第7話 これがお酒か

 ふた月ほど後、明星丸は、父兵庫助、兄山城守、家人の薮田権八、魚松弥次郎と共に井伊谷へと向かった。


 井伊谷は浜名湖北部の引佐いなさ郡というところにあり、二俣からすると、一度天竜川を南下し、本坂ほんさか通りに出て、そこから西に進んだ場所になる。


 浜名湖からは少し奥に離れていて、小高い丘のような地形を利用して巨大な砦が作られている。

大手門から入り屋敷のある本丸まで行くと、眼下に浜名湖が一望でき実に風光明媚な場所であった。




 井伊氏といえば、なんと言っても徳川四天王の一人「赤鬼」井伊直政が有名である。

さらに言えば、幕末『安政の大獄』で有名な大老の井伊直弼が有名だろう。


 江戸時代、大名家はどこかで無嗣断絶の危機を迎えている家が多い。

上杉家や真田家のように、途中で婿養子やら養嗣子ようししやらと、あれやこれや手を尽くして、どの家もなんとか家を存続させている。

だが井伊家は親戚筋から養子を迎えてはいるもの、井伊直政の男系のみで明治の世を迎えている。



 父兵庫助の説明によると井伊家の初代は共保ともやす公というそうで、井戸に捨てられていた捨て子だったのだそうだ。

これは何も悪口や陰口で言われているわけではなく、当の井伊家が言っていることらしい。

天孫降臨、神様からの授かりもの、そういう感覚なのだろう。


 源平の争乱の時には、すでに井伊谷に土着しそれなりの勢力を築いていたというから、遠江でもかなり古い家ということになると思う。


 鎌倉の御家人となり、南北朝の争乱の際は吉野方の猛将として名を馳せたのだそうだ。

後醍醐帝の皇子の一人、宗良むねよし親王を保護していたのだそうで、井伊谷の砦の中には宗良親王の墓があるのだそうな。


 まあ南朝に付いている時点で、時局を読む力は、ちと物足りなかったような気はする。


 その後は、松井家同様、井伊家も遠江の今川家に付き従っていた。

現当主の宮内少輔殿の父、兵部少輔殿の頃から駿河の今川家に付き従っている。


 隠居した先代、父の兵部少輔殿は諱を直平というらしい。

齢は五十を超えるというにまだまだ元気溌剌なのだとか。




 明星丸たちは一通り挨拶をすると、奥の広間のような部屋に通された。


 広間には膳が用意されており、いくつかの「かわらけ」が置かれ、炙った小魚、イカの干物、炒った豆と共に、空のかわらけが置かれている。


 井伊家の家人の案内で膳の前に座っていると、まず勝間田という者が挨拶をし、中野、新野、奥山と、一人また一人と人が現れ挨拶をしていった。

皆、明星丸を見て一礼をして、その後で、山城守、兵庫助と一礼してから自分の膳の前に座った。


 少し遅れて初老の人物が現れた。

兵庫助は顔を近づけ兵部少輔殿だと耳打ちした。


 明星丸は深々と頭を下げ続けている。

ふと前を見ると足が目の前で止まっているのが見える。

頭を上げ見上げると、兵部少輔はにっと口元を歪めた。


「なかなかに利発そうな面構えをしておるではないか」


 そう言うと兵部少輔は明星丸の肩をぽんと叩いた。



 兵部少輔の後に、今回烏帽子親を務めてくれることになった宮内少輔が現れた。

明星丸が頭を下げ続けると、宮内少輔は明星丸の肩をポンと叩いた。


 明星丸が顔を上げると、宮内少輔はにこりとほほ笑み何度も小さく頷いた。


「なかなかに良い顔立ちをしているじゃないですか」


 宮内少輔は兵庫助の顔を見て笑った。


「……それがしの子ゆえ」


 兵庫助は生真面目にそう回答した。

だが間髪入れずに、横から山城守が訂正した。


「明星丸は母親似ゆえ」


 そう言ってほくそ笑んだ。

兵庫助はキッと山城守を睨んだが、山城守は顔を背けた。

