第40話 火傷の痕

 ひょんなことから始まった二人の晩酌は、意外なほどの盛り上がりをみせた。

 

 ルカは初めのうちは恐縮していたものの、辺境伯じきじきに勧めてくる杯を断れるはずもない。


 酒が入ると、話もはずむ。

 話がはずむと、さらに酒が進む。


「……これは私の秘蔵の品なのだが」


 ヴィクトルが自慢気に取り出してきた箱の中には、古い手紙が保管されていた。


 少し色あせた亜麻色の紙には、いかにも子供が書いたらしいたどたどしい筆致が踊っている。


「アレクシアが五歳の時、初めて私に書いてくれた手紙だ」

「み、見たい! 見たいです!! 見せてください!!」

 

 幼少期のアレクシアの自筆など、至宝と呼んでいい逸品ではないか。


 ルカは瞳を輝かせながら、貴重な骨董品を扱うかのように丁寧に手紙を受け止った。

 

「利発さのにじむ字ですね。辺境伯を慕う純粋な気持ちが愛らしくしたためられていて、本当に素晴らしいです!」

「わかるか、ルカ君!」

 

 二人はがっしりと拳をにぎりあう。

 

「肖像画もあるぞ。見るかね?」

「見ます!!!」


 ルカは前のめりで立ち上がった。


 応接間とつながったヴィクトルの私室には、彼の秘蔵の宝物がたんまりと所蔵されていた。


「そうそう。これだ」


 アレクシアを描いた一番古い肖像画は、まだ生まれて間もない頃のものだった。


 白いおくるみに包まれた黒髪の嬰児が、愛おしそうに微笑む母のルイーゼと見つめあっている。


「て……天使と聖母……!」


 ルカが感動に震えながらその場に膝をついて拝むと、ヴィクトルは同感だと言わんばかりにうんうんと大きくうなずいた。


 ヴィクトルは溺愛する妻と娘の姿を記録するため、頻繁に肖像画を依頼していたらしい。


 歩き始めたばかりの一歳のアレクシアを、優しく見守るルイーゼ。


 日だまりの中で花を摘む二歳のアレクシアに、編んだ花冠を掲げるルイーゼ。


 三歳の時の絵も、四歳の時の絵も、どれもが聖母子画のように清らかで美しく、ルカは伏して祈ることしかできなかった。


「地上に降り立った天使ですね……! こんな……こんな素晴らしい絵は生まれて初めて見ました……!!」

「いやぁ、話のわかる青年だ。君はなかなか見込みがあるな!」


 ルカから絶賛に次ぐ絶賛を浴びて、ヴィクトルは大いに満足したようだった。


 上機嫌でルカの背をばんばんと叩くと、自らのグラスに手酌で酒を注ぐ。


「こんなに愉快な夜は久しぶりだ!」


 ルカにも同じ酒を注ぎ、グラスを持ち上げて乾杯し、二人は大いに盛り上がった。

 

 酒が進んで口が軽くなったヴィクトルが、アレクシアが生まれた時からいかに可愛かったかを自慢げに語り、ルカはそのエピソードのいちいちに目を輝かせたり、天を仰いだり、悶絶して倒れたりと忙しい。

 

 ルカに少しでも心にもない世辞を述べている様子や、ヴィクトルにおもねって演技しているようなそぶりがあれば、ヴィクトルとて興ざめしただろう。


 しかし目の前の青年のリアクションは、疑っては不憫なほど本気だ。


 どの反応も正真正銘の本物であったからこそ、ヴィクトルも白けることなく、美味い酒を飲むことができた。


 屈託なく笑うルカの無邪気な顔に、ヴィクトルはなぜか、やはり邪気のない性格だったルイーゼの姿をしきりに思い出した。


 あんなにも清らかで美しかったせいだろうか。

 ヴィクトルの愛しい妻は神にも深く愛されて、若くして天国に逝ってしまった。


「……すっかり遅くなってしまったな。話は尽きないが、そろそろ終わりにせねばルカ君に悪いな……」

「いいえ! 自分まだまだいけます! もっと聞かせてくださいお願いします!」

「そうか~! そこまで言うのなら仕方ないな~!」



 

 ***

 


 アレクシアが山猫のバルーを抱いて現れたのは、夜もすっかり更けた頃だった。

 

「お父様、飲み過ぎです」

「ついつい話がはずんでな……」

 

 気持ちよく酔いの回ったヴィクトルの前には、空の酒瓶がいくつも転がっていた。


 ルカはすでに酔いつぶれてソファーに撃沈し、すやすやと寝息を立てている。


 アレクシアはテーブルの脇に広げられた、古い自分の手紙を一瞥し、

 

「ルカに何を見せているのですか」

 

 と、ため息をついた。

 

「こんな昔の手紙、恥ずかしいから捨ててくださいと言ったでしょう」

「嫌だ! 捨てるもんか! ルカ君だって家宝として永久保存すべきだって言ってくれたんだ!」

「変なところで意気投合しないでください」


 ヴィクトルは手紙を奪い取って抱きしめた。


「絶っ対に捨てないからな! 私が死んだら棺桶に入れてもらうんだ!」

 

 アレクシアはあきれた様子で、部屋中に広げられたヴィクトルの思い出の品々をながめた。


 アレクシアの幼い頃の服や持ち物も多いが、亡き母ルイーゼゆかりの遺品はそのゆうに十倍はある。

 

「……どれだけ大きな棺桶を作らせる気なのですか……」

 

 ヴィクトルