第1話

 

 


 何もしていないのに始めから神経をすりおろしているような、最悪な朝の目覚めだった。

 ここしばらくずっと、ろくな起き方をしていない。


 翌日に憂鬱な予定が待ち受けていると、人は寝ることをためらう。なのに結局、眠気には勝てずに目をつぶって願う。『せめて眠る時だけは楽になりたい』と。安寧を求めて布団にもぐる。代償として、逆に明日の苦難を近づける。そして、嫌でも朝は来て、今度は『まだ眠っていたかった』と呪うのだ。

 記憶を取り戻してからの岩倉卓也はずっとそれだ。

 眠っている時は何も感じなくて済む。今日も明日も起きている時間はずっと苦しい。


 加えて今朝は目が覚めるのが遅かった。支度をする時間まで余裕があると少しだけ楽になれるものだが、ななめ上に転がっている時計は残り一分程度しかない。

 それでも卓也は布団にくるまる。一分が永遠になって欲しいと、ありもしない未来をそれでも考える。


 当然、叶わない。

 卓也の眠る部屋のドアが、音を立ててゆっくりと開いた。こちらへ近づいてくる音も小さいのによく聞こえる。


 後に、卓也の肩は小さく揺さぶられた。


 揺さぶられるだけだ。声はない。

 卓也がわずかに身じろぎして、ようやく女の子の声がする。


「あさだよ……」


 誠に遺憾ながら、卓也は呼びかけを無視できない。起きなければきっと傍にいる女の子が親に叱られてしまうだろうから。

 ため息をつきながら上半身を起こし、その子を視界に入れた。


 岩倉加依――卓也の妹だ。


 まだあどけない容姿をしている女の子。歳は九つ。小学三年生、卓也と同学年にあたる。

 背中にさしかかる程度に伸ばされた黒い髪は、左側が丁寧に編まれていて毎日の手入れが大変そうに想える。鼻も口も小さいのに目は大きくて、卓也の頭のどうでもいい場所が、将来は美人になりそうだと勝手に抱く。


「お、おはよう」


 親の教えがいいせいで、加依は必ず「おはよう」と言う。

 先ほどの静かな起こし方も、「心臓に悪いから小さくゆすってほしい」という卓也の言葉を叶えたものだった。

 そんな加依に、卓也は暗い顔を向ける。


「もう、起こしにこなくていいって……」


 起き上がるしかない強制が卓也の余裕をからにする。不快感を抑えられず、細かいことを気遣う余裕もない。

 加依は気まずそうに下を向く。害にしかならないと分かっていて二度目のため息をついてしまう。ストレスが出ていくような息の吐き方を最後にしたのはいつなのだろう。


「……なんでもないよ。もう起きたから、下に降りてていいから」


 加依は「うん……」と小さく出ていく。部屋のドアを閉めるか迷うそぶりを見せて、結局パタンとさせて階段を下りていった。


 彼女が離れたことを確認し、卓也はまたため息をつく。日に日に自分への嫌悪感が増していき、頭をかきむしる。

 学校へ行かなければならない。しかし、今日の時間割すらそろえていない。

 そのことを思い出してさらに気分が悪くなるのに、だからといって教科書を用意する気力もない。


   ★


 卓也と加依は、血のつながらない同い年の兄妹という珍しい関係にある。


 加依の母――明日香の前夫と、その恋人との間に生まれたのが卓也だとか。その両親が姿を消したために、卓也は幼いころに岩倉家に引き取られて養子となったとか。


 今の家族が卓也にどんな感情を抱いているのか卓也は聞いていない。記憶が戻ったせいで興味もなくなった。一番大事な人はすでに亡くなっていて、二度と会うことができない。その現実は彼から気力を根こそぎ奪った。


 新築の一軒家をもつ岩倉家。二階に借りている部屋で私服に着替えると、重い足で階段を下りる。

 リビングにつながるドアを開けたなら、今の家族と会話をしなければならない。それがまた本当に億劫だった。


「おはよう。もうすぐご飯ができるから、座って待っていてね」


 セットで買ったであろう四人掛けのテーブルとイスが、リビングの真ん中に鎮座している。それ以外にはこれといって目立つものがない。写真はアルバムにでも仕舞ってあるのか、白い壁に貼られているのはカレンダーやバスの時刻表だ。閉められた窓から朝日が入ってきて、この時間帯に出番のないはずの蛍光灯にはホコリがない。

 賑やかでなく、効率を望む小奇麗な共有部屋が広がっている。


 たった今、声をかけてきたのは、母――明日香だ。


 肩口まである髪をとくに飾ることなく落ちつけている。割と明るめなセーターとズボン。外見や使い古されたエプロンには積み上げたものがあるのだろう。記憶を取り戻してからは母という印象が揺らいでしまい、どう接していいか分からずにいる。

