの虫が駆け上がる。冗談だろ。まさかのホラーかよ。
「姫喰い」
そう呟いて岸本さんはコーラのビンを一気飲みした。
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