第6話



【それで? お前は結局どうしたいんだ?】


 ……意味が分からない。


 すべてをなげうってしまった奴が、これからどうしたいも何もないだろうと。

 だが、芯の通った声を向けてくるあたり、彼はまだ諦めていないらしい。

 卓也は苦痛に顔をゆがめ、光のない瞳を閉じた。


「もうやめてくれ」


 自分を蔑ろにして、阿保みたいにくだらなく傷つけて。

 だからこそ見限って欲しかった。立ち直ることを望まれれば望まれるほど、後で絶望されることに耐えられなくなる。


「おかしな話だよ……お前と話していると、どれだけ無能かを思い知らされる。消えてしまいたいと思っても、どうせ死ねない。……もう消えてくれ。これ以上傷ついてくのはごめんなんだ」


 何のために神社に来たのか。落ちた葉っぱを寝床にして、全身の力を抜いて、心地よいまま凍死してしまいたい。目の前の少年の眼差しはこちらの内側を腐らせる害悪だ。

 今の言葉は卓也なりの精一杯の拒絶だったのに、彼はどうして、揺らいでくれないのか。


【断る。お前を立ち上がらせなかったら、俺は何のために現れたんだ】

「無理だよ……。どうやっても立ち直れないって言ってるだろ……」

【無理だと決めつけているだけだ。悪い方に考えてしまっているだけだ】

「だから! 何かをする気力も! 前向きに考えることも! もうどうしようもないって言ってるんだ! 今さらどうやったって……!」

【思い込みだ。あらゆる方法を試したのか? 諦めるのはここじゃない】

「いい加減にしろ……!」


 拒絶で駄目ならキレるしかなかった。たまらなく苦しい。ボロボロの心を砕いてバラまいていた。バラまく怒鳴り声はかえってむせた。胸の傷跡は広がりすぎた。


「本当に俺なら分かるはずだ! どうしても動けない人間の気持ちが! どんなに目標を立てて動こうとしたって最後は感情にやられて終わる! それで、どうしようもないのに仕方がないのに、そんな自分を許せない! どこまでも自分を苦しめて馬鹿みたいに潰れていく! 前世の頃からずっとそうだったろうが! 分からないならお前は俺じゃない!」


 説得しようとした時に卓也がどんな反応をするか。どういった理由をつけて卓也が否定しようとするか。本当に目の前の少年が『岩倉卓也』であるというなら、そういうことが分かるはず。説得など無意味だ、と。


「俺じゃないなら何だ! 俺を転生させた神か何かか! だとしたら教えろよ! なんで俺をこんな姿にした! どうして俺の親は死ななければならなかった! 俺が引きこもりだったから罰があたったのか! ふざけるな! 俺は――」

【どうだっていい】


 水に広がる波紋のような、つかみとれない声。


【俺が何者かなんて、本当にどうだっていい】


 小さい声なのに、黙らせられた。


【お前自身であろうと、神だろうと、それを証明する方法なんてどうせない。偽物だと思うなら勝手に思ってろ。俺は、ただお前が立ち直れればそれでいい。どうだっていいんだ】


 あくまでぶれないのか。何のてらいもなく飾りもなく。


「なんでそこまで……!」

【自分の証明はできない。だけど、俺はずっとお前を見てきた。言葉だけで表せないほどに、お前の感情を見てきた。お前はダメじゃないと、伝えたかった。うじうじしているお前にうんざりしているのは認める。俺自身が楽になりたい気持ちもある。だけど、それでも応援しているんだ。いい加減立ち直れ。見てられない】

「未来があるとでもおもってんのか……」

【未来はどうせやってくる。否が応でもぶちこまれる】

「だからどうした……ぶちこまれて潰れる」


 握っていた拳が力なく落ちる。拳はズボンに当たらず、そのままだらりと下がった。何もつかめない手は浮いている。


「生きるなんて、嫌なんだ。父さんと母さんがいたから生きていただけなんだ。二人がいないのにどう生きろって言うんだ。未来に希望なんてものがあったとしても、俺はもう、探せないんだ。ありえた未来を自分から殺すんだ……」