 ぺこりと目を見ずに返した卓也は、視線を下げたままテーブルに座る。隣にはすでに加依がいて、母親が支度をする様子を眺めていた。


 そして、テーブルにはもう一人、家主が居座っていた。

 岩倉雄二――加依と卓也の父親。


 額を見せる短い髪形。百八十センチを超えるがたいの良い体格。頼もしいというよりは威圧があって空気を強張らせる。

 視線もまた射抜くようで、焦点を合わせたくない。


「おはよう」


 挨拶は大事なことなのだろう。だが、明日香とのタイミングとわざとずらして挨拶するのはどういうことか。家族の一員としての挨拶ではなく、卓也に対するしっかりとした返事の強要にしか感じない。


「……おはようございます」

「目を見て挨拶をするんだ。人が一番辛いと感じるのは、無視された時だと教えたはずだ」


 細かい、という想いに尽きる。以前は挨拶をしないことへの注意。挨拶をすれば今度は視線を指摘。揚げ足取りがそこまで大切なのだろうか。

 人は気に入らないことがあると攻撃せずにはいられない。この父親はまさに耐えることができないと卓也は思う。


(そもそも無視が一番辛いうんぬんは、あんたの勝手な考えだ。世の中にはもっと辛いことがあるだろうが……)


 しっかりと声を出す力は卓也にない。辛うじて横目を向け、もう一度「おはようございます」と呟く。


【人は攻撃せずにはいられない? 世の中にはもっと辛いことがある? 前世でひきこもっていたカスが人生を語るなよ】


 忘れていたのに、ここにきて【声】が入る。


【挨拶もろくにできないのか。そんな自分を本当は嫌悪しているくせに変えようとしない。そばにいる加依が父親の荒げた声を聞いて辛そうにしているのに気づかないのか? 気づいてない訳ないよな? そういったこと全部が自分をどれだけクズにするか分かってるよな?】


 一気にしつこく攻撃してくる。

 一度意識してしまうと、それを止めるのにかなりの力を使う。心がきしむことに顔をしかめて考えを振り払った。


 やがて、明日香が朝食を運んでくる。バターの塗られたトーストは焦げる手前のタイミングで焼かれ、目玉焼きも半熟。レタスのサラダも綺麗に整えられていて、面倒なことをしていると考える。

 明日香が椅子に座ったのを合図に、三人はしっかりと手を合わせる。運よく卓也も辛うじて声を出す。


 朝食が始まってしばらくして、雄二が加依を見た。


「学校はどうだ。そろそろ前回のテストが返ってくる頃だろう」


 テンプレートな『親』のセリフが卓也をさらにうんざりさせる。押し付けるような物言いも気に入らないが、雄二が何かを確かめる時に生まれる、気を遣わなければならない空気もまた嫌だった。


【いま、どれだけ阿呆なことを自分が思っているか分かるよな? 気を遣わなければならない空気? どの口が言ってるんだ?】


(しつこい……!!)


 人のことを言えないなど分かっていて、それでも思わずにいられない。それを誰も理解してはくれない。


「うん。けっこうじしんあるよ。テストがかえってきたらみせるね」


 少し高い加依の声。機嫌を損ねないようこびへつらう年齢ではないだろう。

 幼いなりに場を明るくしようとしているなら大したものだ。


「テストがよければいいというわけではないことは覚えておくように。運動や日頃の態度も含め、とりくむ姿勢が後で必ず役に立つ。これは本当のことだ」


 子供相手に何を語るのか。言い続ければ身に付くという考え。具体性はなくとも、幼いうちから道を選ばせようとしているように聞こえる。

 ……そんなふうに思考にハマって、身構えていないのが間違いだった。


「卓也もだ。テストの結果はしっかり報告しなさい。この前みたいに無くしたというのは許さんからな」

「それくらいにしましょう……? しばらくすればきっと元気になるわよ」

「言わなければならないことなんだ。……分かったな?」


 大きな声ではないのに、上から押さえつけてくるのだけは感じる。

 本当に何とか「……はい」と頷いた。


 先ほどからずっとそうだ。悪感情にハマりすぎている。馬鹿みたいに【声】も卓也自身も、『自分』を責めて苦しむ。


「加依、ちょっとだけおかわりする? ご飯なら余っているから」


 加依もまた頷く。普段おかわりなどすることがないのに。


「そろそろ二人の鉛筆とか買わないといけないよね。この前に見たとき短くなっていたよね。今度のお休みに買いにいこっか」

「ううん。まだだいじょうぶ。つかってなかったえんぴつが、すこしだけあったの」

「そっか。でもやっぱり買っておこうね。すぐになくなってしまうでしょうから」

「わかった」


 母と娘の優しさで、これ以上は悪いほうへ行かなかった。

 曖昧な二人への感謝は、登校の時間へ近づいていく壁時計を見た瞬間に消えてしまったけれども。

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