18・悪魔のような人
疲れがピークに達していた俺は、そのままベッドでウトウトしてしまっていたらしい。
おかしい、と気づいたのは耳のふちに妙な刺激を感じたから。
もしかして今、誰かに耳を噛まれてる?
──いや、まさか。父さんも母さんも、姉さんも、寝ている俺の耳を噛んだりはしない。そんなことをするようなペットもうちにはいない。
なのに、耳のふちへの刺激は止まらない。それどころか、生暖かい何かがべろりと俺の耳のなかに──
「……っ」
たまりかねて飛び起きた。
背後から「ふぎゃっ」と悲鳴があがった。驚いたような、抗議するような微妙な声。でも、抗議したいのは俺のほうだ。ウトウトしているところをのしかかられて、あまつさえいたずらされたのだ。
「ナツさん!」
俺が睨みつけると、ナツさんは「なんだよぅ」と唇をとがらせた。
「いいじゃん、ちょっとくらい」
「良くないです。これは犯罪です」
「耳、舐めただけじゃん!」
「同意のない性的行為は犯罪です」
「ってことは、やっぱり感じてたんだ?」
してやったりとばかりに、ナツさんは下唇を舐めた。
「だよなー、あっちの青野も耳弱かったもんなぁ」
「べつに……そんなことは……」
「とかいって、めっちゃバクバクしてるだろ。お前の、ここんとこ」
指先で、心臓のあたりをトンッと突かれる。
俺は、唇をかみしめた。だって図星だったから。まだ濡れた感触が残っている右耳も、心臓も、さらには腹の奥底でわだかまっている何かも、ズグズグと反応していたから。
「エロい顔」
ナツさんは艶っぽい笑みを浮かべたまま、俺との距離を詰めてくる。
「じゃ、続きやろっか」
「……え?」
「仕込んでないから最後までは無理だけど、気持ちよくはしてやれるし」
唇からチラチラのぞく赤い舌。意味ありげな眼差し。そんな表情で「気持ちよくしてやる」って、それってつまり──
答えを弾き出そうとしたところで、ナツさんの指先が、俺のスエットにかかった。ウエストのゴムがびよんと伸びたところで、ようやく俺は我に返った。
「ダメです、やめてください!」
「え──」
「俺は許可していませんし、同意もしていません。そもそも、こういうことは好きな人とするものでしょう!」
「うん、だからやってる」
ナツさんの顔が、さらに近づいてくる。
「オレの彼氏、青野だもん。だったらぜんぜん問題ないじゃん? こっちの世界では、お前が『青野』なんだから」
「……なるほど」
言われてみれば──じゃなくて!
「ナツさんの彼氏は、ナツさんの世界の『青野行春』です! 俺じゃありません!」
「オレ的には同じなんだけど」
「俺にとってはぜんぜん違います!」
その証拠に、俺はナツさんに恋をしていない。俺が好きなのはあくまで「夏樹さん」であって、今、目の前にいるこの人ではないのだ。
俺の主張に、ナツさんは黙り込んだ。
この様子は──納得してもらえたってことか?
安堵した矢先、ナツさんの目からポロリと涙がこぼれ落ちた。
「えっ、あの……」
「本当にダメ?」
ポロポロとさらに涙がこぼれ落ちる。
「本当にオレとできない? こんなにお願いしてもダメ?」
「いや、ダメも何も──」
「付き合って半年記念日だったのに……今日はお泊まりして、めちゃくちゃエッチなことするはずだったのに」
「……っ」
「やだ……寂しい……青野、オレのことなぐさめてよ」
大好きな人とまったく同じ顔が、すがるような目で俺を見る。しかも「こぼれ落ちる涙」というオプションまでたずさえて。
理性が、グラグラと揺れた。
これは──ちょっとくらいはいいんじゃないだろうか。
だって泣いてるし。泣かせたいわけじゃないし。これじゃ、俺がいじめっ子みたいだし。
ナツさんの潤んだ目が「青野ぉ」と切なげに訴えかけてくる。
ふら、と右手が動いた。ナツさんの背中を抱き寄せそうになった。
それを遮ったのは、すぐ脇に置いてあった俺のスマホだ。発信者は──星井ナナセ。
「すみません、出ます」
「えっ」
「カノジョからなので」
「ええっ!?」
そのとたん、ナツさんは頬をパンパンにふくらませた。「信じられない!」「あり得ない!」「青野のバカ、童貞!」──めちゃくちゃ罵倒する彼からは、涙の気配がまるで感じられない。
なるほど、さっきまでのアレは「嘘泣き」だったのか。
危ない、引っかかるところだった。というか、とんでもないな、この人。演技派俳優も真っ青だろ。
電話に出るなり、星井に「ありがとう」と伝えた。受話口からは、当然「は?」と怪訝そうな声が返ってきたけれど、そんなの気にしない。だって、本当に感謝しているんだ。この電話がなければ、俺は「好きな人とそっくりの別人」に、俺の「ハジメテ」を捧げていたに違いなかったから。
とにかく、ナツさんはヤバい。要注意だ。たとえるなら「夏樹さんの仮面を被った悪魔」だ。
その悪魔は、すっかりふてくされてしまったのか、俺に背中を向けて寝転がっている。
俺は、そっとため息をついた。
神様どうかおねがいです。早く「夏樹さん」をこの世界に戻してください。
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