『初陣編』 享禄元年(一五二八年)

第9話 天野が攻めてきた

 元服式が終わり、一仕事終えた井伊宮内少輔たち一行は二俣城に一泊していった。


 井戸で顔を洗っている宮内少輔を、山城守があさげを共にしようと誘った。

宮内少輔はぜひにと喜んだ。


 宮内少輔が食事の間に入るとすでに兵庫助が座っている。

兵庫助は宮内少輔を見ると、五郎八郎の元服式の礼を述べた。

良き将に育って欲しいと宮内少輔が言うと、兵庫助はにこりとほほ笑んだ。


 食事の間に来てから宮内少輔には気になっていることがある。

山城守、兵庫助の姿はあるが、烏帽子子の姿が見えない。


「ところでその、五郎八郎殿は?」


 宮内少輔がきょろきょろすると、山城守は大きくため息をついた。


 二日酔い。

山城守が短く言うと、兵庫助もやれやれと言ってため息をついた。

宮内少輔は大笑いだった。

最初はそんなもんだと言うと、酒などそこそこ嗜めればそれ以上は体に毒だからと山城守も笑った。


「ときに山城殿。昨日ちと気になるものを見かけたのだが」


 あさげの途中で、宮内少輔は茶碗をことりと膳に置き、山城守に尋ねた。

宮内少輔が気になったもの、それは例の五郎八郎が提案した『棚田』であった。

いったいあれはどのようなものなのか。


「どういうも何も斜面に作った田んぼだよ。かくいうわしも五郎八郎から聞いて初めて知ったのだがな」


 山城守はガハハと豪快に笑い棚田の説明を始めた。

箪笥の引出しを順々に引き出したような感じ。

魚の鱗を模したもの。

五郎八郎からの説明をそっくりそのまま説明した。


「そんなことをしてしまって大雨の時は大丈夫なのか?」


 宮内少輔はお新香をぽりぽりと齧り疑問を口にした。

実はあの棚田には一番上に溜池のような水路が掘られている。

山から流れてきた雨は一旦その水路に流れ込み、さらに棚田の端の水路を伝って、川へと注ぎ込むという仕組みになっているのだ。


「話を聞く限りではそれほど難しいようには感じないな。井伊谷でもやろうと思えばできそうというか」


 できるんじゃないかと、宮内少輔の感想に山城守は即座に言った。

うちの領民たちですら少しの説明で理解したのだから、そこまで難しいことをやっているわけではないのかもしれない。

ここ二俣、船明ふなぎら山東やまひがしだけでなく、北の佐久さく、東の横川よこかわ領家りょうけ春野はるのなどでも同様に棚田が作られ始めている。

何年もすればこの辺は立派な米所だと言って、山城守は嬉しそうに笑った。




 では我らはこれでと井伊宮内少輔が二俣城の本丸から出ようとした時だった。

城外から一人の村人が報告があると息を切らせてやってきた。


「いかがした?」


 山城守が問いただそうとすると、その村人は客人を前に平伏し、中々用件を言わなかった。

それに山城守は怒り出し、火急の用件では無かったのかと怒鳴った。


「申し訳ございません! 天野軍が! 突然天野軍が攻めてきました!」


 村人の報告に、山城守は険しい表情のまま宮内少輔と顔を見合わせた。



 その村人は天野家の犬居城から気田川を越えた『領家村』というところの住人であった。

領家村は山で隔てられていて南北に村が別れている。

今朝、突然北の村に天野家の兵がやってきて、村を襲っているらしい。

その狼煙を見て村に二頭しかない馬に跨り、南の村から急いで駆けつけたのだそうだ。


「では天野軍の姿を直接見たわけではないのか」


 そう問い詰める山城守に、村人は申し訳ございませんと言って平伏して震えてしまった。


 これ以上は何も聞けない。

そう感じた山城守は家人の薮田権八を呼び、すぐに敵の偵察に向かわせた。




 山城守は家人を集合させると近隣の地図を用意させた。

女性たちは鎧の準備を始め、家人の魚松弥次郎は城下の民に陣触れを促す角笛を吹いた。


 こうなってくると井伊宮内少輔も井伊谷に帰るとは雰囲気的に言い出せず、家人を提供するので使って欲しいと申し出た。


 それからしばらくして、具足に陣羽織を身にまとった山城守が広間に現れた。

既に横見藤四郎など二俣城の家人たち、井伊家の家人たちも腹巻を身に付け集まっている。

兵庫助、宮内少輔も、腹巻を借りて陣羽織を羽織っている。



 城内がガチャガチャと喧しく、さすがに二日酔いだと言って寝ていられなくなり、五郎八郎は頭を抱えながら和田八郎二郎を伴い広間に顔を出した。


 何事ですかと尋ねると父は大声で怒鳴った。


「お前ら何だその恰好は! 敵襲だ! 天野が攻めてきたんだよ! 初陣なのだからさっさと着替えて来んか! 馬鹿たれが!!」


 二日酔いにその罵声は効いた。

五郎八郎は頭を抱えると、魚松弥次郎に付き添われ腹巻を身に付けに自室へと向かった。



「こんな重い物身に付けて、上手く動ける気がしない……」


 五郎八郎は和田八郎二郎に小袖を着替えさせてもらいながら、両手を広げた状態で愚痴った。

そんな五郎八郎に、弥次郎が手際よく『腹巻』という上半身だけの鎧を着せていった。


「そのように情けなきことを申されると殿が悲しみますよ」


 最後の「よ」の時に、弥次郎は背中の紐を思い切り引っ張った。

五郎八郎は思わず二日酔いの薬湯を噴出しそうになり必死に堪えた。



 腹巻を身に付け広間に向かうと、家人の横見藤四郎が周辺の地図の説明をしている。


 こちらはどの程度兵が集められるのか。

矢はいかほど用意できるのか。

敵の数がわからなくてはどうにもならん。

井伊家の家人たちは、やや興奮気味に質問を浴びせ続けた。


 横見藤四郎は、それを帳面を見ながら、わかる範囲で答えていった。


 領家村と南の横川村の間には狭い回廊のような地があり、その両側は崖に挟まれている。

その地で敵を食い止め、さらに崖の上から弓隊に支援させれば、かなりまで我らが有利に戦えるだろう。


 横見藤四郎の説明に、気田川沿いに別動隊を動かし、敵を南北から挟み撃ちしてはどうかと魚松弥次郎が意見を述べた。


 それも一つの手だと横見藤四郎は魚松弥次郎に言った。

二人は最終判断を促すように、同時に山城守へ顔を向けた。


 それまで黙っていた山城守は、此度は弥次郎の案で行ってみようと言って一同の顔を見た。


「わしが本隊を率いて横川村から南領家村へ向かう。父上と井伊殿には留守居を頼みたい。肝心の別動隊は……」


 そこまで言うと山城守は五郎八郎の顔をじっと見つめた。


「五郎八郎そなたに任せる。そなたが一軍を率いるのだ。なに心配することはない。弥次郎を付けるゆえ、弥次郎の言うことを良く聞き迅速に敵の後背を突くのだ。やれるな?」


 山城守は五郎八郎の顔をじっと見て返答を待った。

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