第60話 風向きが変わった

 井伊内匠助が井伊谷城に帰った数日後、岡部左京進さきょうのじょうが清酒を持って、一人の若武者を引き連れて挨拶にやってきた。

五郎八郎はその若武者をどこかで見た事があると思いながらも思い出せずにいた。


「それがしの烏帽子子は、中々に上手い事二俣城を治めているようですな。かの地は毎年大風になると水害が酷く、それによる飢饉が酷いとよく聞きましたが、何年か前の大飢饉くらいしか、あの辺りで飢饉という事を聞かなくなりましたな」


 岡部左京進の言う『烏帽子子』は二俣城の兵庫助の事である。

兵庫助は左京進の諱『親綱』から一字を譲り受け『宗親』という諱を付けてもらっている。


 井伊内匠助が持ってきた酒を左京進に振舞うと、左京進はこれは良い酒だとご満悦であった。

一緒に来た若武者がかわらけを差し出すと、左京進はお前は濁酒どぶろくでも飲んでおれと言って豪快に笑い出した。

さすがにそれはかわいそうと酒を注いでやると、さすが松井家の酒は格別と世辞を言って喜んだ。


「実はのう、家督を美濃に譲る事にしたのだ。それがしは先日出家して、ほれ頭もこの通り」


 左京進は頭巾を取り、つるつるした輝かしい頭を五郎八郎に向けた。

『玄忠』と名乗る事にしたらしい。

忠義一徹、黒備えの岡部左京進に相応しい法名であろう。


 隣の若武者がつるつるの父の頭を指差して大笑いしている。

その笑顔に残る面影で、五郎八郎はやっとその若武者が誰なのかを思い出した。


「もしかして隣の方は重千代君ですか? いやあ、暫く見ない間に随分と立派な若武者に育ったものですね」


 五郎八郎に『立派な若武者』と褒められ、重千代はでへへと下品な声を発し鼻の下を指で擦って喜んだ。

そんなだらしない顔のせがれを見て、玄忠入道はまだ尻の青い小僧だと悪態をついた。


 二人の話によると、重千代は家人たちの補佐を得ながら土方城を任されているのだが、今年元服し五郎兵衛を名乗る事になったらしい。

玄忠入道は五郎兵衛を鼻たれ坊主と呼び、五郎兵衛は玄忠入道を隠居爺と呼んで甘噛みしあっている。


 一体この二人は何しに来たのだろう?

そんな風に思いながら玄忠入道と五郎兵衛のじゃれあいを微笑ましく見ていると、突然五郎兵衛が自分からお願いしても良いかと言い出した。

それに対し玄忠入道は、こういうのは順序というものがあるとたしなめ、また二人はじゃれ合いを始めた。


 本当に一体何しに来たのだろう?


「実は五郎八郎殿にお願いがあって来たのだ。実は倅は何年か前の内乱の時にそなたと朝日山城で過ごしてから、ずっとそなたに憧れておってな。あれだけ嫌っていた勉学にも真面目に打ち込むようになったのだ。それで、その……」


