第10話



 なおも理想像について考える卓也。 


 小説の主人公が自身の理想に当てはまるかを、卓也は判別できる。それはつまり、理想をある程度イメージできているということ。それを明確な言葉に置き換えられたなら、参考にできる小説を見つけるより目標が分かりやすい。


 体育館ほどのスペースがあるこの本屋には、カフェテリアが隣接していた。何かしら注文すれば、屋内スペースで立ち読みできるというサービスもあるようだが、幼い卓也が一人利用するのは難しい。学校の図書室を使う手もなくはないが、書籍の豊富さなど諸々の理由が厄介なところ。


 端にあるシックな群青色のテーブルを囲む中、卓也はシャーペンを片手に、明日香に借りたメモ紙をじっと見つめる。


・べんきょうもうんどうもできるようになりたい。それがじしんになる。

・はっきりといけんをいえるようになりたい。強くなればそれができる。

・こまっている人がいたら、たすけたい。たすけることをこわがりたくない。

・きずつかない心になりたい。

・しょうらいはむりしないくらいにしっかりはたらきたい。


 この多少めんどうくさい『ひらがな』が卓也の理想だとして、これらの達成が自己肯定感の上昇につながる。

 目的が決まったなら、具体的な行動を決めればいい。


 ……しかし、卓也の瞳は細められ、頭もわずかに傾いている。


(ピンとこない)


 言うなれば、良き未来を想像したときに湧く「よっしゃあ! やったるぜ!」的なモチベーションの上がりがこない。店内に満ちているはずのコーヒーの香りが鼻孔をくすぐらずに通り過ぎているようだ。

 ビジョンが浮かんだ以上、何かしら行動するのは絶対だ。最後のチャンスをふいにすることだけはさせない。だが、食料のない状態で、ふもとから山の頂上を見ている気がする。せめて水ぐらいは手に入れたい次第である。


 目標が欲しい。やる気の出る目標が欲しい。


「たくや、どうかしたの? ぶすっとしているよ?」


 加依の右手の人差し指を頬にもっていく姿は可愛らしい。


「加依は、その、しょうらいなりたいものとか、やりたいこととかある?」


 場しのぎだったが、悪くない質問だと、卓也は目の色を取り戻す。加依は今度は髪の編まれたところを触りだした。わずかばかりの同様が見られるその頬は、赤い気がしなくもない。


「私も聞いてみたいな。卓也や加依がどんな夢をもっているのか」


 飲み終えたコーヒーカップを少し遠くに置いて、明日香がにこにこと前かがみに詰め寄る。押された加依は縮こまりつつも、「え、えっとね」と口元を緩ませた。

 加依は何と言うのか。それと、逆にこちらの夢を聞かれたらどう答えようか。

 混じりあう思考から手がわずかに汗ばみ、加依の侮れない心に期待した。


「お、およめさんになってみたい、かな……?」

「……え?」


 呆けた声が思わず出てしまって、全力で卓也は余所見する。

 今の反応は正直ほめられたものではないと、持っていたオレンジジュースを顔面にぶっかけたくなった。


「あら、とても素敵な夢ね。明日香はとっても可愛いから、きっと、いいお嫁さんになれるわ」


 便乗するようにコクコク人形を演じる卓也。横目で加依を確認すると悲しそうな様子はなかったため、心臓が盛大に安堵した。


 言い訳だが、それだけ意外だった。苦しんでいた兄を庇い、怒鳴りつけられたのに探してくれた。卓也は加依の『しっかり』から偏見をもち、同じ目線で見過ぎていたらしい。

 明日香と親子らしく手をつなぎ、今だって可愛らしい仕草を見せたというのに、具体的な夢とその理由まで完成していると思い込んだ。頭をぶんぶんと振り回し、妹の夢の素敵さに微笑むことにした。


 都合よく下部の反応が来たので、卓也は席から立ちあがる。


「ちょっとトイレにいってくるね。……あ、だいじょうぶ、すぐそこにあるし」


 小走りでカフェを抜けて、青い人型マークを抜ける。

 自分のアレが小さくて、思わず顔をしかめるのだが、再びふり払って切り替えた。


(結婚、か……。この手に関しては、どこぞの主人公みたいに、彼女なし=年齢+童貞だったわけだが)