 張り上げたはずの声すらかすれた。

 心を蝕んでいるのは何だろうか。もって生まれた呪い、言葉という刃物、地獄のような環境。

 どれも違う。蝕まれているのは、悲しみを山のように積み上げたから。築いた山は、土砂崩れしか起こらない。

 もう一人の卓也に会って、実感してしまった。

 こんどこそ、砂になった心が霧散していく。かき集めることもせずに、卓也の心は消え去っていく。


 なのに。

 そのはずなのに。


【もう一度だけ答えろ。お前の価値とか、生きがいとか、未来の話とか、お前が気にしていること、全部全部、どうだっていいんだ】


 どうして、『俺』は諦めないのだろうか。


【お前はどうしようもない人間なんだろう? だったらもういいさ。違うとはもう言わない。お前はクズだ。それでいい。そして、どうだっていい。どうだっていいよ】


 もう一人の卓也は微笑む。

 こわばりのない表情に吸い込まれるようだった。


【だけど、聞きたいことがある。もう一回、質問する。――お前は、これからどうしたいんだ?】

「どう、って……」

【全部かなぐり捨てて答えろよ。ずっと苦しんできたお前が望んでいること】

「それは」

【……なんて、な】


 彼はさらに表情を緩ませる。おどけるように、むしろ自身の言葉を誇るかのように。


【言う必要はない。ずっと傍にいた。分からないはずがない】


 ――変わりたい。


【どんなに自分を蔑ろにしても、蔑ろにして苦しんでいたからこそ、お前はずっと変わることを望んでいたさ。それだけは絶対に否定させない。絶対に】

「……」


 吐き出すはずの息が腹で止まる。

 答えられなかった。こわばっていた顔や背筋が役目を失って垂れてしまうほどに。


 だって、あれだけ否定したけれども、変わりたいというのは本当にそうだったから。


 認めるしかなかった。

 どうあがいても負を抱いてしまう。どうやっても変われないと嘆く。

 それは間違いなく、変わりたいことの裏返しだった。

 すごく単純な開き直り。


「俺に、できると思ってるのか? 生きる目的のない俺が、ただ変えたがっているだけじゃ……」

【できるよ。お前を信じている。これは俺の気持ちからくる確信じゃない。明らかな根拠からくるものでもない。ただ、最後のチャンスだから。前世でもお前は変わりたいと思っていた。そして、何度も挫折した。……けど、今この時、大きなきっかけがある。岩倉卓也として生まれ変わったきっかけが。今動かないで、いつ動くんだ】


 硬直していたはずの足がたじろいだ。

 できる、できないじゃない。生まれ変わりまでして、ここで動けなかったなら、きっともう卓也は何をやっても動けない。

 逆に言えば、これ以上ない大切なチャンス。人にはきっと転機というものがある。何かに突き動かされて前に進もうと思える瞬間が。


 もう一人の卓也は、なおも大きく見える。自分は未だに小さいのだろうと、卓也は思う。

 しかし、おとずれた一陣の風によって、地に伏していた落ち葉が動いている。卓也の髪も撫でられて左右に揺れる。

 内側からこみあげてくる何かがある。制止をふりきって、喉を通り過ぎていく。


 ポツリとこぼれた。


「そうだな……変わりたいよ」


 言葉を出すために、どれだけの月日がかかっただろう。自覚だけはしていて、感情の泥水に沈んでいたそれが、今になって浮き上がった。

 確かな強い想いで。


「俺は、自分を変えたいと、ずっと思っていたよ……」

【知ってるよ。……自覚できたようでよかった。今はその一歩だけで十分だ。そして、ここからがとても大切だ】

「……お前は、これからどうなる」

【分からない。また元に戻ってお前の中に入るのかもしれない。お前がいつまでも立ち直れないなら俺たちはこれからも苦しみ続ける。それに、もし元に戻れば俺はお前を責め続けることになるだろう。だから、少しだけでいい。明日から変われ。勉強をするでも、運動をするでも、何か人の役に立つでも、好きなことをしろよ。そして、そんなことを繰り返してこれから先も変わり続けろ。もう、それしかないんだから。そのチャンスを与えられたんだから】