 玄忠入道が言い渋っていると、もう良いと言って五郎兵衛は父を押しのけ五郎八郎の近くに膝を近寄らせた。

五郎八郎のかわらけに酒を注ぐと、いきなり平伏した。


「お願いがございます! 五郎八郎殿の姫君かや殿をそれがしの妻にいただけませぬか? 絶対に泣かせるような真似はいたしませぬゆえ」


 五郎八郎はあまりの突飛な申し出に思わずかわらけを落としそうになってしまった。

萱は今九歳。

髪上げにはまだ三年ある。

当然、菘との間でもそんな話はまだ出ていない。


「申し出は大変ありがたいのですが、せめて髪上げまでお待ちいただけませぬか? その頃になったらまた改めてと言う事で……」


 五郎八郎としては返答を保留にしたつもりであった。

だが岡部親子はそれを強引に婚約だと解釈したようで、かたじけないと言って嬉しそうに五郎八郎の手を取った。




 年が明け、河東郡の情勢が急変した。

葛山城が今川家に再度帰順したのである。


 河東郡の争乱の二年後、遠江、駿河が度重なる大風による尋常じゃない被害を被っていた最中、葛山城主の葛山中務少輔が病死している。

中務少輔には子が無く、養父の娘婿葛山備中守の子八郎を養子としていた。


 かなり以前の話ではあるが、五郎八郎は中務少輔と会っており、その際に中務少輔から共に今川家を盛り立てていって欲しいとはっきりと言われている。

であるならばと、五郎八郎は何度か中務少輔の調略を試みている。


 だが返答は芳しいものではなく、兄の意向には抗えぬというものであった。

そもそも当家を北条家に向かわせたのは、北条家と手を切った今川家の方ではないかと。


 だがそれに対し五郎八郎は、婚姻関係を求めたのに手を切ってきたのは北条左京大夫の方だと反論。

最終的には、やはり兄弟の絆は断ち切れないと言ってきたのだった。


 後を継いだ八郎は北条左京大夫の娘を娶り、養父と同じ中務少輔を名乗って葛山城を守っていた。

だがそんな葛山城からとある噂が流れてきたのだった。


 どうやら葛山中務少輔は夫婦仲がうまくいっていないらしい。



 この情報を探ってきたのは山本勘助の手の者たちであった。

勘助は諸国を武者修行していた頃に、忍びの里と縁ができていたらしい。

今川家が忍びの活用に疎い事を知った勘助は近江にある忍びの里と連絡を取り、何人かの里の者を寄こしてもらったのだそうだ。

基本的には他家の情報収取をしてもらっているが、一部はお館様の身辺警護をしているらしい。



 忍びの者たちの話によると、今葛山城は、中務少輔の妻で北条左京大夫の娘『ちよ』が城内の一切を取り仕切っており、まるで女城主のような状況なのだとか。

それを中務少輔は苦々しく思いながらも、妻の指示に従っているという状況らしい。

恐らくは、北条家の当主の姉と言う事で城内で一目置かれている間に、増長してそういう事になってしまったのだろう。


 雪斎禅師が中務少輔に葛山城一帯の領地を安堵するから旗色を変えよと書状を出すと、中務少輔はあっさりと今川家に鞍替えしたのだった。




 雪斎禅師から葛山中務少輔帰順の報告を受けたお館様はすぐさまいつもの四人を招集した。


 お館様は最後の一人寿桂尼が部屋に入るやいなや、好機到来だと叫んだ。

こちらには孤立した葛山城を救援するという大義ができた。

今こそ北条家に目にもの見せてくれん!

お館様はそういきり立ったのだが、残念ながら他の四人とはかなり温度差がある。


「北条新九郎は家督を継いですぐに山内、扇谷両上杉軍の侵攻をあっさりと撃退しています。かの者、下手をすると父よりも戦上手ですぞ? 一筋縄ではいかぬと思いますが?」


 まずあっさりと雪斎禅師に機先を制され、ほぞを嚙んだ。


「気持ちはわかるのですが、代替わりしてからというもの、武田家は信濃制圧に躍起になっています。あれだと、こちらに向ける兵など無いように思いますが?」


 五郎八郎にまで指摘を受け、お館様は口を尖らせて不満顔をする。


「先日お館様は戦は調略の後と申しておったはず。今、富士大宮司を調略の最中ですが、それを待たずして攻め入るおつもりですか?」


 山本勘助の指摘にお館様は完全に気持ちが削がれてしまい、その場に座り込んでしまった。


「当家の最終目標は上洛だと先日お決めになったばかりではありませんか。その為に北条家に和平を打診しその交渉に入ったばかり。それがちょっと形勢が有利になったからと言って、じゃあ戦だなんて。そんな態度で本気で和平がなるとお思いですか?」


 寿桂尼にまでたしなめられ、お館様はしゅんとしてしまった。


 あまりにも落ち込むお館様を見ていられなかったのだろう。

現状で葛山城は垪和はが軍に攻められており救援が急務というのも確かだと雪斎禅師は言った。

ここいらで大きな戦勝が無いと三河衆が一気に織田家に旗色を変えかねないと五郎八郎が言うと、お館様は少し表情を明るくした。

確かに軍で威嚇して交渉するのが調略では一番効果があると勘助が言うと、お館様は晴れやかな顔をし、そうであろうそうであろうと勘助の肩を叩いた。


「そういうことであればわたくしも賛成はいたします。ただし、あくまで軍事行動は脅し、交渉はちゃんと進め、河東郡の奪還を最終目標とする事。あくまで婚姻同盟を機能させる為、良いですね?」


 雪斎たちが賛同したことで寿桂尼も渋々折れたのだった。



 こうしてお館様を総大将とし、副将には岡部美濃守と庵原左衛門尉から家督を引き継いだ庵原安房守という体制で河東郡に攻め入る事になったのだった。

また、河東郡の侵攻の報はすぐさま武蔵の扇谷おおぎがやつ上杉家へともたらされた。

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