2. 夢かもしれない(その2)

 俺は、わけがわからず目の前の人を見つめ返した。

 だって、なつさんってば、ものすごい剣幕で、ものすごく「ふつうのこと」をまくしたてるから。


「どうしよう……病気!? あ、もしかしてコンタクト!?」

「いえ、違いますが」

「じゃあ、なんで!? なんで目が真っ黒になってるの!?」

「なぜと言われても……日本人の多くは、目が黒いと思いますが」


 もちろん、そうじゃない人がいるのも知っている。けれど、この国で目の色が黒である確率はかなり高いはずだ。

 なのに、夏樹さんはまたもやポカンと口を開けた。


あお……さっきからなに言ってるの?」

「なに、とは?」

「だって、みんな目が黒いとか……目ってふつう『緑』じゃん!」


 本当にどうしてしまったんだろう、今日の夏樹さんは。

 俺は、ついうっかり彼の丸みのあるおでこに自分のてのひらを押し当てそうになった。


「目の色は、たいていの人は黒ではないでしょうか」

「そんなはずない! ふつう緑じゃん!」

「それは海外の話では? たとえばヨーロッパ圏とか」

「違うってば! 日本の話!」


 癇癪を起こしたように、夏樹さんは両手をバタつかせる。

 けれど、そんな彼の「目」ですら、どこをどう見ても黒色だ。若干茶色がかっているとはいえ、何色かと問われれば、10人中7人はおそらく「黒」と答えるのでは?

 それとも、夏樹さんの目には、この瞳が「緑色」に見えているのだろうか。


(あり得なくはないか)


 だったら、確かめてみるべきだろう。


「夏樹さん、スマホを持っていますか?」

「えっ……あ、うん」

「ちょっと起動してください。で、そのまま貸してください」

「わかった。──ハイ」


 スマホを受け取った俺は、様々な誘惑から目をそらして、ひとまずカメラアイコンをタップした。さらに、そのなかのインカメラ機能を作動させて「どうぞ」とそのまま彼に返す。


「なになに、なにして──」


 素直にスマホを受け取った夏樹さんは、数秒後、再びフリーズしてしまった。


「え……く、黒?」


 なるほど、「黒色が緑色に見える」という可能性は除外しても良さそうだ。


(となると、次は──)


 ホッとした俺の目の前で、本日二度目の「ふぎゃあっ」が、狭い保健室いっぱいに響き渡った。


「なにこれ怖い怖い、病気? オレ、病気なの!?」

「いえ、病気ということは──」

「じゃあ、なんで!? なんでオレの目、黒いの!?」

「なんでも何も、もともと黒かったですが」

「そんなはずない! オレの目、緑だったもん!」


 これは──記憶障害か?

 あるいは重篤な病気? たとえば脳とかの? それとも二重人格? あれこれ考えてみたけれど、ただの高校生にすぎない俺に、そうしたジャッジができるはずもない。

 となると、今の俺にできるのは──


「夏樹さん、ひとまず落ち着きましょう」

「無理無理こんなの……」

「大丈夫です……まずは深呼吸をして……」


 一定のリズムで背中を叩きながら、開いたままだったズボンのファスナーをそれとなく戻す。

 この人は、俺の「俺」に何をする気だったのか──いや、その件を問いただすのは、もう少し先だ。今は混乱状態の夏樹さんを、なんとかして落ち着かせないと。

 トン、トンと背中を叩き、夏樹さんの呼吸が緩やかになってきたところで、俺はそっとベッド脇のカーテンをめくってみた。

 案の定、保健室の先生はいなかった。まあ、そうだろう。いるなら、とっくに「どうしたの!?」と駆けつけているはずだ。

 さて、ここからどうするべきか。

 俺の体調不良は、少し眠ったおかげでだいぶ解消された。これなら、教室に戻って授業を受けても問題はなさそうだ。

 けれど、夏樹さんが離れてくれない。俺にしがみついたまま、すんすん鼻をすすっている。


(まいったな)


 こんな彼を放っておいて、ひとりだけ教室に戻るなんてできない。それに、夏樹さんの様子がいつもと違うのも気にかかる。

 迷った末に、俺は「夏樹さん」と優しく声をかけた。


「まだ気分がすぐれませんか?」

「……」

「だったら、このまま早退しますか?」


 夏樹さんは、ようやく顔をあげてくれた。涼しげな目元はどこか頼りなさげで、俺の腹の奥が妙にうずく。


「青野、オレ……お腹すいた」

「そうですか。では、なにか買って帰りますか?」

「甘いの……甘いのが飲みたい!」


 甘いもの──サイダーとかオレンジジュースだろうか。それともココア? 夏樹さんと甘いドリンクって、どうもしっくりこないけど。


「あとさ、パンケーキ食べたい」

「そうですか。では、駅前のカフェに寄りましょう」


 テイクアウトできたかは不明だが、もし不可なら他の店を当たればいい。探せば、ひとつくらい持ち帰りできる店があるだろう。


「いいの?」


 真っ黒な目が、キラキラと輝いた。


「やった! 青野、大好き!」


 ぎゅん、と何かが勢いよく上向いたような気がした。

 それが何なのかは、敢えて考えないことにした。

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