第14話
ようやく伸ばした手に何の価値がある。
いっそのこと自分の存在自体消えればいいと卓也は思った。
はたかれた加依の悲痛な音を、卓也は二度と忘れられないだろう。躊躇いなく娘をぶった雄二の顔も、ショックを受けて座り込んでしまった加依の姿も、絶対に忘れることなどできないだろう。
あまりにも傷のついた光景に、頭が真っ白になっていた。
「何してるの……! なにもぶたなくても……!」
明日香が加依にかけよって、雄二から庇うように抱きしめる。卓也は追うように加依を見た。そこにいた加依は、まるで人形のように放心してしまっていた。
「悪いことは悪いと教える」
「だからって……!」
「どけ。まだ話は終わっていない」
雄二の腕が伸びていく。明日香をどかそうとしている。
後ろにいる加依にもう一度手を出そうとしているように見える。さらに傷つけられる、と思った。
そこまで見れば。
ようやく、ようやく十分。
止まっていた思考が、いい加減、動き出す。白だった頭が、血で一瞬に真っ赤になった。爆発の一歩手前まで埋め尽くされた。
感情に任せるまま、卓也は雄二の腕をつかむ。目が大きく見開かれすぎて、まばたき一つしていない。
「なんだ。手を放――」
「ちょっとケンカしよう」
幼い喋り方とは何だっただろうか。雄二の腕に爪をたてている。
「また歯向かうつもりか。今は構っている暇はない。それとも、お前も何かを盗んだのか?」
ガゴッッッ!!!!! と大きな音がした。
背中にあったランドセルを、一切手を抜かずに雄二へぶん投げたからだ。床に落ちたランドセルを見る者はいない。
「お前……」
「ケンカしようっつってんだろ。いいから表出ろ」
玄関を押しあけて外に出る。これでも雄二がついてこないなら、飛び蹴りでも食らわせようと思っていたが、そこまでする必要はないらしかった。
少しだけ視界が周りへ向く。娘を抱きしめながら悲しい目をしている明日香と、未だにピクリとも動かない加依。
「卓也……」
「ごめん母さん。加依のそばにいて」
加依にどう謝ればいいのだろう。こんなことをしたって加依はもう傷ついた。物語みたいに、敵に傷つけられたヒロインを助けられなかった。自分が助けなくてもいいから、加依は助けなければならなかった。それがこの有様だ。今何か言っても、加依をさらに追い込むだけだ。加依を庇えなかった時点で、卓也の価値は消え去った。
だからもう理屈じゃない。全部が感情。爆発だけだ。暴力をふるった父親に、是が非でも報復する。大怪我を負って死んでも構わない。本気で思う。本気でそれしか思えない。
家の裏側へ回るだけだ。洗濯物のかかった物干し竿や、ちらほらと生えているはずの雑草が視界にあった気がする。周りが塀で囲まれているのは分かる。音は届くだろうが覗かれることは無い。邪魔されないことに心から歓喜する。
お互いに庭の両側に立った。あらん限りの怒りを視線にのせる卓也に対して、雄二の目は侮蔑するように冷え切っていた。
「お前は本当にろくなことをしないな。あのとき頭を下げたのはただのフリか」
「仕事について悪口を言ったのは悪いと思っている。家族のために働いていたことを馬鹿にした。だが、話が別だ。俺はただ単純に、何が何でも、お前を殴らなきゃ気が済まない」
その目は卓也を対等に見ていない。所詮は子供だと、喚いているだけだと決めつけて、本気で訴えていることを感じていない。
雄二は知らない。岩倉卓也の中身はただの子供ではない。正体は二十歳をこえて社会に出れなかった臆病者。だが、それが何か。北川陽介と岩倉卓也の今まで全部が、小さな少年に収まっている。ただのガキではない。相手をするのは本気でぶちぎれたガキだ。
「教育の邪魔だ。これが終わったらこの家から出ていけ」
「ぶん殴ったらな」
