第1話 ワン・フォー・オール

 年配のご婦人が、停止しているタクシーの前でオロオロとしている。

 その人はきちんとした身なりで、いかにも上品な雰囲気なのに、行動は私と同じように酷く慌てていた。

 そんな妙な親近感もあってか、私はギリギリで間に合うかもしれなかった登校時間をきっぱりと諦め、近づいて話しかけた。

「おばあちゃん、どうかした?」

「ええ、実は、このタクシーの行き先を変えたいのだけれど、やり方がわからなくて。困っているの。話しかけても、ほら、運転手さんがいないでしょう?」

「あー、ま、自動運転だものねぇ」

 運転席には誰も乗っていない。

 私が子どもの頃には、豪華にも運転手さんがいてバスやタクシーを運転してくれていたような気がするが、今は鉄道もすべてが無人だ。

「離れて暮らしていた娘が産気づいたから、そっちの病院に行きたいのだけど」

「ああ、出産ですか、それはおめでとうございます」

 私は笑顔で心からお祝いを言う。

「ありがとう。でもね、タクシーの精算、先に済ませちゃってて。私、こういうの本当に苦手なの」

「座席にお乗りください」

 抑揚のない女性の音声がタクシーの車内スピーカーから被せ気味に聞こえてくるが……君ねぇ、さっきの会話を聞いてたらそこは「では行き先を変更します」って自分から言わなくちゃ。AIも進化し続けているのだが、まだまだ融通が利かないようだ。

「わかりました。じゃ、ちょっとスマホ貸して、おばあちゃん」

「ええ、ごめんなさいね」

 本当は知らない人同士でスマホを貸し借りはダメなのだが、悪用ってわけじゃないし。

「いいっていいって。ここからちょちょいっとキャンセルしてと、それで新しい行き先は?」

「市立総合病院」

「じゃ、これで」

 新しい場所を入力してやり、顔認証だけ本人にスマホを向けて完了。

「行き先が市立総合病院に変更されました。どうぞ、座席にお乗りください」

 はい、成功。んー、楽勝。

「ああ、本当にありがとう。じゃ、これ、お礼に」

 おばあちゃんが財布からドッグコインのギフトカードを取り出してくれたが、私は苦笑して手を振る。

「いいからいいから。それより早く車に乗って。次に乗りたい人もいるんだし、それに、お孫さんの出産に間に合うほうが良いでしょ」

「そうね。じゃ、ごめんなさいね、お言葉に甘えさせてもらいます。やっぱり、楠聖女学院の生徒さんは親切で良い人ばかりね」

 おばあさんがそう言うが。

「い、いえいえ、全然そうとも限りませんけど、オホホ」

 やべぇ、ウチの学校知ってるなんて、油断したわー。下手に有名な学校ってこういうときにアレだね。『ワンフォーオール、オールフォーワン! たった一人の生徒の行動が学院すべての伝統と風紀を乱すのです!』って口うるさい先生が言ってたけど、説得力があって怖いわー。

 手を振って、お上品な猫かぶりスマイルでおばあさんを見送る。

 いやー、私も、そんなに偏差値は良くないから、中学の先生が推薦してくれていなきゃ、こんな楠聖女学院なんて入学しなかったんだけど……ああ、過去の私に教えてやりたい、その学校だけはやめとけと。普通の学校のほうが気楽で良かったよ、トホホ……。

「ま、グチグチ言ってても始まらないし、学校に行きますか」

 気を取り直して、学校に向かう。だが、工事中で大通りの片側斜線が通行止めになっていた。

 すみません、先生、実は学校へ向かう途中のお道路がお通行止めになっていらっしゃいまして……よし、言い訳はこの線で行こう。不可抗力だ。私、何も悪くない。

「それにしても、あー、いい天気になりそう!」

 つい最近までは肌寒い朝の空気だった。でも今は上り始めた朝日が、肌をじわじわと温めてくれる。このままピクニックに行くと、気分がいいだろうなぁ。行かないけど。そうだな、放課後は図書室か図書館でまったりするのもいいだろう。本を読みながら、少し疲れてきたときに微睡むあの安らぎは何物にも代えがたい。私にとってはそれが至福の時間であり最高の贅沢だ。あと、焼き肉食べ放題。チャーシューモリモリのラーメンもいいね!

 美味しい食べ物のことをあれこれと考えていたら、ジュルリと欲望のおつゆが口からあふれてしまった。おっと、いけない、いけない。お嬢様はいかなる時も決してヨダレなんて垂らしませんことよ。私は立ち止まって、優雅にハンカチをポケットから取り出して丁寧に口元を拭う。

 よしよし、周りには誰もいない。誰も見ていない。セーフ!

 しかし突然、後ろで激しい音がした。

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