第15話



 無様に這いつくばって、どうしようもない時間が一分二分と流れて。

 やがて、そばにある雑草がきしんだ。


 明日香が何も敷かずに、地面に座り込んだ音だった。


「母さん……?」

「怪我したところ、消毒するからね……」


 視界に映る母親は、どこか泣いているように見えた。自分がそうさせてしまったと思ったが、卓也はどう謝ればいいか分からない。


「加依は、大丈夫?」

「いま、部屋で寝てるの。声をかけても返事をしなくて、毛布をかけてあげることしかできなかった……」

「父さんは……?」

「……仕事で出かけに行ったよ。あの人なりに時間をおこうと思ったのかな。もしかしたら、本当にただ行ってしまったのかもしれないけど」


 しみる痛みが走り、ガーゼがあてられた。加依はまだ座ったままだ。仰向けだから見える夕日は、雲に隠れたまま沈んでいく。


「卓也の言うとおり、加依は全然泣かなかったの……。まるで、辛いのをみんな閉じ込めているみたいだった」


 かつて平手打ちを受けた時、北川陽介はえんえん泣いたものだ。ごめんなさい。もうしません。悲痛ばかりが頭に浮かんで、自分が犯した罪を思い知らされたものだった。

 泣くのが悲しみを外へだすためのものなら、加依はそれすらできていないということだ。

 娘の様子があれだけおかしければ、明日香も心配でたまらないだろう。


「加依が頬をうたれる前にちゃんと庇うことができたら、それ以前に、私が普段からあの人にちゃんと意見を言っていたら……。私は、あの人の言う通りにしすぎだった……」


 明日香は専業主婦だ。古い考えだと思うが、妻というのは働いて稼いでいる夫を優先してしまうのだろうか。震える声から明日香の後悔を感じる。


「今だって、卓也がしてくれたことを、本当は私がやらなきゃいけなかった。二人のケンカをそばで見ることしかできなかった私は……母親失格です。卓也にとても痛い想いをさせてしまった。……本当に、ごめんなさい」


 謝られるのはこの前に次いで二回目だ。なのに、以前よりとてもいたたまれなくなる。


「俺だって、あやまらなきゃいけないんだ」

「え……?」


 雄二に激高していた時は見ないふりをしていたが、頭が冷えてしまい怒りで誤魔化せなくなった。心に残るのはもう、後悔しかない。


「今日、家に帰る前にね、加依とたくさん話したんだ。加依はとても苦しんで、謝らなきゃって思ってた。そんな加依に俺は言ったんだ。『そばにいる。一緒に怒られよう』って。なのに、俺は加依が叩かれるのを見ていたんだ。動けなかったんだ」


 懺悔は空にとんでいかなかった。重力に負けてすぐ落ちて、仰向けなせいで、もろに当たる。かわす力はなく、かわしたいとも思わない。


「馬鹿だよね……。何が『そばにいる』だよ。身体をはってでも守りたかったのに、実際の俺は加依に手すら伸ばしてなかった。どれだけ間抜けなんだよ。俺に意味なんてなかったんだ」

「そんなことないよ……! さっきあれだけお父さんに立ち向かってくれてたじゃない。それを言うなら私の方が……」


 無力さのあまり、卓也はまた涙を流す。耳に流れていく水をぬぐう気にもなれない。ずっと泣いていたのかもしれない。


「ごめん、母さんを責めてない。でもさ、俺言ったんだよ。助けるって。大声で思い切り伝えなかったけど、絶対力になるつもりだったんだ。加依にまた笑ってもらうって決めてたんだ。……なのに、本当に俺、何やってんだろ……」


 怒りをすべて雄二にぶつけた。でも、後になれば殺したいのは自身だ。

 何もできず、何もしなかった自分。こうして後から振り返ると、一方的な責任の押し付けに反吐が出る。


(……また、だ)


 思考がねじれまがっていく。どんどん負の泥沼にハマっていく。抵抗しようとしても自責が卓也を押しつぶす。潰れてしまえば立て直せない。どうあがいても、むしろあがくほど泥沼に沈んでいく。


 ……だけど、

 二度と潰れるわけにはいかないのだ。

 潰れ落ちてしまうことだけは許されない。


「母さん」


 辛いのは明日香も同じで、いま明日香は卓也の近くにいる。

 震える手に力を入れて上半身を起こした。地面を見そうになるのをふんばって、表情をもちあげる。


「俺、加依を元気にしたい。父さんにぶつかってよく分かった」


 怒りがぬけて後悔が残った。だが、まだ『何とかしたい』と燃えている。やりたいことは定まっている。

 助けられなかった。自分のせい。自分はクズ。


 ――それがどうした。

 残念ながら自分を責めても価値はない。

 両親のように死んだわけじゃない。加依はちゃんと生きている。


 家族なのだ。だったら何万回だって助けよう。助けなければならない。加依が一人で立ち直れないなら、加依の手を絶対に引くのだ。

 弱い心を持つことで唯一恵まれること。それは他者の心の痛みが分かること。心の痛みは卓也にとっての地獄であり、絶対に看過できない拒絶そのものだ。人として大きくなるために『傷つく』ことは必要。だけど、傷が深すぎれば治らない。


 だから、加依が傷つきやすい女の子になることを、卓也は絶対に許さない。


(母さんも、きっとそう思っている)


 前世で誰かの親だったわけでも、何かを教える立場でもなかった。そんな卓也だから、明日香が間違っていたなどと言わないし、言えない。雄二に対しても、正しい悪いはどうでもよかった。気に入らなかったから殴りたかった。根っこにあるのは、いつだって『何をしたいか』だった。


 加依を元気にしたい。脇役でも主役でも手段は択ばない。卓也だけでする必要なんてない。それに、きっと母親である明日香にしかできないことがある。


「母さんと一緒に、加依を元気にしたい」


 明日香が目を閉じ、再び開く。その表情に卓也は不意をつかれた。

 微笑みはなく、ぴりっとしていて、なのにどこか澄んでいる。包み込むような優しさを伏せて、前に進む意思を感じる。子供の立場ゆえに気づかなかった、母という存在がもつ力。


「卓也なら、こういう時にどうしてほしい?」

「……!」

「加依が望んでくれるなら、何時間でもずっと抱きしめる。言葉でいいなら大好きだって何万回でも伝える。でも、本当にそれだけでいいのか。もっとたくさんできることがあるんじゃないかと思って。お願い。思ったことを教えてくれる? もし卓也が加依だとしたら、卓也はどうしてほしい?」


 目をしばたたかせて、卓也は見つめ返す。


 直前で決意しておいてなんだが、正直そういうことを聞いてくるとは思っていなかったのだ。所詮は大人と子供。大人の立場から意見を求めることはしないだろうと。力を借りられればいいと。

 子供である卓也が偉そうに加依への想いを語って、明日香を前に進ませる。そんなことを傲慢に考えていた。「一緒に加依を元気にしたい」という言葉にはそういう奢りがあった。


 だというのに、明日香の方が卓也と同じ高さで目を合わせている。そして、卓也にはそれがむしろ、子を愛する母の姿に見えた。小さな嬉しさがこみあがってきて、背中を押されるように即答した。


「受け入れて欲しい」


 ずっと痛感し続けている。かつての両親の強い優しさを。

 引きこもる苦しみ、後ろめたさ、焦り、恐怖、みじめさ。乗り越えられないまま終わってしまった人生。だからこそ明確に思い出す。それよりも前に大前提として、両親のぬくもりに彼は誰よりも支えられた。認めてくれたからご飯が食べれた。部屋にこもれた。


