4

 夕暮れ時――いつの間にか、街道の周囲の景色は小麦畑ばかりになった。

 収穫間際の小麦が、無数にゆらゆら揺れているのを見回すと、アズランドは事の重要性を再認識した。このあたりの地域は、穀物の収穫量で〈アッシュガルズ〉の一、二を争うという。

 もし、これらの作物がすべて台無しにでもなれば、大規模な飢饉ききんを引き起こしかねない。

『新王様も、これ以上は軍を動かせないの一点張りなのよ』

 と、エリーゼがやきもきするのも納得できる。

 “悪い出来事より良い出来事が多くなれば人は幸せになれる”と、ロウェルが熱弁していた彼の恩師の言葉を、ふと思い出す。

「少なくとも今はまだ、遠いな」

 隣のリザに聞こえないように、アズランドがぼそっとつぶやいたところで、遠目に密集した家々が視界に映る。

 間もなくして〈アピス農村〉の簡素な木造りゲート前で、アズランドは馬車を停めた。空いている厩舎きゅうしゃが傍にあるが、まずは挨拶を済まそうと、アズランドは御者台から下りた。リザもあとをつづく。

 見回す限り、村のなかに人影はなかったが、人気ひとけは感じられた。周辺の家々から、炊事の気配を匂いや煙突から上る煙で。

 王都と違い電球など明かりの供給がない農村は、日暮れとともに眠りにつくのが習慣である。

 農具を担いで歩いてくる自立稼働型人形オートマタにアズランドは道を譲ってから思った。間が悪かったかな。

 そのとき、奥のほうから数名が歩いてくるのが見えた。みな三十歳前後の男性で、日々の農作業の賜物か体格が良い。

 アズランドの眼前まで進み出て、一人が一礼して尋ねた。

「あなたが、〈蝕天秤エクリプス・リーブラ〉の組員さんですね? 遠いところを、ようこそおいでくださいました」

 健康そうな若者は歓迎するように笑いかけてくれた。アズランドは差し出された手を目に留め、

「ええ、そうです。遅くなってしまい、申し訳ないです」

 握手を交わしながら、笑顔で応じる。

「いえ、急な依頼にもかかわらず、すぐさま駆けつけていただけて、感謝に堪えません。申し遅れましたが、私はシグといいます」

「俺はアズランドです。あなたが村長さんですか?」

「いえ、違います。私は息子で……と、立ち話もなんですので、我が家までお越しください」

 そこまで言うと、連れの二人が動いた。アズランドたちが乗って来た馬車を厩舎に引き入れはじめたときになって、

「アタシはリザ。どうぞよろしくですっ」

 アズランドの背後からずいと一歩踏み出して、リザがジグ氏にお辞儀をした。にこやかな顔で見上げられた彼はやや目を見開き、

「お連れの方ですか?」

 アズランドに尋ねた。アズランドが口を開く隙を与えず、

「アタシも組員です」

 リザがきっぱりと告げた。心なしかムキになった様子で。

 そして、天秤が描かれた菱形ひしがたのバッヂを胸元のワンピースから取り外し、親指と人差し指で摘み、見せつけるようにした。組員であることを証明するものである。

「そうでしたか。これは失礼を致しました。……とにかく、こちらへどうぞ」

 困惑気味に、ジグ氏は二人を案内するべく歩き出す。

 リザがその背に並ぶのを目にして、アズランドはため息をついた。ジャケットの内側にあるポケットの一つで、同様のバッヂをいじりながら、胸中でぼやく。

 できることなら――リザが戦闘要員になるのは、避けたいところなんだが……。



 村長宅内で、面々は長卓テーブルを囲っていた。

 アズランドとリザが並んで座り、対面にシグ氏と老人の姿。

「お初にお目にかかります。ワシが今回、あなた方に助力をお願いしたログという者ですじゃ」

