4
揺れる馬車の荷台に腰掛けて、エリーゼは膝の上でぎゅっと拳を握った。
曲がり角を一つ曲がれば、王宮への門が見えてくる。落ち着いて、上手くやるのよ――胸中で、言い聞かせたとき、
「今日は、馬車での移動かい?」
爽やかな声が、胸の奥底に
荷台から視線をそちらに移す。アズランドが、通りの端っこで腕を組んでいるのが見え、
「少し、止めてちょうだい」
御者台の従者にエリーゼは告げた。
停車した馬車にアズランドが近づき、軽やかに笑いかけてきた。
「やあ、お姫様」
「……なんの用? 今日はあまり、あなたと話したくないんだけど」
荷台の上からエリーゼはやきもきしながらアズランドを見下ろす。目を合わせると、アズランドが察したように、言った。
「さすがのお姫様も、平常心ではいられないか」
途端、エリーゼの目の奥で、警戒の光が鋭くなった。
果たして、表情を引き締めると、アズランドはしゃんとして、こう告げてきた。
「キミが傷ついたことを知れば、ロウェルも深く悲しむんじゃないかい?」
エリーゼは打ち震えた。そして、アズランドをきつく睨んだ。
「ダメ」
「……お姫様?」
「ロウェルには、絶対、教えないで」
静かに、しかし決定的な響きを伴い、エリーゼは伝えた。それだけは許さない――と、鬼気迫る顔でアズランドを見詰める。
アズランドはしばし呆然となり、やがて感服したような表情で、
「そうまでして、キミが
「いいのよ。これは、必要なことなんだから」
「必要?」
「ええ。これからのためにも、ね」
「
アズランドは、重苦しそうにつぶやいた。苦笑し、
「わかった。
投げやりに肩をすくめた。
「そういうこと」
きっぱりとエリーゼは答えた。ふと考え、
「でも、まっ……少しだけ気が楽になったわ。ありがとう」
本当にちょっぴりだけ、笑ってあげることにした。
「それでは、お気をつけて。お姫様」
負けじと微笑み、アズランドが大袈裟かつ慇懃な所作で一礼した。この手のユーモアや揶揄は、もしかしたら彼なりの気遣いなのだろうか。
なんとなく、エリーゼはリザの愛読書を思い出した。ちょっとした
「アズランド」
「なんだい?」
「ちゃんと名前で呼びなさいよ」
そんな今更だな、と言いたげな表情をアズランドが何拍か浮かべる。ややあって、注文通りに応えて頭を垂れていた。
「ごきげんよう、エリーゼ姫」
「ごきげんよう、騎士様」
面食らった様子でアズランドが顔を上げたときには、馬車はもう曲がり角を曲がり切っていた。
「……騎士様?」
玉座の間で控えていた大臣のうち一人が、ひっそりとため息をついた。無意識にしたものらしく、憂い顔で玉座の様子を窺い、今度は安堵の息をこぼした。
丸々と太った
「ううむ。今夜はだれにするかのう……」
シワだらけの顔に
赤髪の妾がたっぷり愛想を込めて微笑むが、気乗りしない様子で、ペーターソンは視線を移した。
もう一方の妾が、豊満な胸を揺らし、応戦する。
「今日はアタシとって約束したではありませんか~」
ペーターソンは両脇の妾を交互に眺めた。そして、興味を失ったように言った。
「そろそろ、飽きたのう」
愕然とする妾たちをよそに、
「おおっ! そこのお前、案外ええのう」
凛と佇んでいた従騎士の娘を目に留め、はしゃいでいる始末だ。
「
小走りにやってくるペーターソンに、従騎士の顔がたちまち
「おやめください。彼女は、私の付き人です。いくら、王といえど……」
重厚な鎧に身を包んだがっしりとした体格の男が、あいだに割って入り阻む。如何にも老練といった様相――騎士団長のオネストであった。ペーターソンが見る間に機嫌を悪くし、怒鳴り散らす。
「なんじゃい! どうせお前だって、隠れてその
「……王よ。あなたがこの国の王であるように、私もまた、騎士団の
「ぐぬっ。剣を振り回すだけの、時代遅れの兵隊どものくせに……!」
「たしかに、クノッヘン卿は数々の変革を巻き起こされた。
眼光に迫力を
「我々騎士団と魔導士たちが戦線を支え、
「な、なんじゃと……! 貴様、だれに向かって……」
「今一度、王たる自覚を持たれよ。そう、申しているのです」
最初にため息をついていた大臣が、
思わぬ朗報に、
「国王様……お耳に入れたいことが」
使いの者から聞いたことをそのまま伝えた。
「なぬっ⁉ エリーゼが……‼」
玉座の間に、ペーターソンのダミ声が大きく響き渡った。
王の寝室は、広いが薄暗かった。
豪華なシャンデリアが天井高くに吊り下げられているが、照明は控えめだ。それも電球ではなく、蠟燭の火によるものである。
