第3話
家に帰った。
嫌なことというのは大抵、続いておこる。
マイナスの感情が更なるマイナスを引き寄せるという阿呆極まりない性質があるらしい。
学校で硬直してしばらく動けなくなった今日、帰った卓也を待ち受けていたのは……、
「おかえり。学校はどうだった」
リビングに座っていた雄二が、加依と卓也を呼び止める。
自分の部屋にたどり着くまでにリビングを通らなければならないこの家を呪った。弱っている卓也には近づいてくる父親の目が、得物を狙う狩人のそれに見えた。
出かけているのか明日香の姿は見つからない。助け船はもらえないだろう。だからすぐに逃げようとした。黙って階段を上ってしまえば呆れられる程度で済むだろうと思った。
なのに、横を通り抜けようとした瞬間、かなり強く肩をつかまれて引き戻された。
「なに、すんだ……っ!」
されたことのある者なら分かるが、人は無理やり身体を動かされると不快が彷彿する。頭ごと大きく揺さぶらる感覚は暴力と大差ない。
強く腕を振り払ったが、雄二は卓也の反応には何も返さない。表情からは一寸たりとも負い目が見えない。当然のことをしただけだと。
「加依、テストの結果が返ってきたんだろう? 報告するんだ」
どこぞの胸くそ悪いセリフがまた来る。
「う、うん、えっと……」
ランドセルを外した加依は、教科書を入れる大口ではなく、手前にあるポケットから用紙を取り出した。加依の具体的な点数は知らないが、雄二にとっての良い点数であることだけは分かる。
用紙を見ている雄二の顔は静かだ。
「……朝も言ったが、いい点をとれば将来が安心とは限らない。良い成績を続ける必要があるし、学生時代に勉強ができれば幸せになれるという訳でもない。……だが――」
加依の頭に雄二の手が置かれた。
「日ごろから頑張っていなければこの結果はでない。よくやった」
果たして、卓也が存在していなければ、この光景は親子にとってかけがえないものになっているのだろうか。卓也の視界に入る加依はあまり笑っておらず、嬉しそうに顔を赤らめてもいない。
事実、このあとに雄二がとるだろう行動を考えると、卓也だって嫌でも身構える。
「で? お前は?」
敵意しかない。とっくに攻撃の準備を始めている。卓也をいかに責めたてて、屈服させるか考えている。
打ちそうになった舌を無理やり噛んで止めた。
「……知らない。なくした」
嘘ではない。何時間目の授業であったかは忘れたが、テストが返された記憶まではある。
満点近くだったテストを見せていれば、雄二の機嫌をある程度は損なわずに済んだかもしれない。前回の用紙も無くしていたのだから、自分のために持っておくのが明らかな最良だった。
だが、数時間前に先生や多口尚人によって恥辱にまみれたせいで、その簡単なことができなかった。
彼の前世を知る者はいない。なぜ苦しんでいるのか話せる相手もいない。当然雄二が知るはずもない。ただごねているように思われているだろう。
思い通りにいかないから相手を苛立たせる。そして思い切り侮蔑される。
「お前、頭おかしいんじゃないか?」
何かが、内側から壊れた。
人によって感じ方は違う。気にしない人と気にする人がいる。
だから、これは本当に感情の問題。
なぜその言葉が卓也の心臓を思い切り握りつぶし、頭を沸騰させたのかは卓也にしか分からない。
積み重なっている卓也の価値観と、そこから生まれた自尊心が過去最大の拒絶を示した。
早い話が、ぶちぎれた。
「黙れクソ野郎。頭わいてんのはお前の方だろうが」
「……あ?」
終わった。もうどうにもならない。矢の雨に馬鹿みたいに突っ込んでいく。傷どころか無数の致命傷を負っていく。
「何も知らないくせにグダグダグダグダと否定しやがって、いい加減うぜえんだよ。朝も昼も夜も一日中ずっと上から説教たれてばかり。そんなに自分の優位性を示したいのかくだらねぇ!」
「親に向かってなんだその口の聞き方は!」
「はっ! 『親』だぁ?」
破裂したのだ。選ぶ言葉なんていくらでも間違える。
親に言ってはならないことを言ってしまう。
「平日の昼間に仕事もしねぇでくつろいでる奴のどこが親だ! 自分は落ちぶれたくせに子供にえらそうにする権利があると思ってんのか! いつもいつもピリピリと、お前がいるせいで迷惑なんだよ! いなければいいんだよお前なんて! 親のふりするなら親らしい行動してからにしろよカスが!」
子にここまで言われて許せる親などいないことくらい分かる。
雄二が手を振り上げた。歯を食いしばっているのも、目が血走っているのも良く見えた。
ぶたれる気などさらさらない。腕で防ごうとする。ここから先は殴り合いだ。体格差などどうでもいい。死んでもよかった。馬乗りになって殴りまくることだけ考えた。痛みと苦しみを与えることだけを考えた。
だから、まったく予想していなかった。
「――っ! やめてやめて!」
加依が間に割って入るなんて。細い両腕をめいっぱい広げて、雄二の前に立ちふさがるだなんて。
「どけ! 邪魔だ加依!」
「お兄ちゃんいつもくるしんでるみたいなの! いつもつらそうなかおしてるの! だからゆるしてあげて!」
声を、拳を、衝動を。小さな妹に遮られて、卓也の熱が一瞬だけ冷める。
途切れてしまった。我に返ってしまった。
怒りの感情が消えかけてしまえば、後に残るのはもう――
【ださい。情けない。いつまで守られれば気が済む】
やめろ。うるさい。
【父親を責める資格があると思ってんのか? 何もしないでくつろいでいるのはお前だろう。家の空気を悪くしているのはお前だろう。存在しなければいいのはお前だろう】
うるさい、うるさい、うるさい。
【死ねよ。価値無いよお前。正直、生きようが死のうが何の意味もないよ。どうでもいいよ。お前が死んだところで誰も悲しまないよ。くだらない。本当にお前はくだらないよ】
うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい。
「お父さんだって、お兄ちゃんがきゅうにおかしくなったのおぼえてるでしょ? まえはいいこだったでしょ? きっとまたみんなでわらえるときがくるよ。だから――」
「うるせえよ!!! 加依もおれを庇うなよ!!! そんな価値ねえんだよ!!!」
「……え…………」
言った。
言ってしまった。
【あーあ、言っちゃった。さっすが】
酷すぎる。絶対に止められない。
「分かってるんだよ! わるいのは俺だって! 俺が暗くなかったら、空気を悪くしてなかったら! 父さんの言うことをきいていたらどれだけマシになるか! おれがそういった家族のしあわせを全部全部ぶち壊してるんだ! わるいのは全部俺なんだよ! なのにバカみたいにかばうな! やめてくれ!」
ごめん、ごめん、崩れる。加依はまったく悪くない。見せている怒りは偽物のはりぼてで、本当は嘆いているだけなんだ。
「だけどどうしようもないんだ……! 生きたいなんて思えないし、生きたとしてもこのさき何もない! なにもかもなくなってしまったんだよ! こんな俺にどうやって動けって言うんだ……! どうやって……っ!」
身体にある水も崩れているのか、目からこぼれ落ちていく。
惨めだった。
「俺は……俺なんか生まれてこなければよかったんだ……。死んだ方がマシなんだ……。だからもう放っておいてくれ……俺を傷つけないでくれ……」
限界で途切れた。
怒りが潰え、自責でぐちゃぐちゃになり、壊れきった。後は踏みつぶされる。
誰もいない楽なところへ行きたい。もうそれしかできることがない。
自分の部屋はだめだ。家族の気配なんて微塵も感じたくない。本当に一人になりたい。
両親の死を知ったあの時みたいに、辛うじて足が外へ向かっていく。いまだ涙を落としながら、靴を引きずって玄関を押し開けた。
『父親が何も言いませんように』『加依も何も言いませんように』
玄関のドアを閉めるまで、思い続けていた。
嫌味の一つを言われたとしても、とっくに壊れているから……なんて、結局そんなふうには思えない。
とにかく、もう駄目だった。
助けて、欲しかった。
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