2

 目を開いた途端、アズランドは懐かしい感触を覚えた。目頭から頬にかけて、いやに冷たく濡れている。いつぶりだろうか、とまだ覚醒しきらない頭で思う。

 悪い夢は、見なかった気がした。気分だって、穏やかでいる。じゃあ、思い当たる理由は一つしかない。

 まったくもって――泣き虫ってやつは、完治などするものではないようだ。痛感して、お世辞にも寝心地が良いとは言えない硬いベッドから半身を起こす。

 木材と金属の残骸を繋いで築かれた小屋。それ以外に形容できない内装が視界に広がる。薄汚れた天幕てんまくが風に揺られ、隙間から外が見えた。真っ暗だった。

 そこで、ぐつぐつ鍋が煮立つ音に気づいた。漂ってくる匂いを辿って、アズランドはそちらを振り向いた。

 目が合った。

 不安そうに両手を胸の前で重ね、悄然しょうぜんとしたリザと真っ向から。

 正直、驚いていた。彼女をもう一度見た瞬間、自分は全力で傷つけようとするかもしれないと、予感めいたものがあったというのに。

 実際は、落胆とも安堵ともつかない虚脱感しかなかった。アズランドは、気が抜けたような悪戯いたずらげな笑みを浮かべた。

「……おはよう、で合っているかな」

 そうしながら、慌てて指で涙をぬぐっていた。格好つかないのは百も承知だった。どうせこれ以上、面目の失いようもないだろう。

「アズ……」

 リザが言いかけたとき、天幕をめくり上げて入ってきたロウェルが、

「んっ。おっ! アズさん、目が覚めたんすね」

 喜々として言った。

「少し、眠りすぎたかな」

 アズランドは咄嗟にあくびの真似事をした。

「ここはロウェル、キミの住処すみかかい?」

「そっす。そういや、アズさん初めてっすね。ここに来んの。汚いとこで、すんません」

「いいや。悪くない風情だよ」

 アズランドは喋りながら、自分の身体に巻かれた包帯を目に留め、手足を曲げたり撫でたりしてみた。痛みはあれど、動作に支障は感じない。

「骨は無事じゃったよ。傷もそれほど深いものはないの。じゃがいささか、血を流しすぎておる。安静にすることじゃ」

 ロウェルの後ろに付いて入って来た老人が、しわがれ声で告げた。年季が入った白衣を羽織っている。

「あなたが手当てを?」

「まあ、の。お前さんがぶっ倒れて二日過ぎというところじゃ。あとは無茶なことでもせん限り、じきに治るじゃろうて」

「パト爺さん。モグリの医者で、ここのボスっす」

「……顔役になった覚えはないがの。もし異常を感じたら、言うてくれ」

 ぷいと、パト老人がきびすを返した。

「あの、お代は?」

 懐に手を差し込みながら、アズランドはその背に尋ねる。

「ワシは坊主に借りを返しただけじゃ」

 言い終わらないうちに、パト老人は天幕の向こうに消えてしまった。

 困惑して、アズランドがロウェルに視線を送ると、

「貸し借りナシってことで」

 あっけらかんと笑ってきた。

 急に胸をほぐされた感じだった。素直に、感謝を口にしていた。

「……すまない。ありがとう」

「アズ――」ずっと言いよどんでいたリザが、一歩踏み出した。

 アズランドは情けない表情で、薄っすら口元に笑みを浮かべ、リザの顔を直視した。

「キミにも迷惑をかけた。それに、酷いこともした。頭に血が上っていたらしい。……どう、詫びればいいんだろう」

「そんなことしないで……。アタシこそ、謝らせて。ずっと、隠し事してて……」

「どうか教えてほしい。知りたいんだ。どうして、ああなったのか。そうでないと、俺はずっと、ミリアの死を受け入れられない」