ふと、勢いよく扉が開き、蝋燭の火がわずかに揺らいだ。
「エリーゼよ、どこじゃ? どこにおる?」
扉を荒々しく閉め、ペーターソンがあたりを見回す。
華やかなベッドの
「お久しぶりです、
天蓋の内側から、エリーゼが言った。極力、気を引かせるような
「まったくじゃのう。ちっとも顔を見せぬで。今日はどういう風の吹き回しじゃ」
鼻息荒く、ペーターソンは浮かれていた。見計らい、エリーゼはドレスに触れ、
「この度は、お願いしたいことがありまして、こうして内密に参りました」
時間をかけて衣擦れ音を交えて申し出た。
ペーターソンがごくん、と唾を呑む音が否応なしに聞こえた。間近に迫って来ているのが、影の動きでわかった。
エリーゼの身体が震えた。
嫌悪感から。
逃げ出してしまいそうになる――それがなにより、怖かった。
“平たく、上も下もなく”。
呪文めいた言葉が、胸に刻まれていく。
こんな悲しみを抱える女の子が、この街にはごまんといる。
知らなければ。変えなければ。正さなければ。
この血を
目前にペーターソンの影が差し掛かり、エリーゼは唇を噛んだ。震えをかろうじて抑え込み、だれかさんを真似た微笑で身構える。
「おうおう、申してみよ。なんでも聞いてやるわい」
「実は……」
〈格安料理屋トラヴァー〉の店先を照らしていた街灯が光を失う。
やや遅れて店内の電球もただの硝子玉へと成り果て、店じまい中のウエイターが
「とっくに営業時間過ぎてるんですけど……」
アズランドが、苦笑して応じた。
「悪いね。もうちょっとだけ、人を待たせてくれないかい?」
「すぐ来るからっ。頼む!」
さらにロウェルが両手を合わせて頼み込み、
「お、お願いします……!」
リザから必死に懇願されたウエイターは、困惑した顔を店主へ向ける。
「ワシが一服し終えるまでには、帰んな」
言って、煙草を咥える。渋々、ウエイターは角灯をロウェルたちの座る卓に置くと、新たな角灯を腰に提げ、雑多な後片付けに着手していった。
「ありがとう、マスター。恩に着るよ」
アズランドが述べた感謝に、店の主がフン、と鼻を鳴らしたところだった。
ドアベルの音が響いた。
こぞってそちらを振り向き、ドアの前の暗がりに佇むエリーゼの姿を見た。
「お待たせ。……思いのほか、説得に時間がかかっちゃって」
出迎えに寄って来た三人に、エリーゼは淡々と説明した。
「上手くいったんだな。やるじゃんっ」
ロウェルが、いの一番に褒め称えた。さらにリザの感激の声が弾んだ。
「ありがとう、エリーゼ!」
「ええ、三日後。クノッヘンは式典に列席しているわ。……そう、約束を取り付けたから」
アズランドは、口を開いたまま、言い淀んでいた。お姫様の意を汲むならば――
「とにかく、そんなとこに突っ立てないで座れよ。まだ、マスターも煙草吸ってるし……」
ロウェルがエリーゼへ手を伸ばそうとした段になって、
「今日のところは、もう解散しよう。お姫様も、だいぶお疲れだろう。……滅多に会わない王様と話し込んできたんだ。なかなかに、
アズランドはロウェルの肩を叩いて、首を横に振る。
「そうね。そうさせてもらおうかしら。……なんだか、とっても疲れたわ」
訝しげな顔つきをしたが、ロウェルは納得したようだ。
「そっか……。夜も遅いしな」
「ええ。リザ、行きましょう」
「うん。ロウェルもアズも、またね。おやすみなさい」
エリーゼに連れられてドアをくぐり抜ける前に、リザが手を振った。
「おう、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
ロウェルとアズランドがそれぞれ返していた。
横目でロウェルを見遣り、アズランドは胸中でそっとつぶやいた。
あのお姫様なら、手段を選ばなければ、もっと違う方法だってあったはずなんだ。それなのに――手段を選んだ。そうでなければ、ロウェルの道から外れてしまうからなんだろう。
アズランドの目が、眩しそうにふっと細くなった。
※
ねぐら内でロウェルは、作業台の上の杭打ち機と格闘していた。剝き出しになった内部の目に付いた汚れを拭き取り、油を塗り込む。
夕刻を告げる鐘の
「うしっ。こんなもんかなー」
ふう、とロウェルが満足げに息をつく。工具を手離し、杭打ち機に蓋をして、固定する。
杭打ち機の手入れも日課の一つだが、今日はとくに念入りにしていた。
明日はいよいよ、建国記念式典の開催日である。
さすがに明日ばかりは、日課の一日百善をこなそうと思ってはいない。リザの姉さんを救い出せれば、それを果たすのと一緒だと思うようにした。