 もう一人の卓也はふいに後ろを振り返る。

 どうしてか、包み込むように細められた優しそうな目が、神社の本堂を指している。


【迎えに来てくれたみたいだな。まだ九歳なのにどれだけだよ。きっとあの子の優しさは、俺たちの上をいくぞ】


 その言葉を最後に、彼の姿は見えなくなった。

 また会えるのか、二度と会えないのか。


 しかし代わりに、今の母親と妹が、知っている家族がいつの間にか卓也を呼んでいる。

 加依はこちらの返事に気が付くと、また名前を呼んで走ってきた。卓也の真ん前まできて、両膝に手を置いて、それでもこちらから視線を外さない。


「どうして……?」


 加依に向かって、裏意味も他意もない、そのままがでてしまった。

 知りたい想いが強すぎて、ただ求める赤ん坊のような気持ちだった。


「おいかけてきた。とちゅうでお母さんがかえってきたから、いっしょに、たくやをおいかけた。とちゅうで見えなくなっちゃったけど……」


 少し離れた場所にいる、明日香とも目が合う。暗い中でも分かる心配そうな表情に、卓也はさらに混乱する。


「どうして、探しに来たんだ……?」


 あれから一時間以上はたっている。それに、怒鳴り散らしたばかりだ。それでいてなお、探しにいこうと思える子が、果たしているか。


 尋ねられた加依は一度、言葉を探すように顔を下げた。やがて、ちゃんとまた上がってきて、


「わ、わかんない……。でも、お兄ちゃんだし……かぞくだから……」


 言葉を失った。


「おれは、とてもひどいこと言っただろ……」

「で、でも、おいかけなきゃって……」


 理由付けされてない、あいまいで子供らしい言葉。

 でも、もしその言葉が本当なら、加依は気持ちのままに卓也を探していたことになる。


 そんなばかな、と思う。

 加依の声がどもっているのは、卓也が怒鳴ったからではないのか。何を話せば正解なのか分からないまま、戸惑って、気を遣っている。

 兄だから? 家族だから?

 どうせ他人だろう。ひどいことを言われたら離れるのが普通だろう。

 でも、もし加依が心から手を差し出してくれているのなら、それではまるでかつての父と母のように、卓也を――


 受け入れてくれているみたいではないか。


「ない、てるの……?」


 のぞきこんでくる加依に、「ないてないよ」と答える。目から水を落とすのが『泣く』ならば、目元でとどめている卓也は泣いていない。

 濁っていた瞳が、潤った滴で透明になっていく。綺麗な世界を映し出していく。心まで染み込んでいく感じがする。


 前世の両親は彼を肯定してくれた。だが、周囲の反応は様々だった。

 動かなければダメだという者もいたし、露骨に叱咤する者もいた。彼自身も、勝手に他者の評価を想像して怯えた。

 加依を疑う気持ちはまだある。邪気のない幼い子供も、成長すれば様々な考えを持つだろうから。優しい気持ちも、ずっと続くとは限らない。

 だけど、来てくれた加依をしっかり見る。とてもまぶしい存在だった。久しぶりに触れた優しさだった。逆の立場だったら自分はできただろうか。


 だとするなら、生まれ変わった上に、さらにこんなに大きなきっかけをくれるのなら。

 動き出さないわけにはいかない。


 ようやく、自分から身体を起こす。土のついた手とズボンを軽く払った。


「もう、大丈夫。……ありがとう」


 何がどうして大丈夫かは、加依には伝わらない。

 だからそれは、これからの日々で証明していく。明日からは悲しみや苦しみをまき散らさないように、家族が笑えるように頑張る。

 ようやく吸い上げた息が、胸を持ち上げる。


 卓也は加依の小さな手を引いて、見守っていた明日香のところへ行く。

 暗くても卓也の表情が見えたのか、明日香はただ「帰ろっか」と言った。

 家に帰るころには、完全に夜になっているだろう。神社からでて空が見えた時に、出ている月を綺麗だと思えるだろうか。少なくとも、身体はもう硬直していないし、胸の痛みは小さくなっていた。


 だからきっと思える、と卓也は呟く。

 過ぎ去る卓也の後ろで、旅立ったばかりの落ち葉が舞っていた。


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