第61話 河東郡を取り戻せ

「今川家と北条家の対立、京の天子様、公方様共に心を痛めておられます。どうか、かしこき御方々の意を組んでいたき矛を収められますよう、何卒お願い申し上げます」


 河東郡に攻め込んで早々に京の聖護院から使者として僧がやってきた。

お館様と山本勘助は河東郡に出陣しており、留守居役の五郎八郎と雪斎禅師が対応にあたる事となった。



 北条家は元は伊勢家と言い、京の公方様の傍で政所まんどころ執事しつじを代々務めてきた家である。

現代で言えば総務大臣か財務大臣といったところだろうか。

恐らくは今川家が軍事行動を起こした時点で、京の伊勢家に助けを求めたのであろう。

それにしてもこの早さ。

葛山家が寝返った時点で早々と要請だけはしていたといったところだろうか。


「当家の軍事行動はあくまで奪われた河東郡の奪還が目的。でないと葛山城が孤立してしまいますから。北条家が大人しく河東郡を返却するというのであれば、当家は明日にでも軍事行動を止めましょう」


 そもそも先に力づくでかの地を奪ったのは北条家であり、それを取り返そうと軍を起こしたら咎めてくるなど、公平な調停とはとてもではないが言えないだろう。

雪斎禅師は聖護院の僧にぴしゃりと言ってのけた。


 それでも聖護院の僧は額から流れる玉のような汗を拭き、天子様と公方様がと言って交渉を押し通そうとした。


「まあまあ、禅師。こちらの和尚は単に訪れる城の順序を間違えただけなのですから、そのようにおっしゃらなくても良いではありませんか。そうですよね、和尚?」


 五郎八郎が聖護院の僧に優しく言葉をかけると僧は涙目になって退室した。



「先日戦況が送られてきたよ。北条新九郎が必死に守っていた吉原城を落としたそうで、形勢は圧倒的に有利。武田家に仲介を頼んではいるものの、相模との国境の長久保ながくぼ城を落城させるくらいまで勢いで攻めて、そこで交渉に入りたいところだな」


 聖護院の僧が退室すると、雪斎禅師はそう言って、現状での和平など論外だと笑い飛ばした。


 今回二俣城に招集がかからず、犬居城と秋葉城に招集がかかっている。

どうやら天野安芸守と天野小四郎は、我が我がと功を競い合っているらしく、吉原城が落城した後、仲良く感状を賜ったのだそうだ。


「長久保城まで押されるようであれば、遅かれ早かれ、向こうから和平交渉を言い出してくるでしょうけどね。それより気になるのは上杉家の方ですね。河越城の攻城はどうなるでしょうね」