「迷惑な奴だ」
「本当に黙れよお前!!」
土を思い切り踏み抜き、卓也は一直線に飛び込んだ。
作戦、小細工、からめ手。全部いらない、やろうとも思わない。どれだけ倒されようと見下されようと、最後に顔を潰すだけ。実に楽な戦いだ。
拳を握りしめて思い切り振りかぶる。体格差がありすぎるのだ。わざわざ頬なんて狙ってやらない。腕を限界まで伸ばしきり、鼻先にぶちあてようとする。
しかし直後、隙だらけの卓也の腕は雄二に軽々と捕まれる。
「はな、せよ!」
今度はさぼっていた左手を握りしめる。何でもいい。当てればいい。そんな想いで突き出された拳は、体制が悪いせいで顔に届かない。
捕まれていた腕は少し強めに離された。それだけで幼い卓也はバランスを崩して地面に転んでしまう。
かすり傷ができたが、血なんて垂れ流れしてしまえばいい。
再び、あいもかわらず突っ込んでいく。全力でジャンプして飛び蹴りを放つ。雄二の腹にぶちあてて、馬乗りになってタコ殴りにしようと思った。
刹那、雄二の冷たい目がまた大きく入り込んだ。
「うっ……!」
勢いあるはずの飛び蹴りは簡単に手で防がれて、払われた。軽く前に押されただけで、また卓也は転んでしまう。
子供の身体を呪った。前世と同じ背丈だったら、もっといくらでもぶつかれるのに、余裕ぶったその顔をいくらでもぶち殺せるのに。
すでに息が乱れている。一週間程度の走り込みには見捨てられた。
だが、止まる気はない。何回でも何度でも、卓也はまっすぐにぶつかっていく。曲がることを拒絶する。気持ちまでは死んでも曲げない。
飛びかかって頭突きをかます。雄二はため息をついてずれただけ、あっけなくかわされた卓也は、盛大にすっころんだ。土が口に入り、感情のあまり土を噛む。唾を吐き捨てて立ち上がる。
雄二は卓也を殴る気がない。子供相手だからと本気で戦うことをしない。優位性を見せつけて、叶わないのだと思い知らせて、卓也が屈するのを待っている。だったら加依を叩いたのは何なんだ。
別に本当は虐待してくれてもいい。そうすれば牢にぶちこめる。だがその前に絶対に潰してやる。冷静、防御は全て飛んだ。
地面の土を握りしめて、雄二の顔面に投げつけた。
「ああああああっ!」
一瞬の間をついて雄二のふところに突撃する。雄二の顔に手のひらを突き出す。うまく当てられない。死ぬほど嫌な光景だった。
雄二が両腕で卓也の胸倉をつかんだ。殴れないゆえに押さえつけるつもりだ。
関係ない。雄二の腕に思い切り爪をたてる。雄二の顔がわずかに歪んだ。卓也は足をばたつかせて蹴り続ける。蹴って蹴って、なのに押さえつけられているせいで力が伝わらない。思い知らされた後で、逆に手を放された。
落とされた衝撃で身体が痛い。顔を歪ませて尚も起き上がる。
呼吸がすごく苦しいとか、気持ちに反してふらふらだとか、ふざけるな、と全部罵倒して突っ込む。腕を振り上げて意地でも殴ろうと、そんな卓也の行動をけなすように、雄二は腕を軽く前に突き出した。手のひらはあまりにも簡単に胸部に当たって、卓也はまたすっころぶ。
(くそ……っ、くそやろう……!)
あっけない。
本当にそこであっけなく『無理かもしれない』なんて思いが出始めた。
人生最大、過去最大の怒りが、たった一つの目的を成せない。思いで何かを変えられるなら卓也のかつてはもっと違かった。十歳に満たない子供の無力さに、打ちひしがれそうになっている。
何度も知っている『弱い』をまた思い知らされる。努力し始めたばかりのガキに結果がついてくるわけがないだろうと。このまま何も変わらず、雄二は自分が正しいと信じたまま。加依はずっと傷ついたまま。
……だが、その反吐がでる最悪の未来を考えてしまった反動が、
(ふざけるな!! ぜったいに負けるか!!)
