3

 諸々もろもろの作戦会議は、いつもの〈格安料理屋トラヴァー〉で行われることになった。

 忙しなく調理をこなす強面こわもての店のあるじも、せっせと料理を運びながら注文を伺うのに追われるウェイトレスやウェイターも、ロウェルたちがいつもの卓に陣取り、

「んで、いつ、そのクノッヘンって野郎をぶっ飛ばすんすか?」

 そんな物騒なくわだてをしているなどと、だれも気づく者はいなかった。店内は昼食どきの真っ盛りで、がやがやしている。

「もう少し声を落としなさいって……」

 エリーゼが呆れて注意を促す。アズランドは口の端に笑みを溜め、

「堂々としていたほうが、案外バレないさ。聞こえても、ロウェルが言うなら、与太話よたばなし程度にしか思われないだろう」

 茶化し終えると、真面目に告げていった。

「十日後の建国記念式典……。実行するならそこだ。式場はいつも四階の大広間ホールもよおされている。地下への出入口は一つしかない上に、式場からはだいぶ離れていて、好都合だ」

 王宮の見取り図を卓上に広げ、アズランドは二箇所を指で叩く。その様子にエリーゼは、呆れと軽蔑けいべつを一緒くたにした視線を注いだ。

「どうして王宮の見取り図をあなたが持っているのかしら」

「なにかと嗅ぎまわっていると、王宮務めの知人からもひどく警戒されてしまってね。内部情報を得る奥の手として、とある筋から買い取っていたものさ」

 軽々と笑んで、アズランドがエリーゼへ言って返す。

 エリーゼは違和感を覚えた。

 その正体が拍子抜けだと、察するまで時間を要した。

 いつもなら、この優男は、もっと皮肉めいたべんをするはずだった。言い換えれば、手応えがないのである。

 はたと気づいた。あの脆そうな笑顔を、張り付かせていないからかと。駄目押しにエリーゼは、突っついてみる。

国家転覆こっかてんぷくを起こすような危険人物って、あなたみたいのを言うのかしらね」

「そんな度胸や器量が、俺にあると思うかい?」

 アズランドは隣に座るリザにちらりと目を向け、苦笑した。

「よくわからない」

 リザがきょとんと首を傾げた。二人の会話をよく理解していない顔だった。それでも頑張って考えたようで、口元を綻ばせて言った。

「でも、アズならできるかも」

「……キミもなかなかどうして、手強いな」

 思いがけない難敵に、アズランドは困り顔になる。コホン、と咳払いをして見取り図へ再度、視線を落とす。

「そして、唯一ゆいいつの突破口となるのが――これだ」

 地下にある東端とうたんの部屋を指で押さえた。そこから東へ細く長く伸びる部分に、すっと指を滑らせていく。

「なんすか? これ?」

 ロウェルが見取り図を難解そうに覗き込む。初めて料理の手引き本に目を通したみたいに。

「元々は非常用の逃走経路、だったんだろう。クノッヘンが牛耳ってからは、無用の長物として忘れ去られたか。んで、ここからフザン森林のなかにつづいているという寸法だ」

「ちゃんと繋がっているの?」

「確認はしたさ。森には王家にまつわる石碑が鎮座していてね。裏手を調べてみると、たしかに地下道が見えた」

 ただ、とアズランドは顔を上げ、

「この部屋がなんのために使われているのかが、懸念事項けねんじこうではある。キミなら、わからないかい?」

 リザのほうにアズランドは目を向けた。リザは思案にふけり、やがて思い出したように告げた。

「……たしかここは、資料室って場所。あの人がときどき出入りしてたよ。アタシは入ったことないから、なかがどうなってるのかまでは、わかんない」

