第42話 悩んだ時はパンを焼こう

──あなたと出会えた人生で良かった。

 

 ずっと抱いていたその気持ちを、ようやくアレクシアに伝えることができたルカは、少しの安堵と大きな葛藤に揺れていた。


 安堵とは要するに、これまでの告白が悲惨なものだったせいである。

 

 初対面で危機を救ってもらってからの、衝動的なプロポーズ。──しかもこの直後に崖から突き落とされた。


 ナターリアを今でも愛していると誤解されかけての、反射的な告白。──しかもこれは芋の皮を剥きながらだった。


 我ながら、どこまでも格好の悪い求愛ばかりを重ねてきた自信がある。

  

 一方で葛藤とは、好きでもない男から再三告白されてアレクシアは迷惑なのではないか──という自己嫌悪に似た煩悶はんもんからきている。

 

 過去の告白を振り返っても、自分は本当にアレクシアのことになると本能剥き出しで暴走してしまうのだと、自覚せざるを得なかった。

 

 しかも、どんなに恋焦がれたところで「末端令息」のルカがアレクシアと結婚できるはずがない。


 いくら彼女に想いを伝えたところで、この恋が成就することはありえない。


 そんなことはわかっている。嫌というほどよく承知しているのに、気持ちを隠し通すこともできなかった。


(……アレクシア様に、迷惑をかけてはいけないのに……)

 

 そうしてルカはまたしても、葛藤のループに迷い込む。


 我ながら矛盾していると思うのだが、叶わないと知っていながら、本音を伏せていることができない。


 特に他の女に恋していると誤解されることだけは耐えられなくて、速攻で否定してしまう。


 僕が好きなのはあなただと、愛しているのはあなただけなのだと、後先も考えずストレートに告白してしまう。


 ルカにとってアレクシアは運命の人だ。

 だが、アレクシアにとってルカは運命の相手ではない。


 いくら好きでいても、想いが通じることはない。当然のことだ。


(好きだとはいくらでも言える。けど……結婚してほしいとは決して言えない……)


 変えられない血筋と、越えられない身分の差。

 非情な現実が、何も持たない「末端令息」をじわじわとさいなむ。

 

 この恋が叶うことはありえない。

 そう思うと、胸に泥が広がるような感覚がした。


 ギュッと押しつぶされそうに痛む心臓を押さえて、ルカは拳をにぎりしめた。 


「よし! パンを焼こう!」


 悩んだ時は手を動かす。実家のヴァルテン家に暮らしていた頃、学んだことだ。

 

 もやもや悩んでいても、くよくよ落ち込んでいても、何も解決しない。

 だったらその分のエネルギーを有効に使おうという貧乏性……建設的な考えである。


 幼いルカが継母のヘルミーネに侮辱され打擲された時や、異母弟のマティアスに剣で一方的にめった打ちにされて傷だらけになった時。

 ヴァルテン家の使用人たちはいつもこっそりと傷の手当てをしてくれた。


 それから料理人のヨハンがよく誘ってくれたのだ。──ルカ様、一緒にパンを作りましょうか。


 ヨハンたちに見守られながら、調理場で手を動かすうちに、ルカにもだんだんとわかってきた。

 うじうじと殻に閉じこもっているくらいなら、その時間と労力を他のことに注いだ方がお得だということが。


 現実を変えることはできなくても、部屋をきれいに掃除したり、洗濯物をお日さまに当てて干したり、美味しい料理を作ったりすれば、沈んだ気持ちも自然と明るくなる。


 中でも、パン作りは特にストレス解消と相性がいい気がした。

 パン生地を力いっぱいにこねて調理台に叩きつけると、積もったもやもやがすーっと消化されていくような気がするのだ。


 ヴァルテン男爵家には専門のパン職人も雇われていて、毎日数種類のパンを日替わりで作っていた。


 少しハンスに似た太っちょのパン職人は、オーブンから出したばかりのほかほかのパンを手で割ると、しーっと指を立てて「はいどうぞ。一番乗りですよ」と、ルカにこっそり食べさせてくれたものだ。


 庶子のルカは実家のダイニングホールでの食事に同席することは許されていなかったけれど、でも厨房の隅で隠れるようにこっそり食べたあの焼きたてのパンは、豪奢なダイニングホールで食べるよりもずっと美味しかったのではないだろうか。


「えっと……昨日作った生地は……」


 ルカはまだ誰もいない早朝の厨房に入り、昨日のうちに作って寝かせておいたパン生地を取り出した。


 一晩かけて発酵したパン生地は昨日の約二倍の大きさに膨らんで、つやつやと光っている。


「フィリングは何にしようかな。林檎? 梨?」

 

 材料の在庫を頭に思い浮かべながら、ルカはさらに生地をこねあげる。


 手際よくパン生地を折り、たたみ、丸めてひとかたまりにした。ゆっくり低温で発酵させたおかけで、小麦本来の香りが引き立っている。


 朝は食感の軽いものが好まれるから、小麦粉の配合を加減したり、ミルクの割合を多くしたりして、よりふんわりとした口当たりのいい食感になるよう工夫してみた。


 ガス抜きをしてから、生地を均等な大きさに切り分け、丸く成型していく。

 成型が済んだらもう一度、室温で発酵させてから、火をつけた石窯に入れた。


 パンの上に添えたトッピングはケシの実に白ゴマ、黒ゴマ、炒ったくるみにアーモンド、ヒマワリの種にかぼちゃの種など様々だ。

 さらに甘いものが好きな人用に、果物や干し葡萄を砂糖で煮たフィリング入りのパンも用意すると喜ばれる。


 ハンスなどはこの前、林檎のフィリングたっぷりのパンをほおばって「焼いた宝石箱や……!」と褒めてく──。


「……あれ?」


 ルカは作業の手を止めて、水色の瞳をまたたいた。

 こそこそと壁を這う大柄な影。──いるはずのない人たちがそこにいる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る