第5話
たどりついたのは、ホールを思わせる少し広めの部屋だった。
まるで、かがり火を遠くから眺めているように、卓也はそこの光景を眺めていた。
「てちちちちち、りゃー、どーん!」
幼い声。手のひらで作った水鉄砲がはじけたような、プラスのベクトル。
卓也たちが見えていないのか、小学生にも満たないその子供が、卓也たちの目の前を通り抜けていく。
活発な声を出しながら、走って、飛びついて、抱きつく。子供が抱きついた先には、高校生くらいの青年がいる。
【とある幼稚園の屋内だよ。懐かしいだろう】
「どうやったら、こんな……」
【いいから】
どこぞの教室と同じくらいの部屋に、オレンジ色の絨毯が広がっている。角のない楕円のテーブルは足がとても短いのに、そこに突っ伏したり、床に寝転ぶ子供がいる。背の低い本棚に並ぶのは、絵本だとすぐに分かるふにゃりとした背表紙。座っている動物のぬいぐるみはどれもが丸くて少し傾いている。
そんな空間を照らす蛍光灯の緩やかな光と、子供たちの声。
【前世で高校三年生の頃、俺たちは学校に行けなくなった。……あの時は本当に驚いた。プツン、と本当に糸が切れたから。社会から外れて、焦りと罪悪感に苛まれる日々が始まった。心の辛さは変動した。楽に休める日と、焦りで苦しくなる日。そして、後者が些細なきっかけで凄く強くなった時に、俺たちは衝動的に幼稚園へ行くことを決めた。ボランティアという名目で幼稚園児の遊び相手として】
もう一人の卓也が、青年を指でさす。先ほどの子供に抱き着かれていた高校生くらいの青年のことを……。
それが、北川陽介。
前世の卓也。
平均的な背丈をしているが、すこし余分な肉でもあるのか顔はわずかな楕円を描く。
トップスは淡い色合いのTシャツ。着こなしに工夫もなく、凝視すれば襟がよれているかもしれない。ボトムスのジーパンも重なる洗濯でわずかに色あせていた。
ただ、表情は朗らかだ。
見おろすことのない膝をついた目線を、飛び込んできた子供に合わせて、『走って抱き着いたら危ないから、ゆっくり抱きつくんだよ』などと微笑んでいる。
彼の後ろにはもう一人、わずか三歳ほどの幼子がいた。紐のベルトで固定された幼子は口を少しだけ開けたまま、北川陽介の背中でおとなしい。
【この出来事を、お前は間違いなく覚えている。同時に、こうして自分を外側から見るのは初めてだろう】
「何が言いたい」
【とぼけるなよ。面倒を見ているあいつを、クズだと言えるのか?】
「責任問題でアウトだ。幼子をただの高校生が背負うなんて、保育園の先生の視界にあっても、看過できることじゃない」
【『クズ』だと、言えるのか?】
「……」
負ぶっている幼子は、ボランティアに来た北川陽介とまったく同じ日に、幼稚園に預けられた子供だった。もちろん、母親のそばを離れたことなどなかった。当たり前のように泣きわめく。だけど、先生が付きっきりで面倒を見る時間はない。
だから、代わりに付き添った。文字通り日が暮れるまで。
【簡単なことじゃない。常に前かがみだから背中や腰が辛くなる。背中から倒れてしまえば二つ、三つの意味で死ぬ。高校を退学して接する力を失ったままだ。精神がすり減る理由なんていくらでもあった】
【声】の卓也が無理やり視界に入ろうとしてくる。
卓也は目を合わせるのが嫌だったが、目を背けることもできなかった。
【それでも……お前は笑った。辛いことがあるとすぐに感情を乱すお前が、子供たちを不安がらせないようにと、そのために耐えたんだ。自分の様に心が弱くはならないようにと願いを込めて、今のうちにたくさん笑っていて欲しいと考えた】
『うええええっ、〇〇〇のにおいがする!』
急に、子供たちの部屋に違う色が落とされた。
鼻をつまみながらも離れなかったり、両手で口ごとふさいで奇声をあげたり、子供たちは自由で大きい。
騒ぎの真ん中には、泣き出す幼子と、背中に異臭もらった陽介がいた。しかし、なおも陽介の朗らかさは崩れない。
――うん。頑張って生きてるな。元気でなによりだ。みんなもこうして大きく育ってきたんだよ。
そんな北川陽介の言葉に、見たことのない不思議さを感じたのか。騒いでいたはずの子供たちは、テレビに映る宇宙でも見ているようにポカンと口をあけていた。
駆け寄ってきた先生に笑顔を向けながら、陽介は奥の扉をあけて部屋から出ていく。何故か直前よりも抜けた顔をして。
扉の締まる音や、彼らの足音がやけに響いた。
【さて、あいつに向かって本心から罵倒してみろよ。どうしようもない救いようのない『クズ』だと言ってみろ】
「……だれでもできるだろうあんなこと」
【自分だけ馬鹿にするにもほどがある。なら、いくらでも『北川陽介』を言ってやる】
子供たちがだんだんと元気を取り戻していく。元気な声は、部屋の雰囲気や照明の光によく似合っている。
なのに、邪魔なもう一人の卓也の声もはっきり聞こえる。