 いずれ月日が経って、そういうことができるほど成長するのだろうが、それまでのほほんと暮らすわけではないため、やはり『今』ではない。

 結局、ランニングの継続が目下のやるべきことになるのだろうか。侮ってはいけない茨の道だが、これ以上ないやる気がしばらくは続く。躍起にはなったが、見つけるのは努力の過程でも問題ないといえる。

 動くことが大切。もう一人の卓也に言われたように。


(今誰かがトイレに来たら、相変わらず出なさそう。……その時は訓練とするしかない)


 幸運にも、トイレ特有のすっぱさも、他の人がくることも最後までなかった。気分良く手を洗い、卓也はもう一度本に溢れた場所へと戻る。


(……あれ?)


 カフェと手洗い場の位置をしっかり覚えておかなかった故、横断歩道の手前みたいに首をまわした時、加依らしき姿が目に入る。

 左側を丁寧に編まれた綺麗な黒髪。出かける際に来た空と雲を思わせる青色系のセーターとスカート。人気のアニメキャラクターが描かれた小さな黄色のポーチ。目を凝らせば彼女だとしっかり分かる。


 しかし、そばに明日香の姿が見えない。


 加依もお手洗いに行って、寄り道しているということだろうか。小さな回転式の棚を見ているが、彼女にしては珍しい行動だ。文房具やメモ帳が、緑色の棚に綺麗に並べられ、装飾は季節前のクリスマスツリーを思わせる。


 きょろきょろと周りを見渡した後、立っていた場所から、回転式の棚の向かいにわざわざ移動する加依。声をかけようかと思いつつも、言い表せない何となくの違和感を覚えて、そのままじっと観察する。

 一ダースの鉛筆が入っているだろう箱を手に取って、しばらくの間、何度も表へ裏へと返していた。


(母さんにあげるプレゼントを秘密で選んでいる? いや、そういえばこの前、鉛筆を買う話をしていた気がする。それを選んでいるのかな? なかなか戻らなかったら、母さんが心配してしまうけど……)


 やはり一声かけようか。危険なことは起こらないだろうが、もしかすれば店員に呼び止められてこんがらがる。同じ幼い身体でも手伝えることはあるかもしれないと、今度こそ卓也は歩みを進めた――はずだった。


 加依がその鉛筆の箱をポーチにしまったのを見て、身体が止まった。


(…………………………、えっと)


 そういうこと、ではないと思っていた。本人はあくまで後で買うためで、単なる常識の問題であると。もしくは、本当に単なる見間違いであると。だが、もしもという想いもあって卓也は確かめることにした。屋内の雰囲気が変わった気がしなくもないが、逆に言えばそれだけだ。


「加依?」

「……っ!」


 微かに肩を震わせて、加依はポーチを背に隠す。膨らむ疑問を抑え込むように、卓也は裾を握りしめる。横目で周囲をうかがい、念のため誰も近寄らないでくれ、と願った。いっそのこと小説に出る結界や魔法が使えてもいい。


「どうしたの? なにかあった?」


 加依へ向ける自分の声は小さかった。遠くにいる人の声がやけに耳をうつ。喉がうるおいを求めて乾いていく。

 でもやはりそれだけ。

 ……しかし、加依と視線が交じった時、彼女の瞳はまるでライオンを前に足がすくむような、外さないというよりは外せない感じで。こんな態度をとられるとは思わなかった。


「その……、いま、ポーチになにかをいれたよね? おかねをはらうまでは、だしておいたほうがいいよ」


 ここで鉛筆を戻してくれるなら大丈夫。すこし目をそらしながら、うなずいて棚に戻す。そんな妹の姿が、反射で思い浮かんだ。

 ……だが、


「なんの、こと?」


 卓也も口元がこわばった。だが、加依の気持ちはもっと辛く動いているかもしれない。伝える言葉を探して、頭の中をかきまわす。

 何とかする必要がでてきたようだが、まだ大丈夫だ。卓也も前世で両親を騙した。自分みたいにはさせまいと、綿で包み込むように努めて言った。


「ポーチにしまったもの、だしておこ? なにかあったなら、はなしをきくからさ」


 苦しそうで辛そうで、あからさまに怯えた妹の表情。顔を出していただけのはずだった疑問は、確信に近い疑惑になっている。とはいえやり直せることだ。心に傷を負わせることなく、優しく間違いを伝えればいい。

