自己肯定感マイナス100のままもう一度地球に生まれ変わる。絶望してしまった男の子がやがて前へ進んでいく話。

静原認

プロローグ



 岩倉卓也は自分の家に帰ろうとしていた。


 社会に出られずそれが悪いことだと愚かにも決めつけ、負い目に感じてしまっていた。そんな彼を守ってくれた他のどんな場所よりも大切なところ。


 背の高い他人が数え切れないほど増えた。細すぎて貧弱な足のせいで何度も転び、小さすぎる手で支えることすらできず額を打った。


 だが、この時は本当に『自分』なんてどうでもよかったのだ。


 東京をまたいで電車に揺られること二時間。さらにお金を使い果たしてバスに乗れば、目的地は目と鼻の先にある。

 何万回も眺めたバス通りだ。どこに何があるかなんて嫌でも分かる。


 ――なんて想いがあたっていたなら、どれだけ良かったか。


 実際は違った。


 小学校の体育館なみに広かった本屋は消えて、『薬』という大文字の目立つドラッグストアに、当たり前のように車が住み着き、人の出入りがあった。

 興味を持たず、何に使われていたか考えもしなかった小さな畑。子供だった故に雨の日は『底なし沼』になりかけた場所は、堅苦しい住宅街に変わり果てていた。

 一回だけバイトの面接に行ったことのある新聞屋。錆びかけたシャッターだけが目に入り、中はどうなっているのか分からない。社名の看板など見つかりようもなかった。


 だが、覚えている。


 変わったものにくらべれば、見覚えのある場所は無数にある。例を挙げる意味なんてない。ここがかつて住んでいた場所だと、五感だろうが六感だろうがたまらなく喚く。耳障りで苦しくて仕方がなかった。


 終点より一つ前で降りる。そこが最寄りのバス停。当時はよく寝過ごして、面倒くさがりながら歩いて戻った。今回ばかりはどうやったって間違えない。

 並木道から外れるように脇へ曲がる。住宅街の入り口、そして左側に見えるのが五階建ての団地。右側にあるのは住民が利用する駐車場、縦に並ぶたくさんの車。


 団地と車にはさまれた道をまっすぐ行った突き当り、つまりは団地の一番はし。

 できるだけ家賃を少なくできるよう、それでもって両親の足腰が弱くなっても何とかなるよう、盗みを働かれないよう、そんな混ぜこんだ理由で借りていた。


 だから……二階の端。


 動悸をかき消そうと息を吐き、卓也は階段に足をかける。だが、一気に駆け上がる勇気まではなくて、心音は逆に消えなくて。


 家のドア、ペンキによる薄いピンク色。それが見える直前で足が止まる。

 怖い。でもここで引き返したいとだけは思えない。すぐ耐えられずに一歩を踏み出す。


 一秒後、何の間違いもなく、卓也はドアの前に立った。


 ――なのに、表札がない。

 何億と見た『北沢』という二文字が消えている。


「……っ!」


 最悪の想像に思いきり殴られて、心臓から吐き気がした。

 引っ越してしまったのだろうか。二度と会えないかもしれない。


 直後、ほぼ確実に中に誰もいないと知る。


 ドアの上部に、賃貸可能であることを示す独特の四角い鍵がかけられていた。隣が空き家だった時に見たことがあった。

 嘘だ、という声がどこにも逃げられずに脳をかき回し、やめてくれ、という悲鳴に変わる。


 たまらずそこにあるブザーを鳴らした。玄関まで来る足音など、まして声など返ってこないと分かっていてそれでも押した。

 電気が通っていないせいで『ブー』という音すら、聞こえなかった。


 完全にいないと分かってからも、鳴らないブザーを押しまくった。何度も何度も押して、パニックになって。三十回くらい連打してようやく指がとまった。

 悪い方にばかり考えるな。引っ越したとしても会う方法はきっとある。顔を下げたまま深呼吸して、気持ちなんて落ち着かないけど何とか頭を働かせる。


 そんな時、本当にタイミングよく上階のドアが開く音がした。


 誰かが来る。ここにエレベーターなんてものはない。必ず階段を下りてくる。ここを通り過ぎることになる。

 近所の人に会うのをあれだけ怖がっていた。なのに今はどうだ。話しかけない選択なんて一ミリもない。必ず希望はある、なんて考えていた。


 降りてきたのはよく見かけたおばあさんだった。


 あれから月日は経っているけど確かに知っている顔に出会って、戻ってきた気がしておかしくなりそうで、でも、やはりそんな自分なんて後回しで「す、すみません!」と声をかける。相手の驚く表情なんて追い越してとにかく続ける。