 金貨だと思って拾い上げたら、銅貨だった。アズランドが、そんな中途半端な笑みを浮かべる。

「可もなく不可もなし、かな。人の出入りはそれなりにありそうだ。乗り込んだ先で、出くわさないことを祈ろう」

 いずれにしても、と笑みを消し、

「問題はアイツがそこに列席するか否か、だ。お姫様がこの建国記念式典に出たことはないかい?」

 表情を引き締めて、アズランドはエリーゼに尋ねた。

 エリーゼは当時の式場の絵図を記憶から引っ張り出す。よけいな記憶まで紐づいてしまい、曇りがちな表情でこう告げた。

「少なくとも、五年前のときはいなかったと思うわ」

「なあ、どうかしたか?」

 ロウェルが、悪い物でも食ったか? というふうに、エリーゼの顔を覗き込む。紐づいた記憶の一部で妙にかっとなってしまい、

「いいえ、べつに」

 と、目を合わせないでおいた。

「ひょっとして、あんときのことを思い出したのか?」

 不意打ちに等しかった。エリーゼは狼狽ろうばいして叫んだ。

「はあっ⁉ な、なんでよ。って、アンタ、覚えてたのっ?」

「そりゃだって、おまえ……泣いてたじゃん。顔真っ赤にして」

 確固とした調子で、ロウェルは言う。まざまざと思い出しているようだ。

「な、泣いてないわよ! 真っ赤でもない! ……たぶん!」

「たぶんっておまえ……」

 ピンときた様子で、アズランドが微笑ましげにつぶやく。

「そういえば、五年前の同じ日だったか。大規模な暴動があったのは。……なるほどね。お姫様のハートを射止めるわけだ」

「二人って恋人だったの?」

 リザはびっくり仰天して目を瞬かせている。面白がり、ここぞとばかりにアズランドは装飾していった。

「いやいや、もっと尊いご関係じゃないかな。お互いのことが、言葉を交わさなくともわかってしまうのさ」

「マジにぶち込みますよっ」

「本気で引っぱたくわよっ」

 ロウェルとエリーゼが屹度きっとアズランドを睨んだ。怒鳴り声は重なり、手を振り被るタイミングも、まったく一緒だった。

「あながち、間違ってもないと思うんだけど……いや、ごめん。少なくとも、ロウェルのは勘弁かんべん願いたい」

 顔面蒼白でへらへら笑い、アズランドは両手をゆっくり上げていた。

 十数えるくらいして、ようやく二人とも退いた。

 ロウェルがむすっと、右へ顔を逸らして。

 エリーゼがぷいっと、左へ顔を逸らして。

 アズランドはほっと胸を撫でおろした。そして、肝心なところへ話を戻した。

「とにかく。クノッヘンが地下に引きこもっているとなると……なかなかに厳しいな」

 悩ましげにアズランドが腕を組み直し、見取り図を見つめている。

「なんでっすか?」

 その見取り図とアズランドを、ロウェルは視線を行ったり来たりさせた。

「前にも言ったが、アイツは錬金術師であり宮廷魔導士でもあるんだ。この国の魔導師団のトップということさ。それに、魔導士協会から、最高位の称号であるグランドマスターの称号を授与されてもいる。……それは、七神の魔術すべてを扱えることを証明するものでね」

「んと、つまり?」

「勝算は薄いな」

「魔術とか使われる前にぶん殴れば、どうにかなったりしないっすか?」

 アズランドは眉間に中指を押し当て、しばし唸る。そして、指を離すと難色を示した。

「たしかに、魔術の発動には時間を要するものだけどね。地下はアイツの根城ねじろだ。取り巻きは多いだろう。仮面付きの私兵はもちろんのこと、やつの人造人間ホムンクルスも残っている。……場合によっては、リザの姉さんだって、敵対してしまう可能性も考慮すべきだ」

