第12話
その後、昼休みに調べてみたが、卓也のランドセルやロッカーに筆箱は入っていなかった。
多口尚人の発言は、後のことを考えない場を混乱させるだけの小学生じみたイタズラだったらしい。
筆箱の真相は不明のままだが、卓也にとってはまだそのままでいい。
「加依! まって……! いっしょにかえろう?」
放課後すぐに立ち上がった加依の歩き方は、まるで身体を引きずるようだった。
急いで追いかけ、まだ人気のすくない玄関口で呼び止める。手を引っ張って加依を止めることは避けた。身体を揺さぶりたくなかったから。
加依はあろうことか外靴に履き替えないで外に出ようとしたので、大きく音をたてずに彼女のそれも出す。
一緒に帰ることは了承してくれたようだが、目を合わせてくれずトボトボと先を行く。あっという間に校門をくぐることになる。
とにかくしっかり話して、間違いなく伝えなければならない。少ない時間で、死力を尽くして用意した言葉を喉元までもってくる。
「すこし、よりみちしていかない? はなしたいことがあるんだ」
「……」
「おねがい。加依とはなしたいんだ」
数秒後、加依の頭がこくりと傾く。そっと加依の手を引いて移動した。
卑怯だが、走って逃げられるはずの通学路でも、こちらがしつこいほどに声をかければ優しい加依は応えてくれると踏んでいた。無視できない彼女の性格を利用した以上、失敗はできない。
手を引いて、通学路から逸れて十分ほどの場所にある、砂場と鉄棒だけの小さな公園にやってきた。知り合いがくる可能性は低いだろう。
二人でベンチに座る。辺りの木々が太陽を隠し、卓也たちに日陰をつくっている。わずかに吹く優しい風は、加依をなでてくれているだろうか。
どうすれば力になれるのかと必死だった。『卓也ならどうされたいか』くらいしか参考にできない。加依の心は覗けない。事情すらよく知っていない。声をかけるたびに加依を引き裂いてしまう、という恐怖がある。
ゆえに、加依の真横へ向き直る。わずかなサインも見逃さないように、何で苦しんでいるかを是が非でも知るために。
完全に素に戻ることにした。
「ごめんね。そんな顔をさせてしまって。あの時、本屋さんで加依の話をちゃんと聞いてたら、そんな苦しい想いをさせずに済んだと思う。悲しませたくなんてなかった。まっさきに『力になりたい』って伝えればよかった。……だから、ごめんね」
加依の瞳がわずかにこちらを向く。今のところ、さらに抉ったようには見えない。
しかし、充血した目の下にはクマすらできている。決して、九歳の女の子がしていい顔ではない。卓也は思わず目を閉じた。心の痛みがどれだけ辛いか知っているはずなのに傷つけてしまった。抱きしめて大丈夫だと本気で言ってあげたいが、いかんせん感情に任せきっても解決しないことはよく知っている。
「誰にも言わないよ」
せめて、うなだれている身体を手で支えておこしてあげたい。だが、手を放した瞬間にまた戻ってしまったら――そう思うから言葉で尽くす。
「加依が本当に誰にも知られたくないなら、絶対に言わない」
家族にも友達にも気を張り詰めてしまっている。それでも、加依はいま、わずかでもこちらを見てくれている。その視線は放したくない。
「絶対に誰にも言わない」
顔をさらに近づけた。
「加依が辛くなかったら、ね」
決して悪い意味でとらえないで欲しい。だから精一杯ほほ笑む。
「時間がたって辛いのが消えてくれるならそれでもいい。だけど、もし加依がこれから先も苦しそうな顔をするんだったら、そして、そのきっかけが俺の一言にあるのなら、力にならせてほしい。加依が笑えるようになるまで」
遠くから子供たちの声が聞こえた。場所をうつすことを考えが、声は通り過ぎていくことで杞憂に終わる。
話したいことは伝えた。思いのほか短い内容だった。
それもそうか、と思う。尽くそうが飾ろうが説得力をもたせようが、結局伝えたいのは『元気になって欲しい』だけだった。これで、加依が心を開いてくれないなら、もう少し強引にいかなければならなくなる。しかしそれ以前に、ずっとそばにいるつもりだった。
ほんのわずかに卓也は身を引いた。これ以上は圧を与えず、加依に考えてほしかったから。
吐いた息が白く染まり、そして散らばっていく。
想いを馳せた直後、加依の声がした。