【かつて、幼いお前は保育園に世話になったな。あやとりが好きな保育園児だった。自分であやとりの本を読んだりして、合計で百以上も作り上げた。褒められる意欲的な子供だった。それだけじゃない。夜は母さんに「保育園行きたくない」とごねたけど、翌日の朝は絶対に言わなかった】
【小学二年生の頃、女子トイレに入った大きな虫を追い払ったな。手伝いを約束させようとする女の子に対して、お前はためらいなく引き受けた。本当はでかい虫が苦手なのに、そういう時は動くんだ】
【友達の弟をかまってあげてた。他の友達は兄も含めて他のことで遊んでいたのに、お前だけはその子と一緒にいた。双子の女の子と仲良くなって、身体をはって遊んであげた。小さなから、その頃からおんぶにだっこは得意技だったな】
【小学校のころから何でも真面目に取り組む子だった。落語に取り組んだ時は何度も練習をして、恥ずかしがらずに思い切りやった。どんな時でもそうだから、地域の祭りで踊りをすることになった時も、最初の掛け声を代表してやることになった。お寿司屋さんの劇も、運動会の見世物も】
【習字の代表に選ばれた。すでに展覧会にのるのが決まっているのに、納得がいかないと夜まで書き直した。役に立つとか関係なしに、必死に頑張れる子だった】
【何度も言うが真面目だった。中学の授業も真剣に取り組んだから、成績だってそれなりに良かった。弱小だった部活動では、みんなちゃんと練習しなかった。外練で走り込みをするはずなのに、みんな最初から歩いてしまうほどだ。お前だけ走っていたな。怠慢がばれて一時期活動停止にさせられたけど、もう一度チャンスをくれるように奔走した。……そういうの、絶対に誇っていいことなんだ】
【受験で必死に勉強した。大好きなゲームやマンガを親に封印してもらって、本当に一日中勉強した。第一志望には落ちてしまったけど、「だから?」って俺は本心で思う】
【高校生になって、友人がバンドをするようになった。誘いが来たからちゃんとチケットを買って見に行こう。そんなふうに思える子だった。小説を書いている友達がいた。友達の必死さに感化されて、応えようと何度も繰り返し読んで、たくさんの感想を言った】
【社会に負けて引きこもってしまったけど、決して、何もしなかったわけじゃない。具体的に何をしたかは例をあげる必要がないだろう? 精一杯生きている】
【俺はずっとお前を見てきた。お前のことを一番よく知っている】
【お前がお前のような奴だったから、俺も優しい人間でいられた。たとえ一つだけだったとしても、俺は自分を誇れた】
【お前は――クズじゃない】
【俺はお前のことを、すごいと思っている】
……ようやく、言葉が終わった。
口をはさむ余地はなくて、表情をうまく作れなかった。
良いところはたくさんあった。具体的であれば説得力も生まれる。客観的に見れば卓也はクズじゃない。卓也は自分のことが好き。
……もしも、本当にそう思えたなら。
そこには幸せという、何かしらがあっただろう。
「嘘はやめろよ……。本当は自分なんか大嫌いなくせに」
埃が消えるように子供たちの声も消えた。代わりに、どこかがひび割れた。
「いいところはあったかもしれない。でも昔のことだ……。今じゃ困っているお年寄りがいても人が怖くて助けられない。誰かのために怒りたくて、例えこちらが正しかったとしても、勇気がでてこない……」
心の痛みに共感できたとして、優しいとは限らない。あくまで優しくなる可能性があるだけ。そして、卓也は勝ち取れない。
「保身のかたまり、っていうんだよ。自分に害があったら平気で逃げる。……ダメだと認めるしかないだろう」
いつの間にか、ぬいぐるみの数が減った。
本棚は空洞になり、照明は壊れ、太陽光はなく、人がいなくなっている。遠くから見ていたかがり火のような光景を、わざわざ近づいて叩き割ったのだとしたら滑稽な話だ。歯を削るように、卓也は食いしばっていた。
やがて、寒さで息が白くなり、身体が震え出す。心臓の痛みと、どうしようもない倦怠感に襲われる。
あっけなく、秋土神社の暗闇に戻っていた。変わらず大木にもたれていた。
二度と会えないかもしれない不思議よりも、落ちた枯れ葉を見ることを優先したのだ。着ている衣服は土でまみれているだろう。
だから、もう一人の自分も消えてしまったかもしれない。
そう、思っていたのに。
きゅっ、と胸倉をつかまれて、引き寄せられた。
【お前はクズじゃない】
声は強く感じた。背にある大木が震えたようだった。しかし、卓也が気にするのは境内の人が来ないかどうかであった。
「大声出して、俺の何かが変わると思っているのか?」
【こうして目の前でみると確かに分かるな! 前世で『死にたい、死にたい』と何度も言ったお前を父さんと母さんがどんな気持ちで見ていたか! 悲しくなる! 自分から沈んでいく奴をどうして傍で見ていなきゃならないんだ! 卑屈になるなとは言わねぇよ! だけど自分から卑屈に向かって走るなよ! それがどれだけ自分を傷つけるか、お前が一番よく分かっているだろうが!】
「……好きで自分を傷つけてるわけじゃない。勝手に……」
【勝手に卑屈になる、だろう? 確かな理由もなしに自分をクズだと言っているのが分からないのか!】
「根拠なんていくらでもあるだろう……」
前世の惨めで恥ずかしい記憶なんざいくらでもある。あれがクズの照明でなくて何だというのか。あれを思い出してプラスの感情を抱けるか。どうやったってできない。
【ねえよ!】
今度は両手で胸倉をつかまれ、無理やり目を合わせられた。
【だったらどこがクズなのか、しっかり理屈をたてて説明してみろよ。できるわけがない。できたとしても途中で終わる。分かってるだろ。最後は結局感情に任せて判断してるって! お前は本当はすごい奴だろうが!】
泥水でも飲んだかのように、呼吸がつっかえる。
【思考を放棄してるんだ! 嫌な出来事に対して『自分はダメだ』ってところで全部止めて、そこで判断を終わらせてるんだ! 今日もたくさん嫌なことがあった。だけど本当にお前はクズだったのか? 本気でそう思うなら、はっきり大きな声で、お前の口で言ってみろ!】
朝、挨拶のことで雄二に注意された。態度が悪かった。だがそれでクズなのか? 両親を失い誰にも相談できない状態なのだ。誰だってああなるだろうことを踏まえて、それでも自分を罵るか?
学校で転ばされ恥をかいた。それでクズが確定するのか? 非があるとすれば転ばせた方で、卓也が悪であるのはおかしい。それを分かっていてなお意見を変えないか?
物事の正と負。卓也はいつだって負を覗く。しかし、何もかも負で染められているだろうか。卓也が絶対だと思い込んでいるだけ。根拠の乏しい負に絶対などない。
けれど、もう一人の卓也が言いたいのは……『理屈』と言っておきながら、本当はもっと直接的なことだと感じる。
お前は懸命に生きているだろうが、と。
卓也は不思議に思う。どうしてもう一人の自分には、言葉に覇気があり、二つの足でしっかりと立ち上がり、つかむ手は熱を帯びるのか。
そこだけは……自分と違うそこだけは気になった。
「前世でそういう考えを誰かから教わったことがあったな……。結局それで立ち直ることはなかったけど納得もしていた。……だから、それを引っ張り出してきたのか?」
返事はなかった。
それは相手の肯定であり、説得の仕方自体が間違ってはいないことも示してはいる。
「……知ってるよ」
だから、今までと比べればではあるが、大きく息を吸った。卓也なりの応えとして。
「知ってるよ。俺がクズじゃないことぐらい」
いい面がある。懸命に生きている。その二つさえあれば十分だ。少なくともクズじゃない。優しくできる。それは強くて優しい人間になれる可能性を示す。強くて優しいなら最強以外の何者でもない。
そんなふうに、卓也だって考えることはできる。考えることまではできるのだ。それが心の片隅の芽生えだったとしても、枯れ落ちてしまうほど脆くもない。
「でもさ」
【……】
「さっきも言ったけどさ……そういう問題じゃないんだよ。クズだろうとクズじゃなかろうと、俺はもう、歩けない」
否定のし過ぎの、さらに、し過ぎ。
これを言い終わったら、今度こそ終わってしまうだろう。
「親がなくなって唯一の目的が消えた。こんな気力のない状態じゃ、足掻くこともできないよ。今の家族が心配してくれても、励まされても気力が出ない。仮に、クズじゃなくても、良い部分があっても、優しかったとしても、結局俺は……結局……自分をダメだと思うんだ」
感情で決めている。その通りだ。
理屈をこねて肯定できたとしても、最後は感情に負ける。理屈は感情を生み出す一因に過ぎない。
行き着く先が同じなら、結果がすべての世界では進めない。
「もう、見捨てろ」
ここにきてようやく、卓也は視線を向ける。それは変えられない意思を伝えるためでもあったし、相手の失望に身構えるためでもあった。
胸倉にあった相手の両手が、緩んでいった。
【わかった】
静かな音だった。諦められたと確信した。この後の彼の言葉によって、できる限り傷口が広がらないように呼吸を止めた。
【お前がどうしても、自分を蔑ろにしかできないっていうんだったら……それでいい】
どんなに構えても傷つくものは傷つく。
きっと、今までのこの会話が最後のチャンスだった。卓也はそれを不意にした。数日後には死ぬほど後悔するのだろうか。いや、ないだろう。これ以外の選択肢など最初からなかった。道が一つしかないのに後悔なんてしようがない。
一歩、二歩と、相手は後ろへ下がっていく。距離を開けるのはサヨナラの合図だろうか。
どうやって姿を消すのかだけは何となく興味が湧いて、また自身の胸に手を押さえて、もう一度だけ彼を見た。
そして……、
【それで? お前は結局どうしたいんだ?】
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