「お姉ちゃん……」

 見る間に不安を顔に表すリザを見て、アズランドが気まずそうに微笑した。

「そうなったとしても、なんとかしてみせるよ。多少の無茶は覚悟の上だし」

「無茶はしちゃダメ。アズ、死んじゃうでしょ」

 うー、と威嚇する子猫みたいな唸り声をリザは発しつづけている。アズランドはリザの頭に手を乗せて、

「なんだかんだで、こうして生きてるだろう? まあ、キミたちのおかげなんだけども。大丈夫、死にはしないさ。死ぬとしたら、ロウェルに本気で殴られたときだろう」

 本当は物分かりの良い子猫のはずだろう? と含む感じに、優しく言って聞かせた。

 そのとき、ばん! とエリーゼが卓を叩いた。後方で控えていたフラワーゴーレムが、異常事態と誤認して近寄ってくるほど響き渡っていた。

「その日にクノッヘンさえいなければ、上手くいくのでしょう?」

 三人が目を丸くするのを見回して、エリーゼは尋ねた。

「ああ、それならばまだ、算段はある。けど……」

「どうする気なんだよ、おまえ」

 アズランドの代わりにロウェルが問う。リザはその剣幕に唖然となっていた。

「やってあげるわよ。この私が」

 不敵な表情で、エリーゼは宣言した。



「わぁ……!」

 リザが綺麗に磨いた翡翠ひすいのように、瞳を輝かせた。ぐるりと、その場で一周し、自分の背丈の三倍はある本棚の数々に、感動している。

 エリーゼの屋敷には、街にある図書館と比べても遜色そんしょくないほどの書物が眠っていた。生前祖父が趣味で集めたものらしく、エリーゼも幼い頃には、たびたび利用させてもらったものだ。

 書庫の扉を閉め、たくさんの本ではなく、エリーゼはリザの後ろ姿を眺め回した。

 今のリザの服装は、数日前にエリーゼが買い揃えたものの一組だ。

 セーターの上に、胸元のリボンがアクセントのダウンジャケットを着こんでいる。総体的にこぢんまりとした装いであり、パンツルックなのも相まって、活発的な女の子といった趣向しゅこう

 この数日、愉しくなってあれやこれやと着せ替えたりしたものだ。アズランドの揶揄やゆした着せ替え人形という言葉は、忘却の彼方にあった。

 けれども、頑なに髪飾りだけは、外したがらない。

 それだけで、察しはついた。よほどお気に入りらしく、本当に、あの優男のことが好きらしい。

 見守っていると、リザが梯子はしごを昇り、手を伸ばしてつかんだ本を落っことした。

 彼女が下りて来る前にエリーゼは本を拾い上げ、ぱたぱたと軽くはたく。

「そんなに本が好きだなんて、思わなかったわ」

「あの人、読み書きは教えてくれたの。街は出歩かせてもらえなかったけど。部屋に置いてある本は、どれでも読んでもいいって」

 少しはじょうのようなものがあったのかしら――以前、遠目に見た不気味なクノッヘンから感じたものとは、やはり齟齬そごが生じる。

 判然としないことはともかく、エリーゼは本を差し出した。

「ありがとう。アタシこの本、大好きなんだ」

 本を抱きしめて、リザは愛着が窺えるような微笑みをこぼす。

 ふうん、とエリーゼは視線を表紙へ落とした。十年くらい前に一部・・に流行ったものだった。悲恋で幕を閉じる物語。

「それ、けっこう悲惨なお話よね」

 一通り読んだ記憶はあるものの、夢中になれず、悲惨の二文字でしか表現が浮かばない。

「お話は悲しいけど、好きなの。応援したくなる人がいるから」

「たしか、敵国の間柄である王子と王女が、恋に落ちて、運命に抗うとか……そういう流れだったわよね。最期は愛を誓いながら心中しんじゅうだったっけ」

「うん。すっごく、悲しかった」

「応援したいってのは、その王子様ってわけね」

「えっ?」

「あら、違った?」

「違うよ。アタシが応援したいのは、騎士様なんだ」

 そういえば、その物語には、王女に忠誠を誓う騎士がいた。

 王子と王女の関係を知りながら助力する騎士で、板挟みに遭ったり、挙句に騎士団から除名されたりと、これはこれで散々な役回りの人物である。

 リザが抱く本の表紙絵に、王女の背後に控える騎士の姿が描かれてあり、エリーゼはちらと目を向けた。

 勇ましいというよりは、温和おんわな顔立ちだ。やはりエリーゼには、なぜか、あまり良い印象を抱けなかった。髪型もつい最近、よく似た人物がいたような気もする。

 ナーバスなくせに、平気な顔して、傷心してるようなやつ。

 ああ、あの優男・・よ。至極しごくに落ちてしまい、思わずエリーゼの口元が緩んだ。

「憧れの騎士様と重ねちゃったわけだ」

 敢えて、リザの耳元で囁くように言ってみた。

 たちまち、火にくべた薪の如くリザの顔が真っ赤になる。

 ほんと、わかりやすい子。我慢できず、緩んでいた口からぷっと吹き出してしまうエリーゼ。

「なっ、なに言ってるの。違うよ、アズはそんなんじゃ――」

 リザは泣きそうな声音で、勢いよく頭を振っている。

 エリーゼは、ちょっとだけ、意地悪いことを吹き込んでみたくなった。

「アイツを狙ってる女の子、それなりにいるみたいだから、出遅れないことね」

 この世の終焉が明日であると神様に予言されたみたく、リザは愕然となる。ややあって、ぼそりと言った。

「……どうすればいいの?」

 無表情なのに、声音が殺伐としているぶん、なんだか凄みがある。ともすれば、そんな予言を下した神様に前言撤回させに行くくらい、まったくいとわないという具合に。

「が、頑張って。たぶん、ほかの子よりは……先制点あるわよ?」

 さすがのエリーゼも、たじろぎながら言葉を選んでいた。

「本当?」

「私の見立てでは、ね」

「そっか。うん。頑張ってみる……」

 リザは迷いつつも、安堵を覚えたようだった。

 エリーゼはエリーゼで、その何倍もほっとしていたが。

 そして、リザが愛読書を開き、パラパラとページを捲った際に見えた表紙絵の騎士に、

「頑張りなさいよ、騎士様」 

 アズランドの影を重ねて、リザには聞こえないようになじった。

 それは私も同じ、か。

 国王の嫡男であるケートネスとの面会の予定が、明日に控えていた。



 鉄筋の残骸に背を預けていたアズランドが、悪寒のようなものを感じ、ぶるっと震えた。

 ちょうど、珈琲を一口ほど飲み込んだところで、危うくすべて床にぶちまけるところだった。

 ロウェルのねぐらである小屋に、アズランドはいた。

 借りていたアパートメントは、半壊したままで、修繕作業も時間を要するらしい。ロウェルの好意に甘えて、厄介になってから、五日ほど過ぎた夜半前である。

「どうかしたんすか?」

 きょろきょろとあたりを警戒するアズランドに、ロウェルが不思議そうに首を傾げた。

「なんでもない。なんか、お姫様の小言のようなものを聞いた気がしてさ……」

 気のせいにして、アズランドはロウェルに向き直る。ロウェルが、「ははっ」と笑った。

隙間風すきまかぜのせいじゃないっすか?」

「……かもしれない」

 アズランドは、ずずっと珈琲をすすり、

「そういえば――」

 この前のロウェルたちの悶着もんちゃくを思い返しながら、訊いていた。

「キミとお姫様の関係は、どこまで進んでいるんだい?」

 ロウェルの表情が、硬くなった。謎々でも吹っ掛けられた感じに。

「どこまでもなにもないっすよ」

「なるほど。至って健全だ」

 アズランドは苦々しく笑う。お姫様も手を焼くわけだ。

「日々の日課に追われ、色恋いろこいなんてどこへやら――なのは見ていてわかるがね」

 ロウェルがちょっと、小うるさそうな顔つきをした。悪巧わるだくみを閃いた子供のように、言って返した。 

「アズさんのほうこそ、リザのこと、もっと気にかけてあげたらどうっすか」

 アズランドは珈琲を飲み干し、渋い顔で漠然と思った。もっと砂糖を入れておくべきだったな、と。使い古されたカップのこびりついた汚れを目に留めながら、言った。

「恋は盲目って言うだろう。……とくに、初恋ってのはさ、輪を掛けて厄介なものさ」

「リザのがそれっていうんすか?」

「経験上、そう思うだけさ」

「アズさんの場合、どうだったんすか?」

「さあ、どうだったかな。今なら、気の迷い・・・・で済ませられるのかもしれないが」

 うそぶいてみた裏側で、ミリアに抱いていた想いにどう名前を付けるべきなのだろうと考えていた。好意の行き着く先はなんだったのか。どこまで行っても、自分は弟扱いされるばかりだった気がする。そして、それにひどくすがって、満足していたのだから。