 アズランドは躊躇ちゅうちょした。どの口がそれを言おうとしているのか、と喉がつっかえる。だがそれも一瞬で、思いのほか、すらすらと言葉にすることが出来た。

「そして、キミがなにに苦しんでいるのかも、聞かせてくれるかな?」

 そんなことを言われるなど、夢にも思っていなかった様子でゾクッと震え、リザの目が丸くなった。ぶわっと目尻に涙が溜まった。

「……うん」

 笑顔で強く頷いた拍子に涙が溢れ、雫となって落ちていった。



 夜明けからほどなくしてロウェルのねぐらにやって来たエリーゼが、ボロ椅子に腰掛けた面々を一瞥する。

「ご機嫌はいかがしら。センチメンタルな美男子さん?」

 開口一番に言った。無論、負傷状態のアズランドへ皮肉口調で。

「返す言葉もないね」

 降参だよ、という感じにアズランドは肩をすくめた。

「だから、それがよろしくないと言っているのよ。言いたいことや言うべきことは、ちゃんと伝えなさい。だから話がややこしくなるんでしょ」

 むすっとして、エリーゼがアズランドを睨んだ。ついで、

「あなたもよ。今日はだんまりはナシだからね」

 びしりとリザを指差して、念押しした。

「う、うん」おっかなびっくり、リザがこくんと頷く。

「ま、まあ、あんまカッカすんなよ。ますます、言いづらくなんだろ」

 エリーゼの剣幕に押され気味に、ロウェルがなだめに入った。

「フン。じゃあ、さっさと説明して」

 今日のお姫様はなんだか、いつにも増して、虫の居所が悪そうだ。そう、判じて、

「わかった。それじゃあ、こうしよう。俺がリザに質問をして、答えてもらう。……そういう形式なら、漏れはないはずだ」

 アズランドが舵取りを買って出ることにした。

「おっ、頼んます」

「うん。そうして」

 エリーゼ以外の承認を得たところで、アズランドは考えた。どこから踏み込んだものか――それと、その過程で自分は平気でいられるだろうかと。

 つとリザに向き直り、

「リザ。キミは今、歳はいくつなんだい?」

 思い切って、訊いた。

 まごつくリザにアズランドは言い直した。

「キミがキミとしての自我を持ってから、の年数を教えてくれ」

「四年、くらいだと思う」

「えっ」ロウェルがぽかんとなった。

「ちょっと待ちなさいよ。それってもしかして……」

 なにか察したようにエリーゼが驚愕する。

「まさか。いえ、でも……」

「アイツのことを嗅ぎまわっているうちに、わかったことがある。この国がまだウォレリアという小国だった頃、アイツは辺境貴族の家柄であったらしい」

 アズランドは脳裏で本を捲るようにして、記述を想起した。

「当時は戦時中だ。そして、アイツには妹がいたんだが……十一歳で死没したことになっているんだ」

 そこで一旦、アズランドは一同を見回した。

「十五、六歳の背格好――リザ、キミはそれに合致する」

 断定の含みを込めて、アズランドは告げた。

「アズランド。あなた、なにを言っているか、わかっているの?」

「アイツは錬金術師の極致きょくちに足を踏み入れている。そういうことだよ。人造人間ホムンクルスの製法を獲得しているんだからね」

「……最初から、お見通しだったんだ」

 ちょっとだけ、胸が痛んだような表情をリザはした。

「え、いや。たしかに四歳には見えないけど、普通の女の子じゃないですか? ってか、ホムン……なんたらって?」

 置いてけぼりを食らったロウェルが、難問に直面した様子でぼりぼり頭をいていた。

「錬金術師の本懐は、創造にある。今だって、屑鉄を金塊に作り変えるすべを模索するのに熱心なのが絶えないのと一緒さ。人造人間を造り出すのも、究極的な課題の一つなんだよ」

