第2話
加依たちが通う小学校は、家から西側に歩いて十五分ほどかかる。
十万人ほどの人口をもつそれなりに賑やかな街の中を、卓也は小さく少なく移動する。
『秋土山』と呼ばれる丘に近い高地と、それに沿うように建てられた『秋土神社』が街のシンボルと言っていい。正月などの決まった日には地元民が長い階段を上って、甘酒を手に活気を見せる。
今の季節も同じ秋で、紅葉した木々が街を彩り僅かながら風も吹く。頬を撫でられる心地よさに少しだけ底から引き上げられた。単純だろうがなんでもいい。
常に悪いことが続くというのはありえない。自分がすべて悪いと卓也が決めつけているだけで。
(分かってはいる……)
通学路を進むこの時は、マイナスとは違う思考が働いた。だから、卓也は後ろから付いてくる加依へ振り返れた。
「となりにきなよ。ならんで歩こう」
ここ最近の加依はいつも距離をあけずに後ろをついてくる。家族としてそばにいたはずが、気を遣われる毎日になってしまった。
どうやったらここまで大人びて育つのか。前世で卓也が九歳だったころは絶対にこんなではなかった。意味もなくはしゃぎまわって叫んだり、時には悪いことをして『えへへ』なんて笑っていた。
「たくや、だいじょうぶ? げんきがないからしんぱいだよ?」
呼び方に関しては微妙なお年頃からか、『たくや』だったり『お兄ちゃん』だったりする。細かい心境までは測れないが、家族として認められていないとまでは感じていない。
「だいじょうぶ。ありがとう。あさはひどいこといってごめん」
口元を笑わせて、そこで、終わらせるつもりだった。
「とってもつらくて、なんとかするほうほうもなくて。でも、だいじょうぶだよ」
なのに、弱音がすべる。
小首をかしげる加依にはもう目を合わせない。これ以上踏み込まれたら危なくなる。
(感情をコントロールできたらどれだけ楽なんだろう。頭の隅っこで願ってはいるのに、絶対に叶わない)
今の言葉だけでは、加依はこちらの内側まで分からない。
だが、そのバレない『安全地帯もどき』の中でも、結局弱気が続くのだから救われない。
(ああ、ダメだダメだ。悪く考えなくたっていいはずだ。どれだけ迷惑をかけているか、分かっているんだ)
どうせなら加依のことで会話をしよう。自分の話をすれば結局は下に向く。無理やりにでも顎を上げる。
「加依はいい子だっておもう。とてもしっかりしているから」
「……そうなの?」
「うん」
側頭部あたりに手をあてていた。
親のいうことをしっかりと聞く子供は、期待に応えようとするあまり自分を押し殺してしまう。それが積み重なればどこかで弾けてしまう。テレビか何かで知った確証のない知識だが、当たっていると卓也は思う。
「学校はたのしい? つらくない?」
「うん。たのしいよ」
「……そっか。よかった」
今度は頭を軽く叩く。俺のようにはなるな、などと思ってしまった。
向かう学校で嫌なことが起こる前に、せめてここではちゃんと話したい。
★
秋土小学校には随所に桜の木が植えられていて、春になると舞い散る花びらが新入生を迎える。
卓也も小学三年生として新学期をむかえた際は、少年らしいワクワクとドキドキがあった。笑いかける担任の先生や新しいクラスメイト。同じような教室なのに雰囲気や景色、匂いですら新鮮に感じたのは覚えている。
だが、半年が経過し、灰色にしか感じなくなった。
先に行っておくと、見事なまでに卓也は転げ落ちた。
昼時に差しかかる四時間目。『三年二組』と札の付いているだろう教室で、授業が行われていた。
教科書を忘れてしまったために、手元以外によく目がいった。雑に置かれている黒板消しやチョークが、クラスメイト全員の素行を示す。子供たちとやらはどう頑張っても『同級生』と思えず、同列の扱いを受け入れられない。担任の授業という耳障りが、右から左へ抜ける前にいちいち鼓膜に触れてくる。
心を助けてくれた通学路の安らぎも、ずっと続く魔法ではない。
窓側にある後ろから二番目の席で、先が丸くなった鉛筆をのろのろと動かす。配られたプリントには、二桁の数字からなる足し算が書かれている。
難しい課題ではない。だが、点数はとれて当たり前という価値観が卓也を呪う。
完璧主義者。加えて、完璧を求めるのに努力していないことへの蔑み。
大喜びしろとまで言わない。ただ年月をかけて積み上げてきた知識を見るだけでいい。両親が死んでいたのだ。元気をだせない理由だってある。なぜここまで自分を責めてしまうのか。
――大丈夫か?