 自嘲気味にアズランドはフッと笑った。脳裏に描きかけたものを綺麗に流し去ってから、カップをそばの小棚の上に置くと、

「それよりも、気がかりなのはお姫様だ」

 両腕を組み、思案顔になる。いたずらっ子の顔から立ち戻り、ロウェルが首を捻る。

「なにがっすか?」

「お姫様はアイツを式典に参列させるために、話を通すと言っていただろう? 王様にだ」

「べつに可笑しくないんじゃ? だって、エリーゼって王様の親戚でしょ」

「それはそうだが……」

 考えれば考えるほど、アズランドの表情が怪訝けげんな色を帯びる。

 あの裸の王様が、そう易々と嘆願に応じるとは、とても思えなかった。



 そこは優雅をテーマにしつらえれたような客間だった。

 広々とした部屋の隅に観葉植物が並んでいる。調度品の数々にしてみても、洗練されたものばかりで、派手さはないが小奇麗の一語に尽きる。

 ところどころ、たかの意匠が施されたものがある。それはこの邸宅の持ち主の趣味というよりも、国の象徴エンブレムがそうであるからだろう。

「しかし、驚いたよ。この二年、ろくに会ってもくれなかったというのに」

 卓を挟んでエリーゼと差し向っていた誠実そうな青年が、ゆったりとした口調で言うと、笑いかけてきた。

 エリーゼは、青年を全体像として捉えていった。

 金髪碧眼の端正な顔立ち。体つきはすらりとした印象。身なりは、伝統的な王家の正装だ。

 〈アッシュガルズ〉の王子、ケートネス・ガーランド――をエリーゼはまざまざと見た感想は、二年で人はそう変わるものではないということだ。いや、あっちのほうの優男・・を思えば、そうとも言い切れないか。ひっそり前言撤回して、笑みをおもてに出す。

 その笑顔を、ケートネスは好意的に受け取ったらしい。

「けれど、こうして会いに来てくれたということは……ついに、決心してくれたと思っていいのだね?」

 十年より前から、ケートネスとエリーゼには縁談の話が交わされていた。二人の間柄は、はとこに当たるのだ。年頃もケートネスが二十歳と近しい。

 血統を重んじる王族たちの間でも、妥当という後押しの声は多く――殊更、エリーゼの父母ふぼはそれを渇望かつぼうしてやまない。

 しばし、ときを刻んでから、エリーゼは唇を曲げた。軽薄けいはくな笑みのかたちになっていた。

「そうね。私も来年には、十八歳。大人同士、頃合いでしょうね」

「じゃあ……!」ケートネスが身を乗り出して喜ぶ。

「けれど」

 短く、エリーゼは強調した。より強弱を加えて、主張する。

「あなたはまだ、王子であって、王様ではない。その点は、どうなのかしらね」

 ケートネスが引っ込み、神経質そうな苦笑を浮かべた。歯噛みして、声を荒げる。

「僕では、相応でないというつもりか……!」

面子めんつを大事にしない人、嫌いなの」

 なるだけ冷ややかに聞こえるように、エリーゼは意識した。

「父上はあと十年は……いや、きっと、死ぬまで王位にしがみついているよ。母上が亡くなってからというもの、すっかり女狂いになってしまって――正直、見るに堪えないよ」

 いじけたような表情で、ケートネスはエリーゼを睨んだ。その目が悔しげに、どうしろと言うんだ? と問うてきたのを見計らい、

「あなたにその気があるのなら、良い話があるのだけど」

 エリーゼは悠々ゆうゆうと、提案を持ちかけた。

「いったい、なにを言っているんだ?」

 困惑で眉をひそめるケートネスの前に、エリーゼは封書を差し出す。ふと考え、念押しの勝ち気な笑みを湛えて、まくし立てる。

「王様になりたいのなら、これに目を通して。あなた一人で、ね。返事はいらないわ。私はこの通りに行動する。あとは、あなたが乗るかどうかのお話。……男を見せてちょうだい」