「えと、その、つまり?」

「おそらくリザは、クノッヘンが自分の妹をもとに生み出した人造人間だ」

 ややあって、アズランドは言い添えた。リザの目を見て。

「……間違いないかい?」

「うん。きっと、そうなんだと思う」

 どこか涼やかな顔つきで、リザが返事をした。苦笑気味につづけた。

「アズのほうが、アタシよりアタシのことに詳しいみたい」

「アイツは――クノッヘンはなにも教えてないのかい?」

「あの人が教えてくれるのは、役目だけだから……」

 アズランドが眉をひそめた。

「役目……たしか、アイツらはキミのことを予備の器と言っていたね」

「うん。あの人にとって、本当に大切なのはお姉ちゃんなの」

「お姉さんも同じ人物がもとになった人造人間なんだろう? ……なんて、呼ばれていたんだい?」

ジェニュイン=ヴェッセル本物の器

「……予備と本物。そして、自分をもとにした人造人間には右手と左手、か。なんとも酷薄こくはくな名付け方をする」

「お姉ちゃんがね、リザって呼んでくれたの。そっちのほうが、素敵な名前よって」

 照れくさそうに、リザは微笑した。

「同感だ。リザ・・。ずっと良い名前だ」

「お二人さん。そのあたりを補足願えるかしら?」

 エリーゼが声を挟んだ。なごんでいるところ悪いけれど、という顔で。

 アズランドはまず、三年前の事件に触れ、ミリアの死の真相を探ろうとしていたことを打ち明ける。

 そして昨日のことを、かいつまんで説明した。

 リザを連れ帰るためにクノッヘンが自身をもとにした人造人間を差し向けてきたことや、リザと同様の能力を有するなど。

「そこよね」

 エリーゼがぴんときたふうに言った。ロウェルがおかしなことでもあったか、という感じに首を傾げる。

「なにが?」

「そもそも、なんであんな不可思議な力を使えるのって話になるでしょ。人造人間だから、で説明つくものなの?」

「さて。そこまでは、なんとも。……どうなんだい?」

 エリーゼの詰問を代わりに受け、アズランドはリザに尋ねる。

「それはね――」

 言って、リザはワンピースの胸元を指で下げていった。無色透明な結晶が、胸の中心でキラリと光る。

この子たち・・・・・の力なの」

「この子たち?」エリーゼが目を瞬かせた。

「生きてんの?」ロウェルが興味を示した。

「数多くの妖精スプライトたちを内包ないほうしたもの、か」

 見透かすようにアズランドは目を細めていた。

「うん。ギュッとね、この中にたくさんいるんだよ」

 リザが優しく、指先でその結晶に触れた。

「どういうことよ」

「リザが力を発揮するとき――周囲はあの虹の輝きに染まる。妖精たちが個々に発光する色合いが微細に異なるのだから。そんな力を解放したとすれば、あんな色を生み出すんじゃないか。……大樹の周囲がああなっているように」

「なるへそ。妖精たちがたくさんいるから、すっげえことができる、と」

「そもそも、そんなことができるの? だって、妖精たちをそんな結晶化させるだなんて――聞いたこともないわよ。そんなの錬金術のわざなの?」

「アイツは、目的のために手段を選ばずいろいろやって来たはずだ。人智を超えたことなんて、もはや朝飯前なのかもしれない」

「あの人は、妖精宝珠スプライトジェムって呼んでたよ。なかなか上手につくれないみたい」

 アズランドがはっとなった。

自立稼働型人形オートマタの動力となる精結晶スピリットクリスタルも、そこから来ているのか。いや、その過程で生み出された粗悪品が、用いられているのか……? 造り上げたゴーレムによって戦乱を鎮めたのだって、ただ単に、研究に没入したいがゆえに?」