優しく、セリフだけを思ってみる。
彼の心は、温まらない。
(……消しゴムはどこいった)
どこぞのアニメキャラクターが描かれているプラスチックの筆箱。六本、入るはずの鉛筆は数本が抜け落ち、消しゴムがあるはずのスペースには何かのはずみで残ってサインペンの汚れがある。
間違った答えをプリントに書いてしまった。斜線を引いて書き直せば、おかしなことに先生から注意される。
重い身体を起こして床を前かがみに確認したが、落ちているのは綿ぼこり程度だ。
「岩倉卓也くん、どうしたの?」
担任のパーマのかけられた髪が揺れていないように見えた。
「……いえ、何でもないです」
「そう。では今、先生が何を説明していたのか、起立して教えて?」
消しゴムを落としたこと自体知られない方がいい、と余所見をしていた時にくらった意地の悪い要求だ。
声をかけた時点で、先生は次のセリフを決めていたのだろう。父親と似ていて質が悪い。
プリントを提出することで、怠けたことを揉み消す作戦は失敗した。元から担任の話など聞いていないし、黒板に計算の式が書かれている訳でもないから答えようがなかった。
「……分かりません」
直後の先生の対応も、厳しい目をしたまま数秒間なにも話さない、という嫌味たらしいものだった。卓也に悪いという意識を植えつけるよう、他の生徒が同じことをしないよう、卓也を起立させてその空気を利用している。そんな悪意を感じる。
生徒が憎いのだろうか。クソガキなんて放っておけばいいだろうに。
(消しゴムもどこにもない……)
うつむいたまま机に手を置き、椅子に座ろうとした。
……が、そこですっころぶ。
ガタン! という大きな声で、また注目が集まる。
「く、くくく、だっさ……」
真後ろでは、目にかかる程度に髪を伸ばした丸顔の男子が笑っていた。目はゆがんだように細められ、わずかに赤い頬がヒクヒクともちあがっている。
立ち上がっている隙をねらわれたらしい。椅子が後ろに引かれている。
「多口くん、何してるの!」
先生の注意が向かっても、少年――多口尚人の笑いは止まらない。
態度の悪い問題児で日ごろから教室の空気を乱している。狙いを定められ、いじられ、いいように遊ばれ、馬鹿にされた。
卓也が睨んだのは、反射だった。
(ああ、そうだよな。悪いことを悪いと思わず、平気で人を傷つける。お前のようなやつはそういう人種だよ……)
ん殴ってやろうかとぶ考えはした。こいつは態度を変えるかもしれない。『ざまーみろ』と思えるかもしれない。……だが、『かもしれない』であった。いや、確証があったとしても拳を振り上げたかどうかは自信がない。
。
(……本当、クズ)
前世でもたくさん似たような思いをした。そして、もし次があるのなら相手を殴ろうと考えてた時があった。
現実はこれだ。周りへの過ぎた配慮が、出さなければならない力に蓋をする。勇気がどこから出るのか未だにわからない。
こんなに馬鹿にされても自分は動けないのか。
先生が尚人をしかりつけているが、卓也はずっと腰があがらず床にいる。前方の席に座っていた加依がわざわざ立ち上がってきた。
「だいじょうぶ……?」と差し出される手。しかし、握り返す力どころか腕を上げる力もない。加依が叫んでいるのが聞こえた。
「ひどいよ! なんでそういうことするの!」
「おおきいこえがうるさいとおもいまーす。じゅぎょうちゅうはしずかにしましょうねー」
「岩倉さん、落ち着いて」
「おにいちゃんをバカにするな!」
担任が強引に場をおさめるまで、卓也はずっと床で固まっていた。呼吸以外できなかった。
【小学三年生にいじられ、なぐさめられ、お前は本当に】
【いつもいつも動けない。いつまでたっても】
【ほんとうに、情けない】
現実の出来事。そして、碌に工夫もないつまらない【声】が、くだらない心を抉り続けた。
死ぬことはできない。
誰もが想像できないくらいに傷ついて、自ら命を絶ってしまう人がいるらしい。
だが、『らしい』で終わる自分はそれほど苦しんでいない。だから、死ぬ勇気のない自分は甘えているだけのクズだ。
……そんなはずがない。クズなはずがない。
だが、その言葉は染み込まない。
でも、心がないわけじゃない。大丈夫なわけがない。
誰かに傷つけられるたび、心が擦り減るのは当たり前のことだ。他人と比較してどうとか、甘いかどうかなんて知ったことではない。卓也の人生を歩むのは卓也だ。生きているのは卓也だ。苦しいものは苦しい。
憂鬱な目覚めから始まり、家でも学校でも安らぎを得られない。唯一休める夜は寝てしまうだけ、迎える朝には落とされる。
卓也は苦しみ過ぎている。
だから、もうすぐ壊れるか、破裂する。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます