6・兄妹ゲンカ勃発

「うわ、本当にいた」


 90分後、ようやく星井がカフェにやってきた。


「え、ナナセ? なんでここにいんの?」

「そんなの、青野に呼ばれたからに決まってんじゃん」


 星井は椅子の上に荷物を置くと、リュックから財布を取り出した。


「ナナセ、今から注文?」

「そうだけど」

「じゃあ、オレのもついでに! 黒糖ロイヤルミルクティーおかわりで!」

「……めずらしいね、お兄ちゃんが甘い系飲んでるの」


 ちら、と星井と目が合った。「たしかにおかしい」──そんな声が、聞こえてきたような気がした。


「それじゃ、お金」

「へっ?」

「ロイヤルミルクティーのおかわり分」


 早くよこせとばかりに右手を差し出す星井に、夏樹さんは「ええっ」とすっとんきょうな声をあげた。


「なんで!? ナナセのおごりじゃないの!?」

「おごりのわけないじゃん。バカ言ってないで、ほら、お金」

「じゃあ、青野──」

「こら! 青野にたからない!」


 俺に向けようとした夏樹さんの手を、星井は容赦なく叩き落とした。

 ちょっと──さすがにそれはどうだろう。兄妹ゲンカの範疇とはいえ、夏樹さんの手を叩くだなんて。

 乱暴な彼女に、夏樹さんはぷっと頬をふくらませた。


「いいじゃん、青野はオレのなんだし」


 ──うん? 夏樹さんは、今なんと?

 目を丸くする俺の代わりに、星井が「は?」と聞きかえした。


「なに言ってんの。誰が、誰のものだって?」


 すると、夏樹さんも「は?」と眉をひそめた。


「青野は、オレの! だって、彼氏だし!」


 文節ごとに区切られた元気のいいお返事は、俺の脳内を真っ白にし、星井に再び「はぁっ!」と荒い声をあげさせた。


「違うでしょ、青野はお兄ちゃんの彼氏じゃないでしょ!」

「は!? なに言って──」

「青野は私の彼氏! そうだよね、青野!?」


 妙な迫力に気圧されて、俺はこくこくとうなずいた。

 そこから大騒動がはじまった。どういうわけか、夏樹さんは俺を自分の「彼氏」だと思い込んでいるらしい。


「なんで? どういうこと? 青野は俺のじゃん」

「いや、違うし! お兄ちゃんのものじゃないし!」

「嘘! だって青野、俺のこと好きって言ってくれた!」

「──そうなの青野?」

「まさか!」


 とんでもない! それだけは絶対にあり得ない!

 我が身の潔白を訴えるべく、俺は必死に首を横に振った。

 すると、今度は夏樹さんが「うそうそ、なんで!」と涙目で俺を責めてきた。


「嘘つき! ひどい! 青野言ってくれたじゃん、オレのこと好きになったって!」

「それ、ほんとのこと? お兄ちゃんの勘違いじゃなくて?」

「勘違いじゃない、ちゃんと覚えてる! 半年前、西階段の一番上の踊り場のとこで、青野、俺のことをぎゅうって抱きしめて言ってくれた! 『負けました、あんたのこと好きになりました』って!」

「……やけに具体的だね」


 たしかに。なんなら、目を閉じればすぐにその光景を思い浮かべることができそうだ。

 

ひとのない実験室エリア──)


 その手前の西階段をのぼっていくと、一番上の踊り場で夏樹さんが優しく微笑んでいる。

 時間帯はおそらく放課後。となると、彼は窓からの西日に照らされてキラキラと美しく輝いているに違いない。

 そんな夏樹さんの前で俺はひざまずくと、華奢な身体を抱き寄せてそっと囁くのだ。「負けました……あなたのことを好きになりました」──そう、恋の敗北者としてのコメントを。


(……いやいやいや)


 違う、惑わされるな。今のはただの妄想だ。どんなに過去をほじくり返したところで、そんな記憶は存在しない。

 改めてそう訴えようとしたところで、聞き覚えのある着信音が割り込んできた。


「あ、八尾からだ」


 うーっす、と俺たちに背を向けて、夏樹さんは親友からの電話に出る。すかさず、星井が俺の腕を引いてきた。


「たしかにヤバい。お兄ちゃん、絶対におかしい」

「だよな」


 身内の星井がそう言うのだ、俺の違和感は間違っていなかったようだ。


「これって、いつから?」

「わからない。俺が保健室で会ったときは、すでにこんな感じだったから」


 なにせ、寝ている俺の上にまたがっていたのだ。しかも、俺に目隠しをして両手を縛って、あまつさえズボンを脱がせようとまでして。


(やっぱりおかしい)


 俺が知っている夏樹さんなら、絶対にあんなことをするはずがない。


「本当に別人かも」

「どういうこと?」

「さっき、自分で言ってたんだよ。『オレ、別の世界に来たのかも』って」

「──なに、それ」


 有り得ない、と星井は一蹴する。

 でも、そう考えると辻褄はあうのだ。

 今、俺たちの目の前にいる夏樹さんは、パラレルワールドから来た「星井夏樹」で、そこでは皆の目が「緑色」で、そっちの世界の俺は、星井ではなく夏樹さんとお付き合いをしていて、だから夏樹さんは俺に「あんなこと」を──


「八尾、今からここに来るって」


 通話が終わったのか、夏樹さんはくるりと姿勢を元に戻した。


「八尾っちが? なんで?」

「わかんない。なんか届けてくれるみたい」

「なんかって?」

「さあ……プリント? 答案用紙?」

「なんで疑問形なの。ちゃんと聞いておきなよ」


 呆れた様子の星井と、てへっと笑って誤魔化す夏樹さん。

 ほら、こういうところもだ。今ここにいる夏樹さんは、端的に言って「アホっぽい」。もちろん、これはこれで愛らしくもあるんだけど、やっぱり違和感は拭えない。

 だって、本来の夏樹さんはこういうあざとさとは縁遠い人だ。彼の愛らしさは、どちらかというと無意識からの発露というか、本人の意識していないところからじんわりと滲み出てくるようなもので──


「げ、女ばっかじゃん」


 カフェの入り口から、聞き覚えのある声がした。気まずそうに頭を掻いているのは、八尾さん──夏樹さんの親友だ。

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