再び拒絶へとつながり、卓也は立つ。
死ぬのはここではない。どれだけみっともなくても、この状況だけは絶対に許さない。
ひっぱたかれたんだ。一生懸命あやまろうと頑張っていた加依を、ずっと苦しんでいた妹を、この男は一振りでなかったことにした。
咳き込みながら突っ込んだ。腕をふりあげる力すらなくなっていて、雄二の足を両手でつかんだ。転ばせるつもりだったけど、体重差がありすぎて、ひきはがされ、むなしく地面に突っ伏した。
まだ、まだだ、と。歯を食いしばる。戦う前と変わらない怒りを爆破させて。
……だけど、だというのに、身体が本当に動いてくれなくなった。
「……っ! なんで……なんで加依を殴ったんだよ……!」
「親だからだ」
「ふざけるな……加依の気持ちも知らないで……!」
言葉になんて頼りたくなかった。むかついたんだ。ぶん殴りたかったんだ。なのに身体のほうが動かなくなって、暴力が敵わぬうちに言葉を選んでしまった。負けを認めたような気がして心底恨んだ。
「たしかに加依はよくないことをしたのかもしれない。盗みをして止められなくなっていた。だけどそれで判断するな! 暴力を振りかざすなら事情を全部知ってからひっぱたけよ!」
「悪いことは悪いことだ。どんな理由があろうと同じことをしないように、殴らなければならなかった」
「黙れ! 何も知らないくせに何が『しなければならなかった』だ!」
屈辱のあまり、いい加減にしろと動こうとした。馬鹿みたいに震える手足を、いまだ増え続ける怒りで無様にみじめに。
しぼりだせよ。体中のエネルギーをすべて捨てるつもりで、もう一度ぶつかる勇気を、ぶん殴る力を。
「加依はずっと、盗んでしまったことを悩んでたんだ! 父さんも最近の加依を見ていただろう! 一日中あんなに苦しそうに……! 本当は心の中でずっと何とかしなきゃって思ってたんだ! 決して何も考えずに平気な顔で盗んでいたわけじゃない!」
「当然のことだ。悪いとすら思っていないなら平手打ちだけじゃ済まさなかった」
「そうやって! お前が悪いことを全部許さないから! 加依は話せなかったんだろう! 加依を苦しませていたのは父親のお前だろう!」
土も踏めず膝も曲がらず、半ば這うように向かった。
振ろうとした拳が雄二の腹にぶつかる。それは、確かな当たりだったのに、
「……っ!」
拳は腹だけで止まる。雄二はわざと対処せず、一歩も変わらなかった。それほどまでに無力さを思い知らせたいか。優位性を示したいか。
受け入れられず、何度も腹に拳をあてる。もともとわずかだった腕の力がどんどん弱くなっていく。
「加依は言ってたよ……『めいわくかけたくないって』って。家族を傷つけたくなかった。父さんと母さんに悲しい想いをさせたくなかった!」
「言い訳だな。ばれるのが怖かったから話さなかったんだろう」
「違う!! 少なくとも絶対にそれだけじゃない!!」
右腕が欠片も動かなくなったから、今度は左。利き腕でない左拳は、どれだけ力が入らないのだろう。
「今日、加依は父さんに紙を渡そうとしてたんだ! そこには今まで盗んでしまったものが書いてある。紙にはいつどこで盗んでしまったかまで書いてあって……なんでそんなことができると思う! ずっと前から加依は紙を書いてたんだ! 最初のあたりは思い出せなくて泣いていたけど、後の方はあとでしっかり謝れるようにずっと書いていたんだ! 怒られるのは怖かったかもしれない! だけど! 盗んでしまったことを加依なりに精一杯なんとかしようとしてたんだ! 逃げてなかった!」
「……まさか。盗みをはたらいていたのは一回ではないのか? だとしたら……」
「うるせえ!!! そういうことを言ってんじじゃねぇっつってんだろ!!!」
両腕とも使い物にならない。飛べないから頭突きもできない。あらん限りに睨みつけて声をぶっとばす。
「紙に書くだけじゃない! ここに来るまで一生懸命、謝る言葉を考えていた! ちゃんと悪いって思っていることが伝わるように! 許してもらえるようにできることをやっていた! わかるか! がんばってたんだよ! わかってんのか!!」
目から涙がこぼれ出てきた。涙は卓也の勢いを止めない。視界の悪さなど知らない。だが、睨む力もなくなってしまった。大声だろうと悲鳴だろうと、本当の意味で残されたその声に全部を入れる。
