第16話 誰が兄上を?

 義姉上を安心させ戸を閉めると、八郎二郎が廊下に座っていた。


「五郎八郎様、兵庫助様がお呼びです」


 恐らくは家督の件であろう。


 五郎八郎の心は決まっている。

当主は千寿丸。

まだ赤子ではあるが、元服まで自分が名代としてしっかりと二俣城を守り、家人たちに稽古をつけさせ、立派な城主に仕立て上げる。

千寿を頼むと遺言した兄への、それが恩返しというものであろうから。



 兵庫助のいる部屋の前に行き、お呼びでしょうかと声をかけた。

兵庫助は入れと静かに命じた。


 戸を開けて驚いたのは、兵庫助の隣に藤四郎がいたことだった。

静かに戸を閉め、五郎八郎は兵庫助の前に座った。


「五郎八郎、そなた山城から何か聞かなかったか? その……遺言とか」


 あの時、権八も遺言を聞いたはずである。

それなのに、藤四郎がここにいて父上がこう言うということは、権八は黙っているのであろうか?


「亡くなる数日前に千寿君と義姉上を頼むと。それと二俣も頼むとおっしゃっていました」


 五郎八郎の報告に兵庫助は短くそうかと呟いた。


「そなたはその遺言を聞いてどう感じた? ここには三人しかおらん。正直なところを申してみよ」


 正直、父が何を言いたいのか五郎八郎にはよくわからなかった。

だがそこでふと、先ほどからの皆の態度を思い出した。


 ……違う。

恐らく権八は黙っているのではない。

山城守が五郎八郎に家督を譲ると遺言したと報告しているのだ。


「千寿君に後を継いでいただき、私は後見になろうと考えています。それが兄上の遺言でもありますし、正しき順番かと」


 五郎八郎は毅然とした態度をとった。

だが兵庫助は何か釈然としないという顔で黙っている。


「葬儀にはご隠居、つまりそなたの祖父が来る。その時にもう一度、多くの者を交えて考えよう。それまでは遺言のこと、家督のことについては口外せぬようにな」




 通夜が終わると山城守の亡骸は天龍院へと運び込まれた。

葬儀は天龍院の伽藍で行い、経は源信の兄弟子が読んでくれることになったらしい。

五郎八郎が代表して天龍院に泊まり込み、源信と共に亡骸の守をすることになった。


 朝、義姉上が千寿丸と共にやってきて線香をあげた。

義姉上は二人分の線香を立てると、千寿丸に一緒に手を合わせるように促す。

その瞳からは、今にも雫が溢れ出しそうである。


 帰り際に、五郎八郎は権八に顔を出すように伝言を頼んだ。

義姉上は確かに承りましたと言って、千寿丸の手を引き二俣城へと帰って行った。



 それから程なくして、権八が天龍院にやってきた。

権八は突然自分一人が呼び出され、かなり不安がっている。

天龍院の門を入ってから、あっちをキョロキョロ、こっちをキョロキョロとしている。


 五郎八郎は源信に立ち会いをお願いした。

ここで今二人だけで密談したら、お家乗っ取りのあらぬ嫌疑をかけられると感じたからである。

だが、できれば密談という形で話を聞きたいとも思っている。


 ならばと源信は、自分の部屋に二人を呼び寄せることにした。



「権八、正直なところを聞きたい。そなたから見て、兄上を毒殺したのは誰だと考える?」


 五郎八郎の問いかけに、源信が腰を抜かさんばかりに驚いている。

権八は酷く怯えた顔をして、それがしでは無いと何度も首を横に振る。


「そなたでは無いことはわかっておる。あの日の前日、それも午後、そこで兄上と面会した人物だ」


 五郎八郎に報告するため権八は、目の前の水を飲んで変に乾いた喉を潤そうとする。

だが、あまりにも慌てて飲んだせいで豪快にむせている。

源信が大丈夫かと声をかけ権八を落ち着かせた。


「あの日の午後、殿はお二方のお招きを受けております」


 権八の話によると、夕方、山城守の元に話があると言って駿東すんとう郡の葛山かつらやま城主、葛山かつらやま中務少輔なかつかさのしょうゆうという者の呼び出しを受けたのだそうだ。

葛山城は富士山の東、甲斐からの東の侵攻路を遮るように設けられた城で、対武田戦線の最重要拠点と言っても良い城である。


 帰ってきた山城守はかなりご機嫌斜めだったようで、どうやら何か揉めたらしいと権八は感じた。


 暫くすると今度は堀越治部少輔様から晩酌のお誘いがあった。

権八も呼ばれて行った。

ただ山城守は少し酒を呑むと、どうにも体調が芳しくないと言って退出することになった。

自室に戻ると体がだるいと言ってそのまま寝てしまわれた。


「その堀越様の酒宴に誰がいたのか思い出せるかな? それとできればどのような話をしていたか」


 必死に思い出そうと試みたのだが、いかんせん権八もそこまで家中の方々に詳しいわけではない。

思い出せる範囲で言えば、堀越治部少輔、福島上総介、大沢左衛門佐、天方あまがた山城守、それに井伊宮内少輔、天野安芸守、天野小四郎。


 どのような話までかは覚えていないが、堀越様がしきりに遠江衆への扱いが悪すぎるという話をし、それに一同が賛同していた。



 五郎八郎は黙ってしまった。

水を一口飲むと、腕を組み部屋のあちこちを見て何かを考え込んでいる。


「五郎八郎、兄上が毒殺というのは真なのか?」


 話がひと段落したところで源信が五郎八郎に尋ねた。


「私も病に詳しいわけではありませんが、普通、風邪で大量に血を吐いたりはしない気がするのです。遅効性の毒物か何かじゃないかなと」


 五郎八郎が源信に説明すると、枕元に血痰を吐いた跡があったと源八も源信に説明した。


「では、葛山様か堀越様か、どちらかが兄上に毒を盛ったというのか……。そなたはどちらだと思うのだ?」


 源信に尋ねられて、五郎八郎は二人から視線を外し考え込んだ。

以前の天野安芸守の話からすれば、疑わしいのは堀越治部少輔の方であろう。

だが葛山中務少輔という人物のことがわからないので、いまいち確信が持てずにいる。


 五郎八郎は無言で源信を見て首を傾げた。



 今川家中に、この二俣城、もしくは松井家を快く思っていない者がいるということにはなるのだろう。

兄上を毒殺してでも排除したいと思うような。

これからそういった人たちを相手にしていかねばならないと思うと、五郎八郎は気が重くなるのを感じた。

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