 やがて、加依は言うことを聞いてくれた。ポーチから箱を取り出して元の場所に置く。整っているはずの髪が、下を向く額にかかって暗くなる。


「おねがい……。おとうさんとおかあさんにはいわないで……」

「だいじょうぶだよ。まだぬすんだわけじゃないんだから」


 そんなに張り裂けそうな声をだす必要はない。丸めた声に効果がないから、頭でもなでればいいだろうか。未だ震える妹の表情を、卓也は何とかしたかった。

 だが、行動に移す前に、卓也はさらに『もしかして』と思ってしまった。『もしかして』はしっかりと意識する前に口の外へ出てしまう。


 そして恐らく、あくまで丸めた言い方のつもりだったのだが、卓也の次の言葉は加依を抉った。


「ひょっとして、まえからぬすんだりとかする……?」


 否定も肯定も、言葉も出さず、加依は目をつぶりこらえていた。知ってしまった卓也は思った以上の重さを知る。

 積み重ねてしまっているなら絶対にここで止めたい。悪いことだから、などと断じたのではなかった。

 こういう類は放っておけばずっと苦しくなるのを知っている。

 その一心で卓也は話す。


「だいじょうぶ。でも、このままにはしないほうがいいよ。あおい、ずっとこころがいたかったんでしょ……?」


 その言葉が、きっとまずかった。


 いわないで。

 その言葉を――理由を聞かずに素通りして、彼女をしっかりと見なかった。一方的に押し付けた『優しい言葉』は、卓也の主観にまみれた。

 加依がとうとう青ざめるのを見て、今更ながらに失敗を知る。何とか安心させようとするが、今度こそ言葉が詰まってしまった。


 加依は逃げるように走り去ってしまう。

 ぐるりと回って、元のカフェに戻っていくのを見て、卓也は追いかけるのをやめた。


 落ち着け、と自身の胸倉をつかむ。

 本当に加依が盗みを繰り返していたのなら、悠長に構えている暇はないだろうが、それでも。

 見間違いではないのか、という想いも未だ消えない。先ほどとは別のベクトルで、驚きを隠せない。直前に「およめさんになりたい」と言った加依と、盗みを働きかけた加依が、結びつかずに離れていく。


(……いや、だからこそ、なのか……?)


 自分の罪悪感を消すために、穏やかな空気につかるために、「およめさんになりたい」と言う。小学三年生がそんなことをするだろうか。

 する、というのが卓也の答えだった。少なくとも、彼は前世で似た行動をとったことがあるから。


(『やったよ。スタンプてにいれたよ』って、わざと飛び跳ねて、喜んだふりをしていたっけか。あの時は小学生ですらない……)


 現状を理解した上で、卓也はどうするか。


 加依がこうなった理由が必ずある。単に親に伝えれば解決する話ではなくなったかもしれない。考えてみれば、伝えたところでまっているのは、恐らく父親である雄二の容赦のない制裁だ。

 だから、すぐに話さないで、いずれ加依から打ち明けられるようになるまで支える。秘密にしながら加依の力になる覚悟はあるだろうか。はっきりとした自信はない。


(……不謹慎だが、助けることが自分のためにもなるかもしれない。加依の力になる途中で、なりたい自分が見つかるかもしれない。それに、理想の自分ならここで加依を見捨てない)


 助けてくれた妹を、卓也が助けない選択はない。今なら選び取る勇気もある。

 気持ちを整えようと吐いた息が空気に溶け込んでいく。ふらついていた手に力が戻ってくる。天井の証明を静かで明るいと思えた。感覚が消えたりなんてしていない。


 加依と明日香のもとへ、ゆっくりと歩きだした。


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