「どう、して……?」
ほっとしてしまった。
理由を聞いてくれたことに、絆の糸を感じられたから。
――どうしてこんな自分をたすけようとするんだ。
卓也も、先日加依に聞いた。
(元気になって欲しい理由は、ごまんとある)
朝どうしても起き上がれない自分を毎日起こしてくれた。ろくに目を合わせない自分に挨拶をし続けてくれた。学校でいじられた自分を庇ってくれた。怒る雄二から守ろうとしてくれた。そして、助けてくれた。
卓也に対してだけではない。テストで高得点をとれるのは、家に帰って勉強しているからだ。笑みを絶やさなかったのは、明るい雰囲気にしようと気遣うからだ。
何より、ここで必死で悩んでいるのは、加依が懸命に生きているからだ。
決して……決して簡単にできることではない。
だけど、以前の落ち込んでいた卓也には、過去の行動を褒められるだけでは、効果がなかった。どれだけ『もう一人の卓也』に自分の良いところを教えてもらっても、結局は『蔑ろ』に行き着いた。
卓也が自信のもてなかった励まし方を、振りかざすことはできない。
諭され、自覚した『変わりたい』という想い。
そして、加依が卓也を受け入れてくれていると知ったからこそ、本当に歩き出せた。
加依が今の状況を『変えたがっている』のなら、その背中を押す。加依がちゃんと何とかしたいと思えるように、そばに自分がいることを伝える。
他人を避けていた前世では使わないと思っていた、他者を想う言葉を。
どうして、加依を元気にしたい?
「俺は、お前のことが大好きだからな」
言葉だけ取ったなら、告白めいている。
もし、卓也と加依がもっと大きかったなら、ここまで直接的な会話はできなかっただろう。でも自分たちは幼い兄妹だから、照れくさいとか、気まずいとか、そういうのをとっぱらって真剣に言える。それ自体の良し悪しは分からないが、誰かを元気づけるためだけに全部の神経を注げることを、ありがたいと想う。
(……けど、事情を聞くのはまた今度にしたほうがいいか)
きっとまだ、彼女は懸命に葛藤している。打ち明けるべきかを悩んでいるはず。容易に踏み込んでかき回せば、告げた想いも弱まる。
今日が完全な期限というわけじゃない。本心はもう伝えた。とにかく加依が元気になればいい。軽く膝に手を置いて、ゆっくりとベンチから立ち上がる。岩倉家にいつも帰宅する時間から、それなりに過ぎてしまっていた。
「帰ろうか」
加依に向けて手を差し出した。動かなければまた隣に座るつもりでいたし、加依が嫌がらなければ再び手をつないで帰ろうと思っていた。
「……っ」
だけど、揺れる加依の瞳に、そこで気づくことができたから。
「……どうした?」
って、小さく言えた。
加依がゆっくり動く。心の内側がどれだけかき混ぜられていたのかは見えない。でも、吐き出せたなら、彼女の何かは変わっていく。
「わたし……ぬすんだの……」
かすり出た声が、しっかりと卓也に届く。
その勇気ある行動がどれだけ立派か。
卓也はしっかり相槌をうつ。座っている加依を上から見るのが嫌だったから、ズボンの汚れを気にせず目線を合わせた。
「誰かのものをとってしまったから、ずっと苦しんでいたんだな」
「たくさん……たくさんぬすんだ……。やめられなかった……」
スカートを握る手がふるえている。手をつなぐために差し出していた卓也の手は、いったんさげることになったから、代わりに加依の手の上に重ねることができた。
「加依は、これからどうしたい?」
「……あやまりたい」
重ねた手は冷たかった。自分の中の血液が、手を通して彼女に移ったらいいのに。
「ぬすんだ友達にあやまらなきゃ……。おとうさんや、おかあさんにも。……でもそうしたら、おとうさんとおかあさんにたくさんめいわくをかける。おこられる。たくさんかなしませる。だから、こわかった……」
「……そうだよね。とっても、こわいよね」
親に怒られるのも怖いはずだが、迷惑をかけたり悲しませたくないと考えは……加依らしいと思う。
子供らしくなさすぎる。ずっと気を遣いすぎている妹ことを、改めて実感させられた。
泣き出した加依がずっと無理をしてきたことの反動なのだとしたら、日ごろから心を張り詰めて苦しんで、我慢できなくて盗みをしても苦しんで、一体いつ幸せになればいい?