 言いして、頭を振る。

「……クノッヘンは最初から妖精に着目していた。肉体は――人造人間として、妹は蘇ったはずだ。その先に、なにを求めている?」

 それはアズランドの自問自答に近かった。けれども、リザは答えてくれた。

「あの人が言うの……おっきな樹のなかで、探すように。この身体の本当の魂を」

 リザが立ち上がり、自身を両手で抱いていた。心苦しそうに。虹の色に、光が滲んだ。

「キミは……キミたちは、あの樹で――」

すくい取ってたの。アタシたちなら、あのなかでもなんともないから。……こんなふうに」

 リザの手の甲から結晶が咲いていった。燦燦さんさんと輝き、一同が目を見張るなかで――一匹の妖精が天幕の間から入り込んできた。

 そして、花のみつに誘い込まれた蝶にも似て、結晶の内側へ潜り込んだ。



 結晶の内側から解き放ち、飛び立った妖精にリザは手を振っていた。ふらふらと天幕の間をくぐり抜けたところで、口を開く。

「この力をたくさん使うとね。チカチカするの」

「眩しいもんな」ロウェルが訳知り顔になるのを無視して、

「能力の行使に対する反動、か。過ぎたる力には付き物だな。通常の魔術だって、一定のリスクを背負うんだ。生易なまやさしいものでは、ないだろう」

 アズランドは小難しい顔つきでリザを見つめた。

「たくさんの声がするの」

「声?」

「怒ってたり、泣いていたり……はしゃいでいたりしてね。あんまり聴いていると、心がぐちゃぐちゃになるの」

「なるほど。妖精宝珠スプライトジェムの力で燃焼される妖精たちが呼応することで、キミにそれが流れ込んでくるわけか。言わば、感情の濁流だくりゅうとなって」

「妖精が死した人間の魂であるという、これ以上ない証明にもなるわね」

 巻き髪を弄りつつ、エリーゼが言った。投げやりで苛立たしげな所作だった。

 アズランドは「ああ」と同意して、ため息をついた。

「妖精が魂の記憶そのものであると確信を抱いているからこそ、アイツは執着しているのだろうからね。なんだか、もう、神秘的な存在に思えなくなってきたよ……」

 幼い頃に触れた小石のざらつきを脳裏に抱きながら、核心について言及した。

「キミのお姉さんがミリアを殺めたときも、そうだった・・・・・わけか。不本意だった。妖精宝珠が招いた事故……いや、アイツが仕組んだ実験かなにかだった?」

「あのとき、完成した妖精宝珠の力を初めて使ったの。あの人は、問題ないって言ってたのに……お姉ちゃんは――」

 尻すぼみに声が消え、リザの瞳がうるんだ。頭を下げ、湿っぽい声で言った。

「ごめんなさい……」

「キミのせいじゃない。お姉さんのせいでも、ない。……それは、理解しているつもりだよ」

 反射的に、アズランドはリザへ笑いかける。

 気構えは出来ていたつもり・・・だった。いつだって、そう、ありたいと思ってはいる。

「そうだって。リザは悪くないって。その、えと……なんとか卿ってやつをぶん殴ってリザの姉ちゃん助け出せばいいんだろ?」

 息巻くロウェルに、エリーゼが口を挟んだ。

「でも、リザのお姉さんってどこにいるのよ。あなた、この街のどこかって言ってたけど」

街中まちなかで妖精宝珠の気配を感じたの。最初はお姉ちゃんがアタシを探しているのかもって思ったんだけど……。でも、あれはライトたちのものだった。だからお姉ちゃんは、あの人のそばにいると思う」

「王宮に忍び込むわけ? 具体的にどこにいるというの?」

「地下にあの人の研究室があるの。きっと、そこにいるはず……」

「言われてみれば、研究者の多くは地下に出入りしていたわね。クノッヘン卿が……いえ、アイツが引きこもって主導してたわけね」

「お願い。あまり時間もないの。あの人が“次で手が届く”って言っていたの。きっと、場所がわかってるの。あの人が本当に逢いたい人のいる場所が……。そのあとだった。いっぱい、妖精宝珠をお姉ちゃんにくっつけて――そしたら、様子がおかしくなってアタシを……」

「肉体としては、それで完全無欠になるんだろう。本来、宿るべき魂に適した状態に仕上げて。今ある心は壊れても構わない。どのみち、えてしまうのだから」

「それほど猶予はないってことね」

「うしっ! じゃあ、今からでも殴り込もうぜ!」

 ロウェルがやる気に満ちて握り拳を振り上げ、椅子を転がしたとき、アズランドも席を立った。

「ほら、アズさんも力を貸してくれるって」

 ロウェルがリザの肩をトンと小突いて激励する一方で、

「ごめん。ちょっと、風に当たって来るよ……」

 だれに視線を合わせることなくアズランドは告げ、ロウェルのねぐらから出て行った。

「ほんと、アイツってば……」

 エリーゼの目が非難の色を帯びた。「待ちなさいよ」と、あとを追って行った。

「アズ……」

 沈痛なおもてで、哀愁あいしゅうを漂わせるリザの背中を、ロウェルが押しやりながら、

「行こうぜ。アズさんさ。考え事多いだろ? なんつーか、迷ってるだけだって」

 からから笑い連れ出した。



 瓦礫の端で、アズランドはおもちゃを見つけた。

 孤児院にも一つは置いてあった、ゼンマイ仕掛けの人形だ。片足が半ばから折れている。

 無意識に手に取り、ゼンマイを巻く。近くにあった鉄板の上に立たせてみると、予想に反して倒れることなく、絶妙な体勢でよたよた歩んでいく。

「――偉いな」

 アズランドがぼそりとつぶやいたとき、

「あなたね、この期に及んでなにを迷うことがあるって言うのよっ」

 エリーゼの鋭い声が耳を打った。歩行するおもちゃに目を当てながら、答える。

「わからないんだ」

「え?」

「俺はどういう気持ちで、あの子に協力すればいいのだろう。あの子の姉さんを助け出し、アイツの――クノッヘンの計画を台無しにしてやれば、俺の気は晴れるんだろうか」

「あなた……」

「それに、そんな資格やらが俺にはあるのか……」

「資格? いったい、なんのことよ?」

 エリーゼが問いを投げたのに合わせて、おもちゃがバランスを失い、ひっくり返った。寝そべってもがくようになったそれに、奇妙な親近感を抱いて、かすかに笑んだ。そして、アズランドは静かに告げた。

