第4話
気づけば神社にいた。
家から大通りに出てまっすぐ、さらに秋土山に沿うように連なる階段を上れば『秋土神社』の境内にたどり着く。
身体が自由だったとは違う。
高いところから転げ落ちれば死ねるかな、とまでは考えた。恐怖がなければ、転げ落ちたかもしれない。
行事の際はにぎやかになる『秋土神社』も、普段は閑散として人気がない。
境内の奥には山道のつたう森がある。卓也は森の入り口にある大木に寄りかかっていた。
朝の通学路で心地よくなれたように、辺りの自然が少しでも、わずかでも自分を癒してくれることを望んだ。
他人に何かを言われて心が傷ついた時、人によっては身体の症状もおかしくなる。
卓也が胸を押さえているのは『心臓をわしづかみにされたような痛み』があるからだ。大木に寄りかかったまま動けないのは『身体が硬直している』からだ。加えて、精神的なストレスが溜まりにたまったのか、不規則な咳まで出てしまっていた。
じっとうずくまり、卓也は時間が過ぎるのを待っている。症状を治す薬などない。短くない時間が過ぎるのを待つしかない。
今回ばかりは一週間ほどかかるか。胸の痛みが治ったとしても、その後、何度も今日のことを思い出して苦しむ。
ずっとここにいて、誰とも関わらないでいたいが、上着を着ないで飛び出してしまった。夜になったら寒さに耐えられなくなる。空腹にも勝てなくなる。何より自分の捜索のために警察を呼ばれたりなどすれば迷惑をかけてより傷を負う。
時間の有限を意識してしまうと、ここも楽な場所ではなくなる。
紅く染まった葉っぱが卓也の頭の上に落ちる。土の養分になるはずのそれを、遮ってしまっている。
潰れるところまで潰れたはずだ。これ以上、何を求められているのだろう。
前世の卓也も幼いころから心が弱かった。
心の強さは『成長の中における環境』と『生まれた時からもっているもの』で決まるという考えがある。それを基準に考えるなら、彼の元は弱い。
小学校低学年のころになった不登校の原因は、他の同級生をしかる先生がとても怖かったから。学校だけでなく、通っていた塾でも一度怒られた瞬間に行けなくなった。中学の同級生にからかわれ続けた記憶は、トラウマと言っていいほどに一つ一つを鮮明に覚えている。いじられた記憶だけでなく、何かを達成した誇るべき記憶ですら、気恥ずかしい、いや、恥ずかしい思い出として残った。十代の終わりのころ、叱られたことをきっかけに二年以上も父親と口を利かなかったことがある。
脆弱は、嫌な出来事という環境に出会うたびに悪化していった。気づいたときには、人間関係というよりも傷つくこと自体を怖がった。残った道は、社会とは完全に逆方向だった。
ありのままの自分への拒絶。世の中にいる働けない人たちを否定するつもりは絶対にない。ただ自分が、自分のことが受け入れられなかった。『自分は自分』という考えに対して、彼は『理解』しかできなかった。
変わりたいと思い、だけど社会にでる怖さの方が大きく、だけど葛藤は常にあって、自分の部屋で苦しんだ。
(……、……)
そんな前世の彼に対して、両親は優しかった。
母親は決して嫌味など言わず、何かを強いることなく面倒を見てくれた。父親とは価値観の違いから馬が合わないことも多かったが、それでも大切に想われていることだけは知っていた。
『ずっと家にいればいい』と言う両親に、彼は本当に感謝していた。
だからこそ思っていた。
親より先には死なないようにしようと。これ以上は絶対に二人を不快にはさせないと。
……決意は意味をなさず、自分も親も亡くなってしまった。
生まれ変わったところで、親不孝以外の何物でもない。苦しませてしまっただろう。
何より自分が絶望した。
親のために生きることで、救われていたのは彼自身だった。
新しい生きがいなどない。明日香や雄二とは元から血のつながらない関係だ。どこかで卓也を快く思っていないだろう。岩倉卓也が死んだところで絶望する者はいない。
そうして、生まれ変わった先にあるのは、碌に行動できない自分自身だ。雄二にどれだけ叱られても明日香や加依がどれだけ優しくしてくれても、学校で恥をかいても力は入らない。むしろ苦しめられる。
(……痛い。……ようやく、自分で、何かを考えられるようになってきた……)
何度も考えてきた。どうすればいい。どうすれば助かる。悲しんだって苦しいから、苦しくて嫌だから考える。
だが、方法はない。人生で何かを変えられたことがない。どんなに悩んだって、最後に行き着くのが『怖い』『気力がない』。
(……なんて、甘ったれ……)
しっかり自立している人間には分からない考えだ。力のない人間にだけ分かってしまう屈辱だ。
前世と変わらない。何もできずに大人になって腐っていく。腐らせている。すでに腐っている。
(……あれから、どれだけ時間がたった?)
ようやく、意識がまわりへ向いてきた。
うなだれていた頭が上がった。十一月にさしかかる空は、放課後から幾ばくもすれば暗くなる。すでにあたりを覆う紅葉も色がよく分からない。風に揺られるさらさらとした音が、卓也の心を少しだけ助ける。
寄りかかっている木が大きいと気づく。表面にある細やかな筋が生きていることを訴えているように思える。
だが、視界の端に神社の本堂が見える。迷子にならないために見えるようにしていたが、誰かがこちらを見つけるかもしれないから怖い。携帯も時計もない状況にあせり始めた。こんな時ぐらい助かりたいという想いも、叶わない。
寄りかかりたい自然と、不安をあおる現実、未だ治らない心。
消滅したい。
苦しまず、気づかず、前触れもなく、誰にも見られず、何も感じずに。
(……、……?)
