第41話 払暁の告白

 ルカがうっすらと目を覚ました時、すでに空は白みはじめていた。

 

 目を開けたらアレクシアがいたので、飛び上がるほど驚いた。


──お父様が付き合わせて悪かった、と詫びられて、激しく首を振る。

 

 そのままヴィクトルを私室に残して、二人で廊下に出た。


 霜の降りた庭に払暁ふつぎょうの光が静かにさしこんでくる。

 清新な空気の中をアレクシアと並んで歩けるのは、嬉しいだけではなく酔いざましにもなった。


 冬に向かって日ごとに冷たくなっていく風が、火照った頬に心地よい。

 

(痛っ……!)

 

 にわかに服の下の古傷が痛んで、ルカは眉間をしかめた。アレクシアに気付かれないように、そっと襟をかき合わせる。


 胸に残る火傷は、継母のヘルミーネに付けられた傷だった。

 

 ルカが物心ついた時にはもう、ルカの父アウグストとヘルミーネの仲は冷えきっていた。


 ヘルミーネの方からは新しいドレスを買えだの宝石を贈れだのと頻繁にせっついていたが、アウグストの方から妻に話しかける姿はほとんど見たことがなかった。


 夫婦水入らずの時間を持つどころか、アウグストは妻と過ごすことを避けるかのように、屋敷を離れて外泊することも多かった。

 行き先も告げず、最低限の従者だけを連れて、ふらりと家を出て行ってしまうのだ。

 

 あの時もそうだった。

 ルカがまだ十歳にもならなかった、ある冬の夜。


 雪催ゆきもよいがちらつくような厳寒の季節なのに、アウグストはまた行き先も言わずに黙って外出し、夜が更けてもなかなか戻ってこなかった。

 

 あの日はただでさえ癇癪持ちのヘルミーネの、虫の居どころが致命的に悪かった。


 ヘルミーネは普段は顔を見るのも嫌がっているルカを、夜中に叩き起こさせて無理やり呼びつけると、旦那様はどこへ行ったのか──と頭ごなしに怒鳴りつけた。


 ルカは知らないと首を振ったが、ヘルミーネは納得せず、さらに激しい怒りをルカにぶつけた。

 

『どうせまた平民たちの街へでも行ったのでしょう! あの人はいったいどういうつもりなの!?』

 

 どういうつもりかと聞かれても、ルカには何もわからない。

 ただ激怒するヘルミーネにおびえて、黙りこむしかできなかった。

 

『あの人は何を考えているの! あなたのような要らない子供をまた増やすつもりなの!?』

 

 荒れたヘルミーネは、もうルカを罵るだけでは気が済まなかった。


 腹立ちまぎれに、燃えさかる暖炉から火かき棒をつかむと、ルカの胸に突き立てたのだ。

 

 言葉も出ないほどの痛みだった。


 服が焦げて、肉が焼ける。

 激痛に悶絶してうずくまったまま、幼いルカは気を失った──。



「……男爵も男爵だ」

 

 怒りを帯びた声で言われて、ルカは我に返った。

 

「ヴァルテン男爵は自身の判断でルカを屋敷に引き取ったのだろう? だったら夫人が何と言おうと、我が子を守り抜くのが父親としての責任ではないのか?」

「そう言われれば、確かに……」

 

 なぜアレクシアが怒っているのかわからなかったが、ルカに怒っているわけではないようなので見守ることにする。怒っている顔も美人だな……とのんきに惚れ惚れしながら。

 

「男爵夫人もそんなに己の生んだ子しか愛せないのなら、最初からルカがいるとわかっている家には嫁がなければよかったのだ」

 

 ルカがヴァルテン家に引き取られた後で、男爵と夫人が婚約したことは、以前エヴァルトが調べさせた報告書にもあがっていた。


 先に男爵家にいたのはルカの方であって、男爵夫人は婚約中や婚姻中に浮気されたわけではない。


 初めからルカの存在を承知の上で婚約を、ひいては結婚を承諾したはずだ。


 それならば、ふりだけでも母親の真似事をするのが道理というものではないのか。

 

 継子と実子で愛情に差が生じるのは仕方のないことかもしれないが、貴族の家の女主人ならば私怨に蓋をして、寛容にふるまうことを求められる面はある。


 実際、夫の婚外子を屋敷に引き取って、貴族としての教育を受けさせている正妻は何人もいる。


 たとえばノルトハイム侯爵が有名だ。現侯爵は前侯爵が平民の女性に産ませた私生児だが、正妻である侯爵夫人が引き取って後継者としての教育を施した。爵位を継いだ今では、才気煥発な若当主としてたびたび名を馳せている切れ者でもある。