「俺はあの子を――リザを、殺そうとしたんだ」

「なんですって?」

 エリーゼが怪訝そうな顔になったとき、ロウェルがリザを連れてやってきた。

 リザが息を吞み、ロウェルが唇を引き結ぶのに気づかないまま、アズランドはありのままを述べた。

「あのとき……黒衣の連中にあの子が襲われていたときだよ」

「冗談でしょ。あのとき、助けていたじゃないの」

 アズランドは右手を掲げ、つづけた。

「あの子の姿を――あの力、あの輝きを見てしまったとき……いつの間にか、拳銃がこの手にあったんだ」

 人差し指が強く戦慄く感覚に抗わず、こう告白した。

「銃口はあの子を捉えていた。正確に。引き金に乗せていたのは間違いなく殺意だった。あのまま引き絞れば……そうして、しまっていたら――」

「でも、撃てなかったんでしょう。逆に助けてあげた。なら、いいじゃない。理性の勝利。そう、誇ればいいのよ」

 アズランドは静止したおもちゃから目を離し、エリーゼに向き直りつつ、

「……いっそのこと、あの子が、とんでもない化け物だったなら――物事はもっと単純だったのかもしれない。そんな気持ちが、どこかにあるんだ」

 苦笑交じりに言った。

 そこで、ロウェルとリザの姿にはっとなった。決まりが悪そうに、言い添える。

「心優しい女の子を撃たないで良かった――たしかなこととして、そうも思うのだけどね……」

 ふと、重々しい地響きが起こった。

 ロウェルが両腕の杭打ち機を外したせいだった。

「アズさん。ちょっくら、運動しませんか?」

 ロウェルが進み出てにこやかに笑う。反面、身体のほうはいかめしく構えてみせている。

 アズランドはその姿に、身震いがした。杭打ち機を身に付けていてくれていたほうが、よっぽどマシに思えるほどに、重圧感が滲んでいた。

「こんなときに、なに言ってるのよ。それに、まだ怪我だって治って――」

 エリーゼのげんを、軽い金属音がった。アズランドの腰から、ベルトが外れ落ちていた。拳銃と片手剣ショートソードと一緒に。

「勝ち目のない勝負はしない主義なんだけどね。……気分転換の運動のお誘いなら、断りにくいな」

 アズランドは半笑いでロウェルに応じる。直感的に避けられないと思った。

 アズランドは構えたりせず、トントンとその場で軽く跳ねただけだった。もとより、格闘術の心得があるわけでもない。学んだのは、武器を用いての戦闘手段であったし、それとて生半可な自覚があるくらいだ。

「行きますよ」

 ロウェルが短く告げるや否や、アズランドは横っ飛びになった。一拍遅れで、ロウェルの拳によって鉄板の一部がひしゃげ、壊れたおもちゃが打ち上げられた。

「やっぱし速いなー」

 感心もそこそこに、逃れたアズランドをロウェルが追撃する。かろうじてアズランドは殴打を避けるとその腕をつかみ、反対側でも腕を絡み合わせて抑え込んだ。

「そういえば、あのときぶりっすね。アズさんとやりあうのって」

 ロウェルが思い出したように言った。顔は至って、平然としている。

「……あのときは、俺が拉致らちされた女の子を保護してたところを、キミが勘違いして突っかかってきたんだろう」

 アズランドは苦しげに応答していた。絡みついて動きを封じているはずだったが、徐々にほどけていくのだ。力負けは必至だが、正面からの殴り合いでは、もっと悲惨な状態になるのは明白。

「ははっ。すんません。だってあの子、泣いてたし。つい、ムカッとなって」

「危うく、死ぬかと思ったよ」

「あんとき、感動したんすよ。なんつーか、こういうことする人が、ほかにもいるんだなって」

 不利な状態におちいっているのとはべつの理由で、アズランドは歯噛みした。

「あの子は、国王とめかけの娘だったんだ。王宮内のことを少しでも知れるかもしれないと、接触したかっただけだ。打算的ものであって、キミのような、善意によるものなんかじゃあない……」

 言ったところで、ロウェルに絡みついていた手を振り解かれてしまった。つづけざまに、力いっぱいに背負い投げられ、宙に勢いよく投げ出される。

 上手いこと身をひるがえすには至らず、寸前で両手で受け身をとるのが精一杯だった。間髪入れず、凶器じみたロウェルの腕が眼前に迫り――片膝立ちで両腕を重ねて受け止める。

 全身の骨が軋むような衝撃に、アズランドは目が眩む。どこが運動だって……? 冗談じゃないと思いながらも、不思議とこれを滑稽に感じる自分がいて、失笑していた。

「ねえ! 二人ともやめてっ! どうして、二人が戦うの⁉」

 リザが叫んだ。おどおどしながら見上げる先には、エリーゼの呆れ顔があった。

「さあ? くだらないけれど、必要なことなんでしょ。……奇妙奇天烈きみょうきてれつな生き物なのよ。男ってのは」

 ロウェルの言う運動は、拳打けんだ応酬おうしゅうに発展していた。弾き、避けてはいなす。いつしか、はからずも組み手のように、流れるような攻防が展開される。

 ぽつりとロウェルが言った。親しみを込めて。

「崖っぷちなんすね、アズさんも」

「崖っぷち?」

「ここにもわりといるんすよ。行く当てもなくなって、ここに流れてくる人とか。生まれたときからここにいて、親の借金に追われてるのとか」

「……キミは、ここで生まれ育ったんだろう。両親はいなかったのか?」

「んー。親父がいたけど、あんまり顔も覚えてないっすね。ちっさいころ、死んじゃってるんで。借金とかなかっただけ、ダチよりはマシだったすけどね」

「……強いんだな」

「アズさんだって」

 “崖っぷち”

 アズランドは、幾らかそれについて吟味ぎんみを試みた。

 そんな境地に、立った覚えはなかった。それほどまでに追い込まれたなら、平気でいられるはずがない。とっくに壊れているに違いない。瓦礫のなかに放り捨てられていた、あのおもちゃのように。

 そう、とっくに――

 一瞬、アズランドは我を忘れた。

 にぶく重い音が、した。まともにロウェルの拳打が、アズランドの腹に食い込んでいた。

「あっ――」

 ロウェルが啞然となり、即座に腕を引っ込めた。

 両膝を折りたたんだアズランドの口から、鮮血が飛沫しぶいて、ロウェルの靴先を赤く染めた。うずくまり小刻みにせつづける。

 エリーゼとリザが慌てて駆け寄ってきた。

 エリーゼはアズランドを一目見て、横目でロウェルに憤慨ふんがいした。

「ロウェル⁉ あんた、さすがにやりすぎでしょ!」

「いや、その、つい。“おっさん”とやってるときみたいに、楽しくなって……息が合ってたし」

 珍しいことに、ロウェルがひどく慌てふためく。

「アズ⁉」

 リザがアズランドのそばで泣き顔で取り乱していた。背を撫でたり、揺さぶったりと忙しない。

「とにかく、パト爺さん呼んで来るから」

 ロウェルが勢いよく踏み出したところだった。

 アズランドの笑い声がそれを制した。くつくつと、喉の奥で笑う。かと思えば、

「ははっ。いや、いいんだ。くくっ……」

 堪えきれなくなって、哄笑こうしょうを上げていた。ほとんど、笑い転げているのと変わらない。

 呆気にとられて見ていた。ロウェルもエリーゼも、そしてリザも。

 ひとしきり笑ったあとで、

「いや、まったく……効くね。キミの拳は」

 笑いの余韻が抜けきらないまま、アズランドはロウェルに手を差し出した。ロウェルはしばし、きょとんとなっていたが、思い出したようにその手を握り引き上げた。

「すんません。ほんと。身体を動かせば、悩みも消えるかなって……」

「ああ、おかげでスッキリしたよ」

 苦笑してアズランドは立ち上がった。

「大丈夫なの?」リザが不安そうにアズランドを見上げる。

「ん。いや、大丈夫――じゃなかったらしい」

「え」

「大抵のことは、平気だと思っていた。それに一人で、すべて片をつけられるものと思ってもいたんだ」

 三人を順に見て、アズランドは苦し紛れ笑う。

 諦念ていねんに似ているくせに、清清すがすがしくさえある感情に身を任せ、

「けど、そんなことはなかったんだって、ようやく理解できた気がする……」

 吐露とろした直後に、アズランドは深く息をついた。晴れやかな笑みを湛えて、告げる。

「俺に力を貸してくれないだろうか。そして、キミたちに、俺の力を使ってもらえないだろうか……」

 ほかにもっと、上手い言い方があったかもしれない。しかし、これがいちばん、伝えたかったことなのだと思った。

 ロウェルが豪快に笑顔をかたち作る一方で、エリーゼは呆れを含んだ笑いを唇の端からこぼした。

 そして、リザは喜色を帯びて、せつとして頷いていた。

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