絶対に助けて、再会させてあげないとな。
覚悟を込めて笑み、ロウェルは、杭打ち機の握り手を引き上げていった。
重い鋼鉄の内部で、キリキリと“歯車が回った”。
※
といっても、看板など掲げておらず、出入口にスーツ姿の屈強そうな男が一人、突っ立っているだけだ。
そんな知る人ぞ知るカジノへ、夕暮れ時にエリーゼは訪れた。スーツ姿の男が、会釈をするが、素通りして階段を下り、扉を開けた。
途端、カジノの喧騒が、エリーゼの耳を打つ。
大勢の客の歓声と嘆きが入り乱れた空間を肌に感じ、歩む。顔に興味は微塵も表れていなかった。ギャンブルに対する熱意など毛ほども感じさせない涼やかな眼で、そこにあったルーレット台に寄っていった。
ディーラーに金貨を数枚差し出し、代わりにチップの束を眼下に重ねさせる。
ちょうど、ディーラーの一人であるスピナーが手を掛けて、ルーレットが円を描きはじめた。
チップを握りしめ、回転を見つめた。この世界で、もっとも等しくあるものを。“運”だけは、だれにとっても、平たくあると信じていた。
幸運も悪運も。偏りはあれど、いずれどこかで
ほかの客たちがチップを賭けるなか、エリーゼは、胸中深くで考えを巡らせていた。
このあいだ差し出した
赤の0に一点にすべてを賭けた。
祈りも願いもしなかった。あとは、ロウェルたちを信じるだけでよかった。
“ルーレットはしばらく、回転を止めることはなかった”。
※
「……さて、そろそろ行くよ」
アズランドは墓標に触れ、柔らかく微笑んだ。
墓標にはミリア・アイディールと名が記してあり、置かれた白い花束が風に揺れている。
立ち上がろうとした際、手が腰のホルスターに当たった。おもむろに、アズランドは、拳銃を抜いた。
弾倉を開き、装填してあった弾丸を、
がらんどうになった六つの穴を、じっと見ていた。
そこに顔を見た。一つの穴に、一人ずつ。
ミリア。リザ。ロウェル。エリーゼ。クノッヘン。そして、自分自身が、いた。
ジャケットの内側から弾丸を摘まみ、一発だけ装填した。自分の顔を押し潰すように。
そして、弾倉を閉じて、力いっぱいに回転させていった。
近頃、流行っているくだらない遊びを、アズランドは思い出した。馬鹿馬鹿しい度胸試しの噂を。
何気なく、そうしてみただけだった。回転を眺め遣り、思案した。
銃口を自らのこめかみにあてがい、一度だけ、引き金を引く――それを試みたくなるのだろうかと。
思いのほか長く、“弾倉は回りつづけた”。
※
虹色に瞬く空間を、リザは独りで
まるであの虹の大樹の
いつの間に、ここへ来てしまったの? リザは心細くなって、自らの肩を抱きしめた。
初めてこの場所に入り込んだときも――はぐれてしまい、涙ぐんだことが脳裏に蘇る。
「お姉ちゃんっ! どこにいるの⁉」
耐えられなくなり、そのときのようにリザは叫んでいた。虹の輝きに、虚しく木霊し、やがて消えた。
妖精たちはなにも答えてくれない。リザを避けて飛んでいく。
「お姉ちゃん……」
寂しさから願うように呼んでみた。すると、リザの眼前で、周囲の妖精たちが見る間に集約し始める。それはリザによく似た姿に具現化した。
リザより頭一つ大きく、背に長髪を流した少女――
「お姉ちゃん⁉」
目を見張り、リザはそちらへ身を寄せようとした。
「ダメ」
姉は、頭を振った。つよく拒絶するように。
「お姉ちゃん?」
リザは訝しんだ。いくら近づこうとしても、距離が縮まることがなかった。
「来ては、いけないの。私が器としての役目を果たせば……そのときは、あの人にとって、あなたは完全に用済みになってしまうわ」
「だ、大丈夫だよ! 助けてくれる人たちがいるの! みんなね、とっても、頼りになるんだよ!」
精一杯、安心していいんだよ、とリザは伝えようとした。けれども、姉は失意の色濃い笑みを口元に刻んだ。
「……そう。だったら、その人たちと遠くへ、行きなさい」
「どうして⁉」
リザが泣き叫んだ拍子に、姉の姿が虹色に染まった。
「……私が私であるうちに、あなたを遠くに連れ出してあげたかったのだけど――ごめんなさいね」
悲しそうな声が聞こえ、その身体が無数の妖精たちとなって散り散りになった。
悪夢が崩れ去っても、リザは目を覚まさなかった。
エリーゼの屋敷で貸し与えられた部屋のベッドで、うなされたように身をよじり、無意識に強く胸元の
沈むような藍色に染まっていた。
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