第3話 松井家なんて聞いた事ない

 遠州――つまり遠江とおとうみ国(静岡県西部)二俣ふたまたといえば、天竜川の中流の要衝ようしょうの地である。

確か徳川家康と武田信玄が激しく奪い合った地のはずだ。


 何故こんな縁もゆかりも無い場所に自分はいるのだろうか。



 残念ながら自分の名も思い出せないと、少し泣き出しそうな顔で目の前の二人に言った。


 すると壮年の男性は、明星丸という名も覚えていないのかと心配そうな顔で尋ねた。

無言で首を横に振ると壮年の男性はため息をついた。


 そのうち思い出せるかもしれないし、思い出せないようでも別に支障は無いだろうし、それでも構わないでは無いかと中年の男性は壮年男性を慰めた。


 無事だったのだからそれ以上を望むのは贅沢というものだと言って笑った。




 二人の話によると、自分は松井明星丸というらしい。

齢は十三。

今年元服式を行うことになっているそうだ。


 壮年の男性は兄で山城守やましろのかみ、諱は信薫。

現在ここ二俣城の城主を務めている。

兄にしてはかなり歳が離れており二八歳なのだそうだ。


 中年の男性が父の兵庫助ひょうごのすけ、諱は貞宗。

嫡男ちゃくなんの山城守に二俣の家督は譲ったが、まだ四三歳であるらしい。

現在は二俣から秋葉あきは街道を南に行った本拠地、つつみ城の城主をしている。


 松井家は元々は遠江今川家の被官ひかんだったらしい。

被官とは守護に従属する国衆くにしゅうである。

今の言い方でいえば県知事の部下になった市長とでもいえばいいだろうか。


 なお遠江今川家は今川義元の駿河今川家の分家である。


 大昔、駿河今川家の当主の次男に了俊りょうしゅん様という人物がいて、その方が九州で大活躍をなされた。

この了俊様の家が遠江今川家である。


 我家の先祖はその時了俊様に付き従い活躍したのだとか。


 ところが後に駿河の宗家そうけが戦で活躍した際、公方様から『天下一苗字』という恩賞を受けたことで、遠江の今川家は今川の姓が名乗れなくなった。

実にはた迷惑な話である。

遠江今川家は渋々『堀越ほりこし』という姓を名乗ることになった。


 その後東山殿の御世に世が乱れると、遠江は斯波家と領土の奪い合いになった。

その最中、堀越家は時の当主の陸奥守むつのかみ様が討死なされてしまわれた。


 陸奥守様の長男の睡足軒すいそくけんが勝手に駿河の宗家に降伏してしまい、遠江の国衆は駿河の今川宗家に仕え直すことになった。


 兵庫助の父は祖父と二人その戦乱で抜群の戦功があり堤城を与えられることになった。


 さらに遠江から斯波しば家の勢力を駆逐すると、二俣城も与えられることになった。




「どうじゃ? ここまで聞いて何か思い出さぬか」


 明星丸は苦笑いして小首を傾げてしまった。


 父兵庫助は大きくため息をつくと、どうやら元気そうだからわしは堤城に帰るよと言って、帰り支度をしに部屋に戻ってしまった。


 山城守は明星丸を見てふっと笑うと、では我らも領民の顔を見に行くとしようと言って立ち上がった。


 明星丸も立ち上がろうとしたのだが前のめりに倒れた。


 山城守は驚いて大丈夫かと手を差し伸べた。

だが明星丸が足を掴んでもがく姿を見て、目を細めその手をそっと引っ込めた。


「情けない奴だな。戦場では、足が痺れたから待ってくれと言っても、相手は待ってはくれぬぞ?」


 申し訳ありませんと口では謝るものの足の痺れが簡単に治るわけではない。

四つん這いで悶えていると、兄上は床板をダンと踏み鳴らした。


「わかったらさっさと立つ。歩いておれば足の痺れなぞすぐに消える」




 山城守と明星丸は二人で馬に乗り領内を巡察に出ることになった。


 馬の乗り方も忘れてしまいましたと素直に言うと、山城守は明星丸の顔をじっと見て、短くさもありなんと言って笑った。

山城守は家人を呼ぶと馬を曳いてやってくれとお願いした。


 家人が曳いて来た馬を見て明星丸はかなり驚いた。


 競馬なんかで見るサラブレッドに比べ昔の馬は小さいとは聞いていた。

だが家人が曳いて来た馬はパッと見では大きな犬くらいの大きさしかなかったのだ。

ちょっと背の大きな人なら足が付いてしまいそうである。

こんな馬に乗ったところで本当に戦場で役になど立つのだろうか。


 一抹の不安がよぎった。



 馬上と煙草は思案の友と以前どこかで聞いた事がある。

馬上に揺られていると何となく色々な事が頭を過った。


 先ほどの父の説明でここが戦国時代真っ只中だということが判明した。


 しかも遠江を今川家が武力で奪い取ったという話だった。

つまりまだ今川家がある。


 そこからすると恐らく今は戦国時代、それもかなり初期の頃だと思われる。


 ただどういうことか先ほどの説明で、聞き覚えのある名前が一切出てこなかった。

朝比奈とか岡部とか太原雪斎とか、誰か一人くらい聞いた事のありそうな名前が出てもよさそうなものなのに。


 松井って誰だよ……


 そんな武将聞いた事がない。

戦国時代のゲームで今川家で遊んだことなど無いが隣の徳川家では遊んだことがある。

だが松井などという武将は見た覚えが無い。


 関西の方にならそんな武将がいたような気がしないでもないのだが。

そちらの方にしても薄っすらの記憶しかない。


 真田とか柴田とかもっとメジャーな武将いくらでもいただろう。

何だってそんなドマイナーな。


 思わず口をついてしまい、馬を曳いていた家人だけじゃなく山城守も驚いて明星丸の表情を確認した。


「どうした明星丸。何か言ったか?」


 頭が混乱していると言い訳すると山城守は眉をひそめた。

まだ記憶が混濁しておるのかもしれんと渋い顔をした。



 山城守は馬の速度を落とし明星丸の馬の横に並びかけた。


「どうだ明星丸。寂しい景色であろう。これが俺たちの領地の光景なのだ」


 心なしか田畑が少ない気がする。

それに伴い民家もまばらな気がする。


 山城守の説明によると、それは気のせいでは無いのだそうだ。


 この辺は川の中州で土地に石が多い。

そのせいで水はけが良すぎてしまい、田んぼが作れないのだとか。

おまけにちょっと雨が降ればすぐに天竜川も二俣川も氾濫してしまう。


 見れば居住区の奥になだらかな山裾が見える。

以前、山というのは水を蓄えているスポンジのような存在と聞いた気がする。

であれば、そこの木を伐り田に変えてしまってはどうなのだろう。


 確かこのような斜面を無理やり田畑に変えた場所があったはず。

たしか名前は『棚田たなだ』とかいったような。


「なんだ棚田って。お前何か知っておることがあるのか?」


 山城守はじっと明星丸の顔を見つめた。

この目は何か訝しんでいる目である。


 咄嗟に以前文献で見た気がすると誤魔化したのだが、別人だとバレたかもしれない。


「視察は中止だ。寺に行くことにする」

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