「ここの家の人って引っ越したんですか? 今どこにいるか分かりますか? ……あ、俺、知り合いでして……」


 個人情報だのプライバシーだの、本当に知るかだった。

 会うためならどんな手も使う――なんて、犯罪をする勇気はどうせない。でも間違いなく思っていた。


 見た目が子供である卓也の、それでいて異様に強い剣幕に押されたのか、おばあさんは目を開けたまま口を開かなかった。

 しかし、やがてこちらの目を見て、なぜか辛そうな顔をしていたけど、ゆっくりと話してくれた。


 その言葉を聞いたときにどれだけ絶望するかなんて、考えもしなかった。


「北川さんね……そこのご夫婦、亡くなったのよ……。つい最近のことだったの……」


 少しも、考えていなかった。


「……………………………………………………………………………………、……え?」


 声が、漏れたらしい。

 何の光景だ。いま何を視ている。

 どこだここは。なんだこの嫌なものは。やめろ。やめろ。


「……なんて……?」


 年配者の女性の声が聞こえる。


「……亡くなってしまったの。交通事故に遭ってしまって」


 なんだ?

 いったい何の理由をもって、こっちの心をぐちゃぐちゃにする。


「うそだ」

「……」

「しょ……、証拠は……?」


 ありえない。夢だ。

 認めない。認めない。


「……ある時、警察の方が来て教えてくれました」


 身体が動かせない。まばたきができない。

 女性の口が勝手に動いている。


「私の家に上がりますか……? とても心配だわ……」


 たぶん優しさ。こちらへの気遣い。きっといい人。どうでもよくなってしまった人。どうでもいい人。


「ご、めん、なさい」


 勝手に口から出る拒絶。


「むり、です」




 年配の女性の誘いは、卓也が動くきっかけにはなった。ぎ、ぎぎぎ、と、壊れたように彼は階段を下りていった。


 自身がどれだけ遅く動いて、どれだけ酷い顔をしているか、何となく分かる。でも、どうやれば歪んだそれは戻るのだろう。


 元いた場所から下り坂へ。その先のベンチへ腰かけている。座っていれば異常な自分に気づかれにくいなんて考えている。


 ベンチに座ってからは本当に固まる。


 もう何も、どこへも行けない。

 十分、二十分とすぎてもうなだれて、身体は凍った。きっと心が身体から離れた。そうしないともたない、と身体が考えた。

 三十分、一時間、やがて、日が暮れるほど時間が過ぎても。

 ずっと、卓也は固まっていた。


 そして。

 そして。


 時間が流れたためか、身体が限界だったせいか、完全に暗くなって卓也がようやく少しものを考えられるようになった時……、


【両親に何もしてあげられなかったどころか、最大の親不孝をした。ひどすぎる。いっそ哀れだ】


 幻聴が聞こえだした。


 あのわけのわからない、自分を責める【声】だ。

 卓也と同じ声をしながら、卓也を苦しめるだけの言葉だ。


【お前が死んだとき両親は苦しんだだろう。散々迷惑かけたあげく最後に苦しめた。お前は何なんだ? 何がしたかったんだ?】


「うそだ……」


 カサカサに乾ききっていた口元。


「生まれ変わるなんて、そんなことありえない……」


【逃げて、逃げて、変えない。前を向かない。何も変えない。いつもそうだからこんな結果になった。嘘じゃない。妥当な結果だ、それは】


「だまれよ……、何様だよ……、お前に何が分かるんだよ……」


【分かるよ。何もしないクズ】


「うるせぇよ……! なんでそんなふうに、平気で傷つける言葉を吐くんだよ……」


【お前のせいだ。言ったはずだ。お前は『心』で、俺は『身体』だ。お前がどうしようもない人生ばかり送ったせいで『身体』はとにかく自分を責めるようになってしまった。全部お前のせいだ】


「……しらねぇよ。ふざけるなよ……!」


 いつのまにか、前世における彼は死んだことになっていて、そして岩倉卓也という子供に生まれ変わっていた。

 前触れもなく、神や天使の都合のいい説明なんてなかった。


 だから、前世で想い残したことを果たせていない。


 前世の卓也は二十代で、だけど社会にでることができなくて、負い目を感じて、生きる価値がないと思っていて。

 だが、自分を受け入れてくれた両親を悲しませたくないから、という彼にとって最も大切な理由で生きていた。


 親を看取ってから自分も死のうというのが、唯一の目標だった。

 しかし、もう叶わない。

 両親はもういない。


【それでも、お前は死ねない。怖くて死ぬことなんてできない。みじめに潰れながらのうのうと生き続けるんだ】




 生まれ変わり。

 フィクションでよく出てくる、主人公に夢を与える不思議な設定。

 現実で一人の男に与えられたそれは、絶望以外の何物でもなかった。




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