第14話 兄上ぇ!!
あの戦勝から犬居城の天野安芸守は、度々二俣を訪れている。
大根だったり茄子であったり手に何かしら手土産を持ってきて、五郎八郎殿に食べさせてやってくれと厨に置いて行く。
時には、鴨が狩れたやら大猪を退治したと言って肉を持って来てくれることもある。
安芸守がこてんぱんにやられたらしいという情報を、どうやら秋葉城の天野小四郎も耳にしたらしい。
こちらも五郎八郎に興味を持ったらしく安芸守と同様に、やれ良い蕪が採れただの畑を荒らす鹿を討っただのと言って二俣に頻繁に挨拶に来ている。
時に偶然城門で鉢合わせ大喧嘩をかますということもある。
そんな時、山城守は天野家のいがみ合いには一切手を出さず、五郎八郎に丸投げする。
わしには関わりのないことと言って、五郎八郎が困っているのを見て愉悦に浸っているのだった。
暑かった夏が過ぎ二俣でも木々の葉が徐々に色褪せてきている。
川で冷やされ涼しかった風は朝晩は徐々に冷たいと感じるようになってくる。
天野安芸守が一緒に評定に行こうと言って二俣城にやってきた。
まるで一緒に学校に行こうというような誘い方だと五郎八郎は噴き出しそうになった。
横見藤四郎から報告を受けると山城守は苦笑いした。
いつもなら駿府で会っても目も合わさないというに、変われば変わるもんだと皮肉っている。
藤四郎も苦笑いである。
今川家の定例の評定は年三回。
年賀の挨拶、春、秋。
場所は駿河府中の今川館。
詳細な日付は前回の評定で告知される。
評定といっても基本は進行役から一方的に業務連絡が通告されるだけである。
進行役は筆頭家老が務める。
これまでだと
はてさて今回から誰が行うのやら。
山城守は出かける支度を終えると、安芸守と楽しく話し込んでいる五郎八郎に、評定に行くからその間の留守を頼むとお願いした。
随行は薮田権八で、安芸守、安芸守の家人の四人で出かけて行った。
留守番といっても別段これといってやることがあるわけでは無い。
どこかの村から何かしら陳情や揉め事でもあれば、行って話を聞いたりということもある。
だがそれすら無いと本当にやることが無い。
城の中を和田八郎二郎とあちこち探検した挙句、
つまみ食いをしているところを多喜に見つかってしまった。
多喜は厨に二匹大鼠が出たと言って、夫の藤四郎の前に二人を引っ立てた。
二人で藤四郎にしこたま怒られてしまったのだった。
そこに魚松弥次郎がやってきた。
弥次郎は二人を見てニヤリとした。
「どうやら五郎八郎様も八郎二郎も暇を持て余しておるようですな。どれどれ、我々が暇潰しをしてさしあげましょうか」
弥次郎は二人に庭に出るように、木槍をちょいちょいと庭の方に振った。
五郎八郎が苦笑いし後ずさりすると、いつの間にか背後にまわった藤四郎に木刀で背中を突かれてしまった。
どうも楽しそうなことをしていると、義姉上が千寿丸を抱いて縁側に腰かけ二人の訓練の様子を見ている。
藤四郎と弥次郎にボロボロにやられる五郎八郎たちを見て、千寿丸はキャッキャッとはしゃいだ。
五郎八郎も八郎二郎も馬鹿では無い。
暇そうにしていると藤四郎と弥次郎がどこからともなくやってくることに気付き、その前に城の外に逃げるようになった。
城の外といっても、そこまで行き先に覚えがあるわけではない。
大抵は庶兄源信のいる天龍院に遊びに行くだけであった。
源信も何となく二人が城から逃げてきているのは察している。
この年齢の人物が逃げてくる理由と言えば、学業か武芸かのどちらかであろう。
そこで源信は二人に、統治、経済、武芸について初歩の初歩から面白おかしく話をしてあげた。
そんなこんなで一週間ほどして山城守が二俣に帰って来た。
出迎えた五郎八郎と藤四郎は酷く驚いた。
天野安芸守の家人が山城守を背に縛って帰ってきたのである。
山城守の馬は権八が曳いてきた。
安芸守の話によると、今朝挨拶に伺ったら悪寒がすると言い出し、ふらふらしたかと思ったらそのまま倒れてしまったのだそうだ。
しばらく駿府に逗留した方が良いと言ったのだが二俣に帰ると聞かない。
こんなところにいたら治るものも治らないどころか、下手をすれば殺されかねない。
熱にうなされたのだとしても、そんなことを言ったとお館様の耳にでも入ったら、どんな目に遭うかわかったものではない。
仕方なく家人に背負わせ紐で縛り、一刻でも早くと馬を飛ばして帰ってきたのだそうだ。