後から考えれば、
『ここ』だったのは。
この一瞬が、最後のチャンスだったからだと卓也は思う。
生まれ変わり以外で不思議なことが起こったのが、この時だった。
(なに……、子ども……!)
辺りが暗くなる中で前触れなく、黒い輪郭が見える。
人が来たのかと思ったが、声すらかけてこないのはおかしい。葉っぱを踏みしめる音が近づいた瞬間、バクン! と心臓が音をたてた。
だが、その動悸も、実際に相手の顔を見たときの驚きに比べたら大したことはなかった。
【今までお前の中で散々苦しめられてきたけど。ようやく『俺』の意思で話すことができるらしい】
目をかすめて邪魔になりそうな手入れのされていないぼさぼさの髪。灰色の世界を忌々しく思うみたいな、そんな細まった目。主張のない鼻に、力が入っているのが分かる口元。上に持ち上がることのない頬。
岩倉卓也と同じ姿の少年がいる。
それに、その声。
嫌でも聞き覚えがある。卓也の気持ちが落ちている時に彼をさらに追い詰めるあの【声】だ。
「なんで、こんな……! 生まれ変わった時みたいに、また訳の分からない現状が俺を苦しめるのか……!」
【知らねぇよ。この現象が、気まぐれな神様のプレゼントだろうが、神社の影響で生まれた神聖な何かだろうが、転生した不思議な力の名残だろうが、正直どうでもいい。大事なのは、俺とお前がまともに話ができることだ】
「お前は、誰だ……?」
【お前が記憶を取り戻した時に、一回だけ話せただろう。俺は岩倉卓也の『身体』としての意思だ。お前の意思が『魂』『精神』『理性』によるものだとしたら、俺は『本能』『反射的』なものだと。まぁ、これも本当にどうでもいいが】
相手の目がさらに細められた。卓也が【声】を嫌っているように。
どうせ嫌われているのなら、こちらも敵意をぶつけるしかない。自然と声も荒くなる。
「……で? その『身体』とやらは、どうしていつもいつも俺を苦しめることばかり言う」
【だからお前のせいだろうが。悲しいことや辛いことがあった時にお前はすぐに自分を責めたから、だから、どんどん自信を無くした。その癖が『身体』にこびりついて、こちらも岩倉卓也を責めることしかできなくなった。結果すぐに傷つくようになった】
「違う……。全部お前が原因だ。嫌なことがあるたびに俺を責めて、あんな状態でどうしろって、どうやって持ち直せっていうんだ……! お前が俺を責めなければここまで潰れてないんだよ……!」
いつもだったら『消えろ!』と怒鳴り散らしたと思う。できないのは、直前に加依にぶつけてしまったから。
【俺も意見は曲げない。だがそうやって互いのせいにしてたら、俺たちはどこへも進めない。だからいい加減お前を焚きつけて、お前を立ち直らせる】
「……は」
こちらを見下ろすもう一人の卓也。一方で、大木に寄りかかるだけの卓也は、顔を歪ませて喚いている。
「なにを……? いつも責めるだけのお前が、一体何をするって……?」
【少なくとも、お前よりは変えようとしている。それに今、俺たちは離れている。お互いに支配されずにまともに話ができる。――お前は、岩倉卓也はクズじゃない】
見下ろされる不快感はあっても起き上がれはしない。地面に置いた手は土で汚れていくだけだ。
【こうやって自分を離れて見ることで実感する。失望もするけど、良いところもある】
目が血走るあまり、まぶたが閉じない。それは怒りだった。
諭すつもりか? 氷のように凝り固まった卓也の考えを、あろうことか同じ卓也の【声】が。
元気づけるつもりか? できると思ってんのか?
【お前は確かに傷つきやすい。けど、だからこそ他人の痛みが分かる。どう考えたって立派な長所だろう、それは】
そんな、ありきたりな説得をするつもりか。
思わず唇を押しつぶす。
【お前だって自分のいいところを分かっている。だってお前は、世界中にいる社会に出れない人を『精一杯生きている』と思える。心から、ためらいなく】
「やめろ……」
そういうことではないのだ。
「認める想いはたしかにある……。でも、否定がすべてを消すんだ……。俺は完璧主義者で、それでいて努力できないから」
『優しい』と言われても嬉しくない。『クズ』と言われると心が壊れる。報われない、救いようのない状態なのだ。
「前世で何度も自分に言った。声に出すことで脳みそが認識する。そんな教えにしたがって洗脳しようと試みた。『クズじゃないよ』って。マイナスなことも言わないように……。だけど何も変わらなかっただろう! 何の意味もなかっただろう!」
ほとんど夜になったその場所に卓也の声が散らばっていく。木々でおおわれていなければ、頭上には星の少ない空でも見えるのだろう。
【ああそうだ。ただクズじゃないと言われてもお前は絶対に納得しない。……だから、ちゃんと話そう。お前が自分を肯定できるまで、俺が知っている前世のお前を全部】
なにを――と言う暇はなかった。
視界がぼやける。次いで、おぼろげな光景が飛びこんでくる。風が運ぶ空気のにおいすら分からなくなった。
まるで絵具の水がねじれるように、ぐにゃりと、辺り一帯の景色が歪んだ。
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