 正直言えば、五郎八郎としては河東郡の争いなんかよりそちらの戦いの結末の方がよほど気になっている。



 『河越夜戦よいくさ

史実では圧倒的な兵力差の中、河越城を北条綱成が堅守。

河東郡を交渉の末放棄した北条氏康が河東郡を守らせていた兵を率いて河越城へ急行し、真夜中に奇襲によって三倍以上の古河公方、山内上杉、扇谷上杉連合軍を撃退している。


 この戦で扇谷上杉家は当主を討死させてしまい滅亡。

古河公方も間もなく降伏。

山内上杉家は越後の長尾家を頼り、上杉謙信が台頭してくることになる。

そして北条家は関東一円に覇を唱える事になる。


 ここまでで実は一つ問題が発生している。

北条綱成こと福島孫九郎が伊豆に落ち延びた後、消息不明となっているのだ。

蒜田孫二郎が船の手配などを行っていて、海路伊豆に落ち延びたところまでは追えている。

だが孫九郎は兄に手紙一つよこさないらしく、完全にその後がわからなくなってしまっている。

もしここで河越城が落ちるようであれば、恐らく史実は大きく変わって北条綱成は北条家では頭角を現していないという事になる。

そうなると、今川家との橋渡し役になってもらうという役割も果たせなくなってしまいかねない。



 「時に禅師、以前話題に上っていた亡き北条左京大夫の長女の光殿ですが、その後どうなったかお聞きになってますか? 誰に嫁いだとか」


 五郎八郎の問いに雪斎禅師はあくまで勘助から聞いた噂だと断った上で話し始めた。


 亡き北条左京大夫は晩年、一人の牢人をいたく気に入り側近に取り立て可愛がっていたらしい。

それが何者であるかは残念ながらわからない。

姉と弟と三人で小田原に流れ着いて来たらしい。

歳は嫡男の新九郎と同じ。


 北条左京大夫は毎日のように、その若者に政治、経済、外交、謀略、戦略、戦術、あらゆる事を教え込んだ。

若者も真綿が水を吸うかの如く知識を吸収していったらしい。


 よほどその若者を気に入ったのだろう。

左京大夫は光を娶らせ、東の最大の拠点である玉縄たまなわ城を守る三男の彦九郎の養子にしたのだとか。


「しかし、その若者というのも、自分よりも歳下の養父というのをどう感じておるのだろうな」


 何とも奇妙な話だと言って雪斎禅師は笑い出した。


「その者もそうですが、自分よりも年上の子ができた彦九郎なる者もさぞかし困惑している事でしょうね」


 そう言って五郎八郎も笑い出した。




 吉原城落城の報告が武田家にも入ったようで、それからほどなくして駿府城に使者が訪れた。

使者は二名で当主武田大膳大夫の次弟左馬助と板垣駿河守。

左馬助は大膳大夫の名代、実際の外交官は板垣駿河守である。


 雪斎禅師は五郎八郎に命じて堤城の松井山城入道を呼び出した。

ある程度意識の擦り合わせを行った後、武田家の使者との折衝を行わせた。



「どうやら武田家は当家との外交を利用して北条家とつなぎを付けたいようだな。北条家と婚姻が引き出せれば重畳ちょうじょう、それが難しいようなら当家を架け橋とした強固な同盟をと望んでいるようだぞ」


 現在、山城入道は駿府城の松井家屋敷に移り住んでおり、毎日のように膝に徳王丸を乗せて愛でている。

突然の大仕事で心労が相当らしい。


「じゃあ、こちらの要求はかなりまで汲んでもらえるでしょうね。武田家の内情なんかは聞けてますか? 例えば大膳大夫を誰が補佐しているかとか」


 本来であれば山本勘助がその地位にあるはずである。

だが勘助は今当家にいる。

五郎八郎は、その代わりが誰になったかが知りたいのである。


「さあなあ。こうしてやってくるからには板垣駿河守はその一人なんだろうな。後は甘利備前守という名をよく聞くな。確かその二人は先代の頃からの重臣であるから、まだ生え抜きみたいな者は出ていないのと違うか?」


 山城入道は膝に乗せた徳王丸にでんでん太鼓を鳴らしてあやしながら喋っている。

父にとっては、どうやら武田家の内情なんかよりも孫の笑顔が重要であるらしい。


 そんな山城入道がでんでん太鼓を徳王丸渡し、五郎八郎の顔を真剣な眼差しで見つめた。


「どうやら北条家は東の河越城を大軍に包囲されてしまったらしいな。北条家からの使者が何度も武田家の使者に接触しているらしい。寿桂尼様さえ説得できれば北条家を小田原に追い詰める好機かもしれぬのにな」


 ついでに韮山にらやま城も奪ってしまって伊豆も取り上げてしまえば後々の憂いが無くなるのに。

なんでそれでは駄目なんだろうなと山城入道はたずねた。


「寿桂尼様からしたら北条新九郎は娘婿ですからねえ。無体は正す、それ以上は仲良くと言いたいのではないですか? それに、当家がもし上洛をという話になった時、北条家の助力があるか無いかは、かなり大きな問題となりますからね」




 それから二月後、駿河と相模の境、長久保城に籠っていた北条新九郎から直々に和睦交渉の使者が訪れた。

和睦条件は長久保城明け渡し及び河東郡に対しての要求の棄却。

つまりは河東郡の放棄と撤兵を条件にあげてきた。


 和睦が成立したわずか一週間後には北条軍は河東郡から綺麗さっぱり撤退していなくなったのだった。

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