「よからぬ疑いをかけられないように、今川館には、小四郎と兵庫助殿に事情を説明してきた。だから、駿府の方は大丈夫だと思うのだが……」
安芸守は、ぐったりとした山城守の状態を見て顔を曇らせた。
「あの二人が事情を知っているなら、何か言われても上手く取り繕ってくれることでしょう」
五郎八郎は安芸守に深く頭を下げ礼を述べた。
もしかしたらうつる病かもしれないので、念のため家人の方は城に入れず隔離した方が良いと安芸守には案内した。
山城守を部屋へ担いでいき布団に寝かすと、藤四郎に火鉢とやかんを用意するように指示。
山城守はかなり高熱が出ており、どうやら悪寒が酷いようで身を縮ませて震えている。
額に触れるとかなり熱があるのを感じる。
恐らくだがインフルエンザだろう。
五郎八郎は兄上の容体をそう判断した。
だが残念ながらここは戦国時代であり、熱冷ましの頓服すらない。
このまま暖かくして寝続け、山城守の免疫に頼るしか治す方法は無いのだ。
布団を何枚も被せ、部屋には二か所に火鉢を置き、その上でやかんで湯を沸かしている。
部屋には誰も入れないように弥次郎に見張っててもらった。
義姉上もなるべく部屋に入らないようにお願いした。
千寿丸は絶対に近づけてはならないと厳命した。
また、父に来てもらうように八郎二郎に堤城へ走ってもらった。
「藤四郎、医師を呼べないだろうか?」
五郎八郎の相談に藤四郎はかなり落ち込んだ顔をした。
「五郎八郎様、この辺りに医師は一人もおりませんよ。曳馬(浜松)、見附(磐田)、懸川(掛川)、金谷(島田)あたりに行けば、もしかしたら……」
藤四郎の言葉に五郎八郎は愕然とした。
そんなところまで行っていたら、それだけで半日かかってしまう。
だがそれでも連れて来てもらわないわけにはいかない。
翌朝、権八に探しに行ってもらうようにお願いした。
宗太の頃の知識からすると、インフルエンザの症状でキツイのは一晩か二晩。
今朝倒れたということなので、明後日くらいには多少は楽になるはずである。
弥次郎と藤四郎に火鉢の火とやかんの水を絶やさないよう指示をし、その日は眠りについた。
ところが翌朝容体を確認に行くと、山城守は全く良くなっていなかった。
弥次郎の話によると、昨晩、置いていた手桶に嘔吐したらしい。
インフルエンザで嘔吐するという話はあまり聞いた事がない。
……まさか……毒?
一度寝室を換気し、また戸を締め切って医師の到着を待った。
義姉上が何度も様子を見にやってきている。
戸を少し開け夫の様子を覗き見て、泣き出しそうな顔をし口元を押さえる。
五郎八郎が兄上はすぐに元気になりますよと言うと、義姉上は涙目で笑顔を作った。
医師の到着は夕方であった。
寝室に入り脈をとると、風邪だからこのまま寝かせておくしかないと言って薬の包みをいくつか箱から取り出した。
父上の到着はそれより遅く陽が落ちてから。
母上と家人数人を伴っている。
その日の深夜、山城守の寝室から頻繁に咳をする音が聞こえてきた。
翌朝、山城守の容体を確認に行くと、山城守は咳をしながら五郎八郎に何かを伝えようと寝返りを打った。
「……五郎八郎……お願いがある」
一晩中咳をしていたようで山城守の声はガラガラだった。
「どうなさいました、兄上?」
何度か咳込んだ山城守は、やっと続きを話し始めた。
「松井家を……二俣を……頼む……夕と……千寿を……頼む……」
そこまでを咳を挟みながら言うと激しく咳込んだ。
嘔吐用に用意した手桶を見ると吐瀉物にかなり血が混ざっている。
「兄上、少し咳が出るだけで何を弱気な事をおっしゃっているのです。大丈夫、寝てればすぐに良くなりますよ」
五郎八郎が振り返ると山城守はもう眠ってしまっていた。
そこから三日、山城守の容体は全く良くはならなかった。
あれだけ咳込むところを見ると、どうやら肺を損傷してしまっているのであろう。
もしかしたらという悪い予想が五郎八郎を襲った。
夕方頃、激しく咳込んだと思うとそのまま物音がしなくなった。
不安に思った弥次郎が五郎八郎を呼んだ。
五郎八郎が戸を開け中を覗くと、山城守は布団から這い出て、大量の血を吐き、うつ伏せのまま倒れていた。
「兄上ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
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