「あの子が盗んだものは何だったと思う……! 父さんは何も聞いてない……! 何も知ろうとしなかった……!」
そばに赤いランドセルがあったなら、今からでも紙を引っ張り出したい。
「鉛筆、消しゴム、ふでばこ。全部学校で使う道具だった! 父さんと母さんに頼みにくくて、加依は物を買ってもらうのを我慢してたんだ! だから盗んでしまった! 加依にそうさせたのは父さんだろう!!」
「……」
「それでも! おもちゃとか、服とか、そういうのは全然盗まなかったんだぞ! 色々あって間違えたかもしれないけど! だけど――!」
「だとするなら、なおさら叱らないわけにはいかない」
もはや、自分が空気な気がした。
最後に残された卓也の声は途中で遮られ、欠片も響かない。
嘆いた声がガラガラになっていく。身につけていた武器なんて始めからなかった。
「いい加減にしろ。言っているだろう。どんな理由があろうと、加依が盗んでいいことにはならない」
「『盗んだ』で全部まとめてんじゃねえええええええええええええええええええええ!」
それでも、出す。
加依のためなんて綺麗なものじゃない。傷つけられたどうしようもない怒りを爆発させること以外できないのだ。でも、
「悪い悪いうるせえんだよ!! 加依が悪いかどうかなんて聞いてねえ!! 加依が正しいなんて言ってねえ!! 父さんが加依がどれだけいいやつなのかを見ないから!! だから言ってんだ!! ぶん殴らないと気が済まないっつってんだよ!!」
気持ち悪さで、吐き気までしてきた。気持ちが届かない身体はもう潰れるかもしれない。
だったらもう、全部出す。
「今まで加依が一度でも学校をサボったことがあったか!? テストで悪い点をとったことがあったことは!? 朝におはようと挨拶をしなかったことは!? お風呂や歯磨きをしなかったことは!? 夜遅くまで起きていることは!? そういうの全部当然!? ふざけんな!! 当たり前のことを毎日しっかりやることがどれだけすごいことか!! 父さんが加依をそんなふうに育てたんだ!! そんなふうに教えたんだ!! だから加依は優しくてまじめな子で……!! だけど! そんな加依を父さんはひっぱたくだけだったんだぞ!! 許せるわけないだろ!!!」
最後の声は枯れた。もう喚けない。
なのに目に映るのは、うろたえた様子もないこちらを見つめる雄二の姿。
「なぁ、父さん……」
戦果をあげられなかった愚か者が、未だみじめに結果をほしがる。
「加依の顔を見た……? 叩かれたのに、泣いてなかったよ。泣かないのにとても辛そうだったよ……。俺の妹なんだよ……」
頭が冷えきっていく。その中で卓也は思った。
前世の両親に抱いていた感謝の気持ちは、全然足りなかったのだと。『受け入れてくれる』というそれだけのことで、どれだけ救われてきたのか。
だけど、加依はまだそれをもらっていないから。これから加依が笑顔でいるために必要なものだと思うから。
いつの間にか、すがるような目をしていた。
「加依のことが大切じゃないのかよ!!!」
子供を愛せない親が世の中にはいるらしい。恵まれていた卓也はその環境を知らない。
そして、恐らく雄二もそうではない。教育を娘への愛とつなげている。加依のテストをほめることもあった。家族のために仕事をしていた。
だが、やり方が気に入らない。どうしても相容れない。許せない。まとめればそれだけのことなのか。
卓也は歯を食いしばり、かすれる声で訴えていた。
愛しているなら、大事にしろ。
「……しっかりと教えなければ、取り返しのつかないことになるんだ」
雄二は目を閉じると、こんどこそ後ろを向いて庭を去ってしまった。残された卓也は呆然とすることもできず、死にかけの虫みたいに倒れた。
雄二が分からない。肯定してほしかった。
無力な自分らしい終わりだ。服も体も土で汚れきった。気づけば心が裂けていて、胸のあたりがとても痛い。空はいつの間にか雲ばかりで、冷たい風が楽になることさえ許してくれなかった。
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