 慇懃にログと名乗った老人から、アズランドはさすがは親子という印象を抱く。シグ氏が年老いれば、このようにシワを刻んだ明朗めいろうな老人になるのだろう。

 人柄の良さそうな親子と、幾度か互いの自己紹介を兼ねた会話を済ませると、アズランドは本題を切り出した。

「それで、ご依頼の件なんですが――行方不明者が続出している、というお話でしたね」

 日は落ち、卓上の燭台の火が、村を預かる親子の憂い顔により深刻な影を刻む。

「ええ、ここ数週間のあいだに我が村から八名が行方知れずになっているのです」

 シグ氏が深々と嘆息する。

「八人も?」

 リザが目を丸くして、座る姿勢を正した。アズランドは眉を寄せ、さらに質問した。

「その原因に心当たりはあるんですか?」

 親子は、目配せして頷き合った。そして村長であるログ氏は、組んだ両手に顎を乗せて、厳かな調子でこう告げた。

生きた森リビング・フォレスト――古くからこの地には、そう呼ばれてきた場所がありましてな……」



 明朝。

 アズランドとリザは、徒歩で〈アピス農村〉を発った。見送り際、シグ氏は、

「お気をつけて。……無事を祈っています」

 沈痛そうに言ったものだった。それは二人だけでなく、行方不明者たちを含めていたからだろう、とアズランドは察した。

 まだ空が白みはじめた頃だというのに、村人たちは活動しており、田畑にも人影があった。が、いずれの顔も不安そうで、こうでもしていないと落ち着かないという気配が、漂っているように感じられる。

 ふと、アズランドは隣を振り向き、視線を落とす。

「昨日はちゃんと眠れたかい?」

「うん。ぐっすりとはいかなかったけど」

 リザが横合いから見上げて返す。アズランドは言うべきかどうか悩んだが、

「リザ……約束は覚えているね?」

 念のために訊いた。

妖精宝珠スプライトジェムの力は、必要最低限に抑えること――って言いたいんでしょう?」

 リザはこくんと頷いた。ふてくされるように、頬を少し膨らませている。

 アズランドとエリーゼから、噛んで含めるように繰り返された言葉だった。

「そう、その通り。わかっているなら、いいんだ」

 大気に魔粒子マナを満たす妖精スプライトたちの結晶体――それが妖精宝珠だ。膨大な魔力源ではあるが、内包した妖精たちの意思に、心を蝕まれる危険性を秘めた諸刃の剣。

 絶対に使わせるわけにはいかない――あんな悲劇はもう、まっぴらだ。アズランドが胸中で決意を固める一方で、

「アズも一人で無茶するのは、やめてね」

 目を細め、じーっとリザがアズランドの横顔に視線を注いでいた。

 上手い返しが閃かず、すっとぼけるふうにアズランドは言った。

「多少の無茶を許されるのが、男の子の特権さ」

「……それ、ずるいと思う」

 険しくなるリザの目から逃れるように、気持ちアズランドは歩調を速めた。



 程なくして、目的の場所にアズランドとリザは到着した。

 〈アピス農村〉から街道を通って南に少し行ったところに、鬱蒼と広がる森林があった。見るからに、昏い森だ。そして、なにより異様なのは、木々の葉や草花が漆黒に染まっているところだ。

生きた森リビング・フォレスト

 昨夜、村長宅で聞かされたその名をアズランドはつぶやいた。

「ここが、そうなの?」

 リザが訊いてきた。不気味そうに森林に目を当てながら。

「そうだろうね。昨日聞いた話では、行方不明者たちはみな、このあたりの街道を通りがかったはずなんだよ」

「ここになにがいるの?」

 昨夜の会話内容を、リザはすべて飲み込めてはいないようだった。アズランドは「ふむ」と頷いて、地べたに腰を下ろした。手頃な太い木片を拾い上げると、懐から取り出したナイフを使い、事もなげに削りはじめる。