 凋落ちょうらくしていたノルトハイム家を救ったと称賛された侯爵は、真の功労者は自分ではなく、敬愛する継母である──と公式のスピーチで感謝を述べたこともあるほどだ。

 

 侯爵の例でもわかるように、夫の子を訓育するのは妻としての矜持きょうじであり、庶子であっても優秀な人物に育て上げることは回り回って家のためになるのだ。


 それを理解せず、あからさまに差別して虐げるとは狭量すぎる。

 

 アレクシアは平素から不正や横暴を好まないが、中でも、幼い子供が理不尽な目に遭うのはとりわけ嫌いだった。

 

「愛せずに虐待するくらいなら、いっそ男爵夫人は早い時点でルカを手放せば良かったのだ。適当な理由をつけて、平民として生きられるように支援してやればよかった。充分な謝礼を持たせて信頼できる人間にルカを預けたところで、ヴァルテン家の資産からすれば痛くもかゆくもないだろう」

「確かに……」


 ルカはうなずいた。確かにそうだ。


 毎日あんなにしつこく卑しい血、汚らわしい平民の子、と蔑んでいたわりに、ヘルミーネにその発想はなかったらしい。


「そうですね。でも……」


 生みの母のように庶民として生きろと言われ、平民街に放逐されていた方が、男爵邸にいるよりもルカは幸せだったかもしれない。


 裕福な暮らしはできなくても、誰にも蔑まれず、罵られない、ごく平和な日々を送ることができたのかもしれない。


 平民として過ごしていれば、ナタ-リアと心の通わない婚約を結ぶこともなかった。


 一方的に捨てられ、断罪され、人々から嘲笑されることもなかった。


 利用価値のなくなった役立たずとそしられ、実家を追い出されることもなかった。でも。


「でも……あなたに会えました」


 男爵家で育ったから。婚約を破棄されたから。実家を追放されたから。だからルカはリートベルクの地に来ることができた。


 城のみんなに、そしてアレクシアに出会うことができた。


「……悲しかったことも、悔しかったことも、惨めだったことも……全部……」


 ルカの水色の瞳が愛おしさで満ちて、アレクシアへと注がれる。


「あなたに会えたことで、全部が報われました。アレクシア様」


 ──今までの不幸をすべて足したよりも、アレクシアの方が強い。


 平穏だがあなたのいない人生よりも、どんなに辛い目に遭っても、あなたと出会えた人生の方がずっといい──。


 心の底から、ルカはそう思った。


「……」


 アレクシアは押し黙った。

 なんと答えたらいいのかわからない。


(……なぜ……)


 夜着ごしに、アレクシアは己の腕をぎゅっと抑える。

 

(なぜそんなに私を想ってくれる?)


 尋ねようとしたのに、なぜか言葉にはならなかった。


(初めて会った時、私がルカを救ったからか……?)


 ルカがこの地に来た日。たまたま絶体絶命の窮地を救ったのはアレクシアだった。


 だから、彼の目に鮮烈に映ってしまったのではないか?


 ルカは感謝と恋心を混同してしまっているのではないのか?


 本当は愛ではなく、恩を感じているだけなのではないか?


 疑問は次々と浮かぶのに、どうしてか何も口にすることができない。


 ルカの言葉を遮ってまではっきりと否定することができなくて、アレクシアは押し黙った。


 ルカはしみじみと言った。

  

「僕は、この人生で良かった……」


 人は星の数ほど大勢いる。同じ国に生まれたって、一生会うことのない人間の方がずっと多い。


 けれど、ルカはアレクシアに出会えた。


 どんなに手の届かない身分違いでも、叶うことのない片想いでも、彼女を知らずに生きていくよりはずっと良かった。


「あなたに出会えた、この人生が良かったんです」

 

 アレクシアはまだ信じ切れずにいた。


 ルカを信じられないのではなく、野蛮だ粗野だと言われ続けてきた自分のことを信じられない。


「……」

 

 それなのに。

 ルカのまっすぐな想いを、心地いいと思ってしまう。

 この想いが向けられるのが、永遠に自分だけであれば良いと。

 

 どうしてこんなことを願ってしまうのか、自分でも自分がわからない。


 この感情の名前を知らなかった。

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