 ――母さんと父さんがいなければ、俺は死んでいると思う。


 そんな言葉を、彼はかつての母に言ってしまったことがある。言ってはならなかったけど、この上ない感謝でもあった。


「俺、つい最近まで元気がなかった。……話してなかったけど、大切な人が死んでいたことを知って、ダメだったんだ。でも、母さんと加依が助けてくれていたって気づいた」

「私も……?」

「毎日ご飯をつくってくれた。お洗濯をしてくれた」

「それは、当たり前のことで……」

「俺は、その当たり前すらできなかった。だから母さんの当たり前に救われた。もちろん今でも、たとえ母さんが納得できなくても」


 立たせてくれたもう一人の卓也。手を引っ張ってくれた明日香と加依。

 変わりたいと思った後に、卓也を待ち受けるのが厳しい家庭環境だったなら、耐えることに必死で動けなかったかもしれない。


「だから、加依にも同じことをしてほしい。『そばにいてほしい』って。……うまく説明できないけど、でも、母さんならきっと大丈夫」


 抱きしめて、愛してると言って、それで加依が立ち直るのか、確かではない。

 だけど、子供の居場所を作れるのが、親だ。


「父さんにもそうなってほしい。いや、俺と母さんで――家族で、父さんをそうさせてやればいいと思う」


 卓也も兄として、居場所をつくる手伝いができる。だから、今度こそと引き締める。明日香に助けてもらう。雄二に挑んでいく。


「そうでしょ? 母さん」


 乱れていた息はだんだんと収まり、定まる。道を見据えたせいか力が戻ってくる。

 その意思は、先日は手に入れられなかったもの。感動する物語に感化された時の「やってやるぜ」という想いに近しいのかもしれない。

 明日香も立ち上がる。膝についた土を叩いて落とすその前に、二人は自然と確かめ合えた。


「そうだね。ありがとう。卓也がいてくれて良かったよ」

「うん」


 あからさまにおどけて言ってやると、明日香は今度こそくすりと微笑んだ。照れくさかったけど、卓也はこの時間をきっと忘れないだろうと思った。


「家に入ろっか。日も暮れちゃったし、ご飯にしよ」


 どうせなら明日香の手伝いをしようと、卓也はうなずく。温かいご飯を作って、加依を呼んで、近くに座って、たわいない話をして。

 想像したら、また前向きな気持ちが込み上げてきたから、その前向きを共有したくて、卓也は明日香の方を見た。


「……? どうしたの? 母さん」


 しかし、明日香の表情が先ほどと変わっていて、視線も上を向いている。

 つられて同じ場所を見ると、我が家の窓が一つ開いていた。かすかに風が入り込むのか、カーテンが揺れているのが分かる。開く窓は、加依の部屋のそれだった。


 あれ……? と思った。


 今の季節が秋だからというのもあるが、確たる理由をはっきり出せるわけではない。ただ、もし卓也が加依だったら、心が傷ついている時に換気なんて考えない。閉じこもってしまいたい。


 明日香もおかしいと思っているらしく、嫌な予感が増す。加依を寝かしつけた際、明日香は窓を開けてはいないのか。だとしたら開けたのは本人になる。


 小走りで家に戻る明日香を、卓也も続けて追いかけた。靴を脱ぎすててリビングから階段へ。そして加依の部屋の前へ。


「加依? 開けるね?」


 ドアノブは簡単に回され、二人は光景を目にする。


 部屋には、加依の姿がなかった。


 床に投げたされた毛布。そして、やはり大きく開いてしまっている窓。

 すぐさま家の至る所を確認したが、どこにもいない。

 悪いことは空気を読まずに平気で重なると知っている。現実が非情であることは、生まれ変わったことで実感した。どれだけ幸せな時を過ごしていても、交通事故一つで絶望する。


 ああ、それでも。どうしてこうも予想できないのか。

 立ち止まる時間なんてもう欠片ない。ここを是が非でも乗り越えなければ、最悪の未来が待っている。

 視界がぐらりと暗転するのを、卓也は必死にこらえていた。


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