「なにをしているの?」

「暇つぶし」

「えっ……」意想外な解答にリザは硬直した。

 アズランドがせっせと木片を削りつづけて数分後――不審を顔に表していたリザの顔が綻んだ。

 木片が小さなリスの彫像に変わり果てていた。アズランドは出来栄えにそこそこ満足し、ナイフを元の場所にもどす。

「まっ、こんなところだろう」

「すごいね。アズ、こんなこともできるんだ」

 感心しながらリザは、完成したリスの彫像を釘付けなって見ている。

「子供の頃、遊びついでに覚えた趣味さ。……さて、頃合いのようだ」

 言うなりアズランドは素早く立ち上がった。

「どうしたの?」

 と口にした瞬間、リザも気づいたようだ。

 森林のなかから、木が歩いて近づいて来ることに。それもただの木ではない。それは幹に人の顔面を浮き彫りにさせているのだ。

 歩く木々のあいだに、人影らしきものもあった。草花で全身を着飾った女性らしき姿が。

「トレントとドリアード――なるほどね。生きた森、か。言い得て妙だねえ」

 アズランドはぞろぞろ森から出て来る一群を見回して、不敵に笑んだ。

「なんなの、あれ?」

「長く在りつづける森には、精霊エスプリが宿るんだよ。俺も見るのは初めてだ」

「精霊? 敵、なの?」

「本来は、住処から出て来たりしないはずだよ。テリトリーに入った人間を追い払うために、脅かしてくる程度でね。ただ――」

 悪寒にそっくりな感覚が、アズランドは先ほどからおさまらない。

「嫌な邪気カース……のようなものを感じる。狂わされているんだろう」

 数は、十二体か。森同様に黒々しい精霊の数を数えた。

「どうすればいいの?」

 リザは身構えていた。アズランドの指示があれば、即座に動けるようにだろう。だが、

「待機でお願いするよ」

 期待に反するようなことを告げて、リザを拍子抜けさせた。がっくりしたリザの視線を浴びるのにも構わず、アズランドは精神を集中させた。声高に呪文スペルを詠唱し始める。

よ――勇猛ゆうもうであれと謳う戦士よ」

「蛮勇を以て汝に応えんとする愚者どもが、此処ここに集いしとき

「如何とするのか――我は問う。我は請う」

「我もまた、蛮勇をはいすこと叶わぬ者なり……」

 そこでアズランドは右手を真横にバッと伸ばした。

「搔き乱せ、拡散する雷ディフュージョン・ブリッツェン

 呪文の最後の一節を唱えざま、その手で虚空を右から左に引っ搔くように動かすと――バチバチと弾ける音が響きはじめる。

 精霊たちは、雷の網を引っ掛けられたに等しい状態だった。断続的に体をびくつかせている。が、それが持続したのは、ものの数秒といったところだろう。

 悶えたり怯んだりした精霊は確認できたが、倒れた個体はいなかった。程度の差はあれ、すべて負傷させただけ、良しと捉えるべきかもしれない。

「先手必勝といきたかったんだが……さすがは森の精霊の生命力だ」

 精霊たちに感心する裏側で、アズランドは力不足だと痛感する。

 先ほど解き放ったのは、中級魔術だったからだ。

 ただの・・・詠唱によって行使できる魔術は、アズランドには五節までが限界だ。両手両足と胴体――各所に詠唱分の魔力を発現するまで押し留めているわけだが、六節目からは行き場がなくなる。鍛錬次第では、頭部にも留めておけるようになるが、これが難しい。

 文字によるものであれば、上級魔術を扱えるのだが、地面に記した呪文を消されてしまえば無効化されるリスクがある。自然の力を得意とする精霊ならば、草木を急成長させることでそれも容易いはずだ。

「まっ、やっぱり――」

 アズランドは投げやりに肩をすくめる。次の瞬間には、両手で片手剣ショートソードと拳銃をそれぞれ握っていた。

「こっちでいくことにする」

 リザに向かって、苦笑するアズランド。

「知ってたよ」

 半ば呆れたように笑い、リザは武器を咲かせていった。両手の甲で生えた結晶が、刃物じみたかたちで形成される。背中から翼が輝くことはなく――これがさんざん言い含められた必要最低限のリザの武装だった。

「先陣は俺が切るから。キミは自分の身を守ることを優先するんだ」

「それも知ってるよ」

 リザが冷めた澄まし顔になるのを見届けず、アズランドは走り出した。

 前方の木の精霊トレントを標的にした。トレントは接近するアズランドへ、枝から複数枚の葉を放った。

 ただの木の葉――であるはずはない。直感ではなく、それらから微細な魔力を感じたからだ。

 アズランドは油断なく、投げナイフさながらに飛んできたそれを、跳躍して避けた。そのまま木の葉たちは、飛んで行った先にあった巨岩に、切れ込みを刻んだ。魚に火を通しやすくするときのように。

「……だよな」 

 アズランドは空中でヒヤッとして巨岩を一瞥し、片手剣を逆手に持ち替えて落ちていった。落下先のトレントの顔面に、深々と切っ先を食い込ませ、縦に引き裂く。もがくようなこともなく、トレントは沈黙した。

 その片手剣を握る腕に、つるが長く伸びて絡みついてきた。

 引きずり込まれそうになるのに、アズランドは地面を踏みしめて抗う。蔓の出所に視線を向けた先で、ドリアードがこちらを見つめていた。目が合うと、邪悪な笑みを浮かべて舌なめずりをしてきた。