 〈ウォルスタンド〉の街は、日に三度、鐘の音色が響き渡る。

 八時に朝を告げ、十二時に昼を報せ、十七時に帰宅を促すために。それらは王宮に隣接した鐘塔しょうとうから鳴っており、位置的にほぼ街の全域に届く。

 その日の夕刻――鐘の音色を耳に聞き、ロウェルは顔を上げた。

 それは、木登りに熱中するあまり、高く昇りすぎてしまい、泣き喚いていた子供を連れて飛び降りたところだった。

「今度は、昇りすぎんなよな」

「うん! あんがと、ロウェル兄ちゃん」

「おい、早くしろよっ。鐘が鳴る前に帰るはずだったのに……メシ抜きにされっぞ!」

「う、うん! じゃあね、ロウェル兄ちゃん!」

「おうっ! 慌てて転ぶなよー!」

 大慌てで帰路につく兄弟を見送り、ロウェルもねぐらに戻るために、きびすを返す。

 その表情は、いつもより、うきうきしていた。

 なんと、今日は一日百ヴァーチュの日課を達成していたのだ。それは、年に数回あるかないかというところ。ロウェルにとっては吉日と呼んでいい。

 こんな日は、不思議と良い出来事があったりする。

 多くの場合、瓦礫のなかで、そこそこの値打ちものを拾えたりするくらいのものだが。

 と、浮かれて近道に広場を横断していたロウェルは、ぽつねんと突っ立ているエリーゼを不意に見つけた。噴水の前で、フラワーゴーレムが水面を覗いている。

 エリーゼのほうが、ロウェルの姿にとっくに気づいていた様子だった。歩み寄りながら、ロウェルが大きな声で呼んだ。

「どうしたんだよ、こんなとこで」

 エリーゼは、ロウェルが目の前に来るまで口を閉ざしていた。手を伸ばせば届くような距離になってようやく、

「アンタの顔が、ちょっと見たくなっただけ」

 ぽつりと言った。

「そっか。べつに、いつも会ってるだろ。久しぶりってわけでもないし」

「そうね。変、よね」

 エリーゼが背中で腕を組み前かがみになる。しおらしげに微笑んだ。

 その仕草が、ロウェルにはエリーゼらしくないと思えた。今のエリーゼは、気弱な少女のようで、まるで別人のようだった。

「明日、王様ンとこ、行くんだろ? 大丈夫か? なんか、調子悪そうだけど……」

 気に病み、口を開いたロウェルが――意表を突かれた。それが、敵意や危害を及ぼす行為だったならば、避けることはできたかもしれない。

 けれども、エリーゼが顔を寄せて唇を重ね合わせてきたのには、さしものロウェルでも、反応できなかった。

 棒立ちになり、微動だにできない。呆然と通じ合う唇のぬくもりだけを、ただ感覚しつづけていた。寒々とした風が、長く吹き抜けてゆくまで。

 焼けるような余韻を残し、エリーゼが一歩、後ろに下がった。

 ロウェルが自分の口元に触れながら、落ち着きなさそうに言った。

「急に、どうしたんだよ……。びっくりすんだろ」

「今のは私の独りよがり。私のワガママ。……ごめんね」

 エリーゼがとぼけるような笑みをみせる。かと思えば、くるりと背を向けた。

「なんでかしら。これだけは、譲りたくなかったのかな」

「なに言ってんだよ。俺にもわかるように、言ってくれよ」

 ロウェルはつい、語気が荒くなってしまった。エリーゼにあるまじきことに、まるで要領を得ておらず、ロウェルには到底理解が及ばない。

「あなたは目の前だけを見ていて。目に映るすべての人を助けてあげていればいいわ。遠くは私が見ていてあげるから。あなたが迷わないように、してあげる」

 肩を震わせて、エリーゼが声を弾ませる。笑っているようでも、泣いているようにも聞こえる声色だった。

 言い終わるなり、エリーゼはさっと駆け出していった。

「お、おい……やっぱり、よくわかんねえって」

 その背に声を掛けたが、エリーゼは振り返ることはなかった。後ろ姿が見る間に小さくなる。追いかける気にはなれず、一度だけフラワーゴーレムと視線を交わし、あるじを追う大きな背をぼんやりと目のやり場にしていた。

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