そのやり取りに井伊家の同席者が大笑いした。


「ふむ。こう見ると山城殿の言う方に分がありそうかのう」


 そう言って兵部少輔が笑い出した。


「父上、それは思っても口にしてはならぬことですぞ」


 宮内少輔がそう言って笑い出した。

二人のやり取りに山城守と松井家の従者たちは大爆笑だった。


 兵庫助は頼む家を間違えたとぶつぶつ言っており、明星丸はどう反応して良いかわからず苦笑いをしている。



 場が温まったところで、山城守が席の中央に座り、その隣に明星丸を座らせ、宮内少輔に烏帽子親を引き受けてくれたことを感謝すると挨拶をした。

それに対し宮内少輔が、烏帽子親に選んでいただき感謝すると挨拶した。


 お互い完全に決められた台詞を喋っているという感じであった。

一応の儀礼なのでそういうものなのだろう。


 その後、明星丸がよろしくお願いいたしますと頭を下げると、井伊家の家人が空のかわらけを明星丸に手渡した。


 宮内少輔が急須のような銚子を手にし近うと呼び寄せるので、明星丸は二歩三歩前に進み出た。

かわらけを差し出すと宮内少輔が酒を注いだ。



 生まれて初めて酒を呑んだ。

スポーツドリンクのような甘さと酸味、わずかな苦味、それに今まで味わったことの無い清涼感のような感覚が口の中を支配する。

……これが酒か。

大人たちは美味しそうに呑むが、決して美味しいものには感じない。

そう思っていると、突然喉の奥が熱くなった。


 こほこほと咳込む明星丸に、宮内少輔はクスリと笑い、小声でささは初めてかと尋ねた。

明星丸が小さく頷くと、宮内少輔はそういう場合は吞むふりをして口を湿らすだけにしておればよいのだと教えてくれた。



 そこから、まだ陽も高いというに井伊谷は大宴会になった。

酒が入ると人々の話というのは話題が狭まってくるものらしい。

主家の今川家の話、三河や相模(神奈川県)といった周辺国の情勢、それと女子の話である。



 明星丸になる前、宗太の頃の知識には今川義元以降の知識しかない。

何とかという兄と争い家督を継いだ。

そこからしか知らない。

徳川家康を人質として駿府で養育したこと。

……正直に言えば、それ以外に知っているのは桶狭間の敗戦だけである。

それくらい、これまで今川家などという家に興味が無かった。



 酔った彼らの話を総合すると、今の今川家は何かと危ういという事らしい。


 今川家は、先々代の治部大輔様が遠江遠征で討死。

そこから先代と、分家の小鹿おしか新五郎で家督を争った。

先代の母君の桃源院様の弟御、宗瑞入道の尽力で何とか本家に家督を取り戻せたという状況である。


 そんなわけで先代の修理大夫様は、嫡男を設けるのがかなり遅くなった。

二年前に当主となった上総介様はまだ齢十五でしかない。

しかも生来体が弱いらしく、政務は専ら母の寿桂尼じゅけいに様が執り行っている。

それが急死した先代の遺言ということだった。


 だが家中に悪い噂が流れているらしい。

本当はあの京生まれの女狐が先代を毒殺したのでは無いか。

今川家を乗っ取るために、実の息子にも何か薬を盛っているのでは無いか。

それが証拠に上総介様の弟の彦五郎殿は健康に何の問題も無いというではないか。



 正直なところを言えば彼らが話している内容はイマイチ理解できなかった。

せいぜい聞いた事のある名前と言えば寿桂尼くらいのもの。

ただ今後の人生において極めて重要と思い、耳をそばだてて聞いている。



 初めて呑んだ酒のせいか、それとも興味の無い話を我慢して聞いているからか、徐々に瞼が落ちてきてしまったのだった。

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