 ドリアードは気にいった男性を森に連れ帰ることがある――という書物の内容を想起し、アズランドは眉をひそめる。

「悪いけど、ほかを当たってくれ」

 美女と呼んで差し支えない顔に、アズランドは右手の拳銃を突き出した。発砲音が鳴り響き、ドリアードは誘惑の笑みのままで、倒れ込んだ。

 魔術をお見舞いしたうえで、大立ち回りしてみせた甲斐があったか。アズランドは、すっかり精霊たちに取り囲まれた現状で、上手くいっていると前向きに捉えた。

 リザのほうへ意識を向ける精霊は、皆無だ。なら存分に――真っ向からアズランドは突っ込んだ。

「草刈り当番は嫌いだったんだ」

 愚痴っぽい声でアズランドは言う。魔力を付与したことでより蒼々と輝く刃で、トレントの口を貫通させながら。

「孤児院でよく、押し付けてくるやつがいてね」

 不満そうに言い足すと、手当たり次第に、ドリアードの顔面に発砲をつづけた。

 五体のドリアードたちがバタバタと倒れ伏し、僅かな時間を置いて、片手剣に貫かれたトレントが傾ぐ。ズシン、と大きな音を立てた。

 さらに一体のトレントを水平に斬り裂いて切り株にした。と、アズランドはそこでハッとなる。

 残るはドリアードが二体とトレントが一体までに数は減っていたが――恐れをなしたのか、ドリアードたちが逃げた。否、リザのほうへ迫っていった。

「くっ……!」

 慌てて弾倉を廃棄し、六発を装填して拳銃を構える。が、最後の一体のトレントが立ち塞がり、射線を遮られた。しかもそれは、他の個体よりも幾分か巨大である。

「邪魔だ! 退けよっ」

 アズランドは怒鳴り、そのトレントに渾身の魔力を込めて斬撃を浴びせた。分厚いその身に何度も。四度目にして、巨木が活動を停止した。

「リザ!」横を通り抜け、アズランドは叫んだ。

 リザは一体のドリアードと交戦中だった。もう一体は、その近くで片腕を無くして転がっている。

 リザが倒したのか――駆けながらアズランドは意外な顔になる。

 言いつけ通り、リザは手の甲から刃物状に結晶だけを展開させて、戦っていた。

 ギルドの組員にも、手の甲にナイフを備えて戦うのを得意とする者がおり、彼から手解きを受けた話はアズランドも聞いている。だが、実戦で通用するまでかどうかは、不明だった。

 それが今、明白になった。十分に実戦に耐える腕前だと。

 小柄な体躯を活かし、姿勢を低くして巧みに素早く動き回り、ドリアードを翻弄している。称賛の言葉が幾つか脳裏に浮かんだが、拳銃を仕舞いアズランドは口早に魔術の呪文を唱えた。

穿うがて、魔閃耀ヘルツ・ソウェイル

 伸ばしたアズランドの右手から、青白い魔力の光が放たれる。

リザと交戦中のドリアードの背中を、焼ける音を伴い、投げた槍のように貫いた。

 倒れたドリアードの向こう側で、びっくりした顔のリザに、アズランドは手を振りかけた。しかし、リザが握り拳のまま右手を突き出すのを目にして止まった。リザはさらに左手で右手首を支え――その動作でアズランドは理解した。

 刹那、リザの右手の結晶が虹色に瞬く。虹の矢が、アズランドの頭上を通り抜けていった。

 アズランドは片手剣を斬り上げながら背後を振り返ったが、それは空を切った。すでに、再活動していたトレントは大穴を空けて仰向けに傾いでいくところだった。

 ズン! と振動が起きたのを最後に、あたりは静かになった。

 アズランドはリザを見遣った。リザもアズランドを見ていた。

 沈黙がつづいた。先にリザがそれを破った。

「アタシは𠮟られるの?」

 口調に少しおどけるような含みがあった。アズランドの返事を促すように、似た調子で言った。

「それとも褒めてもらえるの?」

 まさしく、アズランドはそのどちらも考えていたところだった。

「総合的判断で、百点満点にしておくよ」

 アズランドはばつがわるそうに告げた。

 「えへへ」と照れくさそうに微笑むリザに、アズランドは胸を締め付けられる感覚を覚えた。

 馬鹿か、俺は。アズランドは胸中で自らを詰った。幾分、マシになった気がする。身勝手な思慕の念を静める作用はあるらしい。

「大馬鹿野郎……」

 まだ足りないと思い、実際にぼそっと声に出した。嚙み締めるように。



 アズランドとリザが、生きた森リビング・フォレストへ入り込んでから、どれだけになるだろうか。

「そこらへん、木の根が多いから気をつけるんだよ」

「うん」

 黒く昏い森は日中だというのに薄暗く、灯のない地下道を行くより多少は明るいという具合だ。

「どこかに、森に悪い影響を与えている存在がいるはずなんだ」

 手近な木の幹に、ナイフで浅く切り込みを入れながら、アズランドは言った。帰り道の目印だった。

「どんなのがいるの?」

 リザが訊いた。好奇心と恐怖心を二等分にしたような声音で。

「こういった異常は、強大な力を持つようになった魔物が住み着いたことで起こるのが相場――らしいけど」

「強大な魔物……」

 想像を膨らませたのか、リザはおっかなそうな表情になっている。

「ロウェルたちが相手にしているドラゴンよりは強大でないことは保証するよ」

 「アハハッ」とアズランドは苦笑交じりに笑い声を上げた。おおかた、エルダー・アルラウネあたりと目星をつけていた。手強いことに変わりないが――

 アズランドの手に余るようなら、リザが妖精宝珠スプライトジェムの能力を開放することが許されていた。その判断を下すのはアズランドである以上、もちろん、そうさせるつもりはない。先ほどの例外は置いておくとして。

 そう、あれは例外だ。アズランドが判断を下せない状況に限り、リザの自己判断で能力を行使していいことになっている。要するに、アズランドが意識不明に陥った状況などである。

 ……格好つかないな、それは。

 アズランドは眉を寄せて想像してみた。とはいえ半年前、リザに何度も窮地を救われた記憶が蘇り、今さら格好もなにもないかと自嘲しかけたとき――

「あれは……沼地か?」

 不意に視界が開けて目を細めた。

「でも、なんだか変だよ」

 リザも敵視するような目つきで言った。

 沼地の表面はまるで黒い大理石のように見えた。線状のなにかが広がっているからで――二人は近づいて、それがいばらであると気づく。沼地の全域をびっしりと埋め尽くすように。

 ついで、もっとも目を引くものに、アズランドは視線を向けた。

 天を仰ぐように咲く巨大な花に。この森と同系統の色の。

「あれって、花――だよな」

 アズランドは訝しげに言っていた。隣のリザにはどう見えるのか、知りたかった。

「お花だね。……こんなに大きなの初めて見たよ」

「ああ、俺もだ」

 頷いてアズランドは、荊の上を靴先でつついた。踏んでも、沈むような気配はなさそうだった。

「キミはここで待っていても……」

 荊の上を歩き出しながら、後ろについてくるリザを目にして言い止した。

 あれが元凶なのか? 残り十歩ほどのところで、アズランドは腰から片手剣ショートソードだけを抜いた。到達すると右手で花弁のふちをつかみ、よじ登る。

 おそるおそる、なかを覗き込む。たちまち、アズランドは唖然となった。

 一人の女性が眠っていた。スースー気持ちよさそうな寝息を立てて。

 濡れたような艶やかな長い黒髪。端正な眠り顔。衣服はドレスのようだったが、エリーゼと比較すると控えめというか、古風な感じがした。

 アズランドは一瞬、くらっとした。奇妙な感覚に頭を振る。眼前の女性が漂わせる色香のせいだとは、意識になかった。それ以外の由縁を知ることも、今のアズランドには不可能な事柄だった。

「アズってば!」

 リザが先ほどから、手を貸してほしそうに何度も呼び掛けつづけていたのだが、アズランドは反応できないでいた。痺れを切らしたのか、彼女は荊のうえを蹴るという危険を冒して上がってきた。

 そしてリザもまた、謎の女性を見て呆然となる。目を瞬かせると、自然な疑問を投げた。

「だれなの?」

 俺が訊きたいところだよ、とアズランドが口に出しかけたとき――眠り姫が動いた。

 もぞもぞとした様子で瞼をこすり、大きなあくびをするさまを、二人して見守っていると、見下ろされている視線にやっと気づいてくれたらしい。

 しばし考える素振りをしたかと思うと、

「おはようございます」

 思い出したふうに、二人へ笑顔で挨拶をしたのだった。まだ眠そうな、とろんとした声音で。

 アズランドとリザは顔を見合わせ、もう一度、視線を落とす。気持ちよさそうに背伸びしながらあくびをする、花のなかの女性を眺めていた。

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