どこにも価値を見いだせなかった卓也も苦しんだが、前世の卓也は成人を超えてはいた。小さな加依がそんな目にあっているのだとしたら、その幼さで耐えるにはあまりにも負担が過ぎる。
でも、卓也がいる。
加依のそばにいられたのは、神様がくれたチャンスだと感じる。
幸運と言っていいのか、卓也は『苦しい』を知っている。長年にわたって過去の行動を悔やむ卓也だから。
『やめてくれ』と叫び続けていたから『苦しい』を知っている。
反省し悔やんでいる子を、怒鳴りつけてはいけないと知っている。
だから――隣に立ってあげたい。それが最適解や特効薬だとは考えていない。でもせめて、苦しい時に寄りかかれるように。
それが、何よりしてあげたいことだ。
「つらかったね……今まで我慢していたんだね」
加依が微かにふるえた。
そっと、加依の頭に手を置く。
「人の物を盗むんでしまって、加依はずっと悩んで悩んで、何とかしたいってずっと考えていたんだね」
本心だ。元気づけるためだけの言葉とは決して違う。
人は誰だっていつの日だって、どんなやり方であっても懸命に生きている。卓也がずっと信じていることだ。
そんなふうに、ありのままを肯定することを、卓也自身にもしてあげられたなら満点なのだが。
しかし今は、加依を愛しく思えればいい。
「よくここまでがんばったね。俺はそんな加依のことを、とってもすごいなって思うよ」
髪にそって手で触れる。さらさらとした心地よさが確かにある。
途端、加依からこぼれ落ちるものがあった。スカートをぽつぽつと濡らすその雫に、わずかでも辛さが染み込んでいて外にだせたなら、これ以上良いことはない。
「もっともっと泣いていいんだよ」
加依はぶんぶんと首をふって、袖で涙をふく。でも止まらないみたいで、卓也は今度こそ笑って彼女の頭をなで続けた。
「おとうさんと、おかあさん、どんなふうにおもうかな……。わたしがぬすんだりしなきゃ、こんなことにならなかったのに……」
「大丈夫。二人とも許してくれるし、今からできることがたくさんあるよ」
ほてる表情や、高くなった声から、だんだんと加依の温かさを感じ取れるようになる。会話は広がっていく。加依に伝えられる言葉がたくさん増えていく。
「盗んでしまったものがあるなら、ちゃんと紙に書いておくとか、どんなふうにあやまるか言葉を考えておくとか。ちゃんと加依がごめんなさいって思っていることを、父さんと母さんに分かってもらおう。できることを一つずつやっていけばいいんだよ。そうすれば必ず、いいほうに向かっていく」
「……おこられなくなるってこと?」
「うーん、そうだなぁ。さすがに注意はされるかも。父さんや母さんにとって、加依は大切だから。だからこそ、幸せになってほしくて怒るんだと思う。でも、大丈夫だ。二人は加依のことを大切に想ってる。それに、俺がそばにいる。何ならずっと手も握っている。いっしょに怒られよう。みんなに謝っていこう。加依には笑っていてほしいんだ。だれよりも俺を助けてくれた家族だから」
「わたしが、たすけた……?」
「うん。助けてもらった。たくさん」
公園に伸びている時計は、少しくらいならまだ居ていいことを示していた。日の暮れを『終わり』と暗くとらえたこともあったけど、今は周りの光景が、前へと踏み出す道しるべに感じられる。
「……わたし、あやまりたい」
「わかった。じゃあ、いっしょに準備しようか。今からやる?」
「うん。ありがとう……!」
「あたりまえだよ。いくらでも力になる」
再び卓也は加依の隣に座った。加依はランドセルからノートをとりだすと、鉛筆を手に言葉を書いていく。
ベンチの両側にある赤と黒のランドセル。真ん中に並ぶ二人。
暖かく包み込まれているような不思議な気分になる。加依の表情は温かく、真剣なものに変わっていた。力を取り戻していくようであった。
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