第8話 今日からは五郎八郎

 二俣では明星丸の元服式が滞りなく行われている。


 元服式は、まず参加者総出で氏神の神社へ行き、お祓いを受け身を清めるところから始まる。


 身を清めた後は、神社の一室の大きな鏡の前で、子供用の『水干すいかん』というものから大人用の『直垂ひたたれ』という衣装に着替える。


 今日の式に合わせ近侍の和田八郎二郎が二俣にやってきて、身の回りの一切をやってくれている。

聞けば八郎二郎も、年初に兵庫助が烏帽子親となって元服を済ませたのだとか。


 着替えが終わると、一旦兵庫助に付き添われ、烏帽子親の前に連れて行かれる。


 烏帽子親の前で、横見藤四郎が明星丸の髪をほどき、櫛で綺麗にとき、頭頂部を剃り落とす。

剃り落とした髪を、魚松弥次郎が紙に包んで『打乱箱うちみだればこ』という小さな漆箱にしまう。

最後に後ろで髪を束ねまげを結い、やっと身支度が完了する。



 明星丸は、烏帽子親である井伊宮内少輔の前に進み出て平伏。

すると宮内少輔が今日はめでたい日を迎えられたというような言上を述べる。

言上が終わると明星丸は身を起こし、宮内少輔がその頭上に『烏帽子』を乗せ顎紐を縛る。

最後に烏帽子親から脇差が贈られ、それを腰に差し再度平伏し、感謝の言上を述べる。

このために、宮内少輔も明星丸も必死に台詞を覚えてきていたりする。


 その後二人で酒を酌み交わすことで式の半分が終わる。


 後半は、まず宮内少輔が漆箱を明星丸に差し出すところから始まる。

付添人――今回の場合兄上――が漆箱の紐を解き、その中に納められている二枚の紙を取り出し明星丸に見せる。


 明星丸は再度平伏し宮内少輔に謝意を言上する。

すると兄の山城守はその紙の一枚を参列者に向かって掲げた。


「今日から明星丸は五郎八郎ごろはちろうである!」


 参列者はおおと歓声をあげ、口々に五郎八郎様元服おめでとうございますと言い合った。


 もう一枚には「宗信」という諱が書かれていたのだが、こちらはそのまま漆箱に納められた。



 がちがちに緊張している明星丸、改め五郎八郎に、これまた緊張しっぱなしの宮内少輔が顔を寄せた。


「諱は、わしの諱から『宗』の字を付けてみた。気に入ってもらえると嬉しいのだが」


 そう耳打ちし優しくほほ笑んだ。

五郎八郎はありがとうございますと言って頭を下げた。



 ここから元服式の後半の華、宴会が始まる。

城の女性たちが着飾ってやってきて参列者に酒を振舞っていく。


 村人たちまでやってきておこぼれに預かる。

最初こそ皆お行儀よくしているが、酒が進んでくれば、もはやどんちゃん騒ぎである。


 山城守は早々に酔っ払い、縁側に座り込み、集まった村人たち相手に大盛り上がりになっている。

宮内少輔は松井家の家人に囲まれて笑い合っている。


 五郎八郎は宮内少輔に付いてきた井伊家の家人たちと、近侍の和田八郎二郎と一緒に呑んでいた。

事前にどうやら下戸らしいと宮内少輔から聞かされているようで、あまり酒は注がず注いでもらえるのを待っている感じである。


 井伊家の家人たちの話によると、松井家の元服式はかなり古式ゆかしいらしい。

失礼ながらそこまで格式の高い家というわけでも無いのに珍しいと言い合っている。

井伊家では朝から直垂を着ているし、場所も井伊谷の城内で完結するのだとか。

式も、月代を剃って烏帽子を乗せて貰って終わりなのだそうだ。

月代を自分で剃って終わりという家もあるらしいと笑い合った。



 そこに、家人の横見藤四郎としっぽりと吞んでいた父の兵庫助がやってきた。


 兵庫助は銚子を持って五郎八郎に差し出してきた。

五郎八郎が白いかわらけを差し出すと兵庫助は酒を注いだ。


 今度は兵庫助が無言でかわらけを差し出した。

五郎八郎が銚子を受け取り酒を注ぐと、兵庫助はせこいと言って笑い出した。

もっと景気良く注がんかという兵庫助の指摘に、井伊家の家人も笑い出した。


「こうして子供に酌をされた酒を呑むのは格別であるなあ」


 兵庫助はかわらけを空にすると豪快に笑い、五郎八郎の前に差し出した。

今度はたっぷりと酒を注ぐと、兵庫助は満足そうな顔をした。


 明星丸とは良く名付けたものだと、兵庫助はしみじみと言った。

松井家では、子供の幼名は三人目まではほぼ決まっている。

長男は千寿丸、次男は精進丸、三男は妙徳丸。


 五郎八郎は次男ではあるが、その前に源信がおり、二番目の子は夭折している。

四人目のそなたに、どんな名を付けようかと何日も悩んだ。

ふと空を見上げると明星が輝いているではないか。


 菩提寺の住職に明星丸はどうかと相談すると、明星は虚空蔵菩薩の別名であるから賢い子に育つであろうということだった。


「再来年の清涼丸の元服も楽しみだ」


 兵庫助は目を細めてかわらけの酒を飲み干した。


 ……誰それ?

まだ兄弟いたんだ……


 どうやら兵庫助は五郎八郎の表情で何かを察したらしい。

お前はまだそのままなのかと、呆れた顔で五郎八郎を見た。


「二つ下のお前の弟では無いか。そのさらに三つ下に薩埵丸。腹違いとはいえ忘れたままはあんまりでは無いか。二人が聞いたら泣くぞ?」


 兵庫助は赤ら顔で怒り出した。

以前もそうだったが、父上は酒が入ると気が短くなっていけない。


 どうやら思っていることが顔に出ているらしい。

兵庫助は言いたいことがあるなら言えと怒鳴り出してしまった。


 その声に、縁側で村人相手に楽しく吞んでいた山城守がびっくりして立ち上がった。

何事かと家人に尋ねると、またかと言って額に手を当てた。


「父上は最近、酒が入ると毎回それですな。気が短くなったというか堪え性が無くなったというか……」


 山城守の愚痴に、兵庫助はさらに顔を真っ赤にしてゆらりと立ち上がった。

人を老人扱いしおってと山城守ににじり寄った。


 お前に家督を譲ったのは早計だったと兵庫助が言うと、山城守は顔から表情を消し、本気でおっしゃっているのかとすごんだ。

その顔に兵庫助は言いすぎたと感じたらしい。


 ちと飲み過ぎたらしいと言って厠に向かって行った。



 山城守は五郎八郎の前に座ると、父上にも困ったものだと笑い出した。

五郎八郎が酒を注ぐと山城守はそれをくいっとあおり、五郎八郎、五郎八郎と数回名前を呼んだ。


 山城守の話によると『五郎八郎』というのは松井家の後継者の一人に付けられる名前らしい。

つまりあのように怒ってはいるが、父上は自分に何かあった時は堤城をお前に任せたいと思っているのだろうと説明した。


「だから父上は、弟のことを忘れている私にお怒りになられたのですね」


 五郎八郎の言葉に山城守はなるほどと言って頷いた。

かわらけに残った少しの酒を飲み干すと、五郎八郎の暇をじっと見た。


「今度堤城の弟たちの顔でも見にいってあげたら良いさ。父上も安心するし、母上もさぞ喜ぶであろう」


 そう言って山城守は優しくほほ笑んだ。

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