第6話 正妻が決まらない
母上と義姉上の話によると、朝比奈備中守の末の妹は名を
その名とは裏腹に幼い頃から我が強いことで有名なのだそうだ。
殿方は姫君の良し悪しを年齢と器量しか気にしない。
家柄が良くて嫡男を産めれば他はどうでも良いなどという者もいる。
確かに当主であればそれでも良いだろう。
だが弟の妻がそんなに我の強い娘では、必ずどこかで謀反の噂が立ってしまう。
断固反対。
母上、義姉上の力説に、男三人は返す言葉が無かった。
まだ元服というだけであるし、祝言の話はいづれのんびりと。
そのうち良き姫君が見つかるであろう。
そう言うしかなかった。
「どうにも母上も困ったお方だ。元服、初陣、祝言は、男にとって一大事なのだ。それを母上はいまいち理解しておらん」
ゆうげの席で山城守が愚痴をこぼした。
「我が強い大いに結構ではないか。ようは明星丸がその
酒も入っており、いかにも愚痴という感じの言い回しだった。
だが山城守に酌をしていた義姉上が眉をひそめた。
「そうはおっしゃいますけど、あの朝比奈様の娘は、ここひと月悪い噂ばかりが聞こえてくるんですよ?」
元々幼い頃から我が強く父母の言う事を聞かない娘と評判ではあった。
だが一月ほど前、急な病を得たらしい。
高熱を発し生死を彷徨った。
ちょうど明星丸が倒れた頃の話である。
熱が引くと、そこから数日気がふれたかのように泣き叫んでいたのだそうだ。
そうかと思えば、あれも嫌これも嫌と毎日のように喚き散らしているらしい。
兄の備中守も、薬師を呼んだり、灸をすえたりと、色々試しているそうだが未だに落ち着かないのだとか。
父が他界し、代わりに妹の嫁ぎ先をこれから探らねばならぬとあって、備中守も参ってしまっているのだそうだ。
……まさかね。
明星丸の脳裏に一人の女性の姿が浮かんだ。
だがそんなはずは無いと、すぐにその想像を否定した。
「明星丸、当のそなたはどう思うのだ?」
山城守はかわらけを明星丸に向け、少し呂律のおかしい口調で尋ねた。
そう言われても噂話だけでどうこう言える話では無い。
母上の悪態では無いが最も気になるのは見た目である。
毎日見ねばならぬ顔なのだから当然だろう。
「それは見た目さえ良ければ娶っても良いと考えているということか?」
もしやそなたは容姿が良ければ他はどうでもよいと思っておるのかと、山城守は真顔で聞いてきた。
それを聞き義姉上が、まあと言って少し怒った顔をした。
「私にとっても義妹になるのですから、もう少し真剣に選んでもらわねば」
明星丸は少し焦って、他は噂話でわかるが見た目だけは噂ではわからないと苦しい言い訳をした。
だが姉上はどうだかと言って、じっとりとした目でこちらを見続けている。
ご立腹の義姉上とは打って変わって山城守は爆笑だった。
実際のところ明星丸の言は正しい。
女子はどう感じるか知らぬが、話で容姿以外のことはだいたいわかる。
ただ容姿だけはその者の好みというものがある。
「蓼食う虫も好き好きというであろう?」
そう言ってかわらけをくいっと傾けた。
義姉上がそれにも腹を立てると、山城守は義姉上の肩を抱き、その点そなたは最良の女子だと囁いた。
義姉上は顔を赤く染め、山城守から顔を背け小声で知りませんと呟いた。
(兄上、だいぶ酔ってるなあ……)
あれから棚田作りは順調に進んでいる。
山城守からの指示で、馬の稽古もかねてということで、二日に一度馬に乗って棚田の様子を見に行っている。
最初は家人の魚松弥次郎に曳かれて、ゆっくりいう事を聞かすところから始まった。
乗り始めた当初は、とにかく股間と尻の痛みに耐えがたいものがあった。
だが一月もすると、すっかり一人で馬を操れるようになっていた。
一人で乗れるようになるとこんなに楽しいことは無く、あちこちに寄り道して村人たちと交流を深めていた。
まるで一人で自転車に乗れるようになった時のような、得も言われぬ解放感である。
棚田作りは、木を切り倒し切り株を抜くところから始まった。
そのためには村中の牛や馬を総動員せねばならない。
それでも進みは遅く、ひと畑作るのに数日を要した。
さらにはそこに山の湧き水を引いてこねばならなかった。
湧き水は非常に水量が少なく、ちょろちょろ程度の量しかない。
だがちょろちょろの水も貯めればちゃんとした量になる。
最初の田ができると山城守が様子を見に来た。
褒美だと言って小袋一杯の
一つできてしまえば後はそれの繰り返しである。
明星丸の『魚の鱗のような』という一言が多くの者に同じ風景をイメージさせたらしい。
そこからは特に口を挟まずとも次々に棚田ができあがっていった。
こうなると明星丸には、もはややることは無い。
視察の時間は専ら村人とのおしゃべりの時間になっていった。
兄上はどうにも領民というものが好きらしい。
領民が喜ぶことなら何でもしてやりたい、酒を呑むと毎回そんなことを言っている。
米の次は銭。
最近ではそれが口癖となり始めている。
そんなある日、山城守は棚田を見に行こうとする明星丸を引き留めた。
弥次郎に馬を用意してもらうと三人そろって馬に跨った。
付いて来いと言うと、山城守はいきなり全速で馬を走らせた。
明星丸も必死について行き弥八郎がそれに続いた。
十分以上走っただろうか。
天竜川をひたすら上流上流へと駆けた。
途中川が二手に分かれる場所があり、そこで山城守は馬を降りた。
「明星丸。先日そなたは敵が攻めてくると言っていたな。この先に我らの当面の敵がいる」
追いつくのに必死で息の切れている明星丸に、山城守は北東の山を指さして言った。
川の水を飲み少し息を整えると、兄の指さした方角を見た。
だがおよそ山しか見えない。
この先に武田がいるのだろうか。
ついに武田の信濃侵攻が始まったのだろうか。
「お前はまだそんなことを言っておるのか……」
山城守は大きくため息をつき呆れ口調で言った。
武田は甲斐の家なのだから、攻めてくるなら
もう少し地に対し興味を抱かぬと戦に勝てぬぞと、説教までされてしまった。
山城守は目の前の山『犬居山』を睨みつけるような目で見た。
ふんと鼻から息を吐き出すと舌打ちをした。
天野家。
これまで松井家は何度も気田川を越えて彼らの侵攻を受けている。
その都度血が流れ貴重な領民を失っている。
同じ今川の臣でありながら、領土は自ら切り開くものと『仮名目録』を無視している。
もしこの先どこか別の家が攻めてくるようなことがあれば、彼らは真っ先に裏切り、その家と共に二俣に押し寄せて来るであろう。
「明星丸。わしはそなたを頼りにしておる。一日も早く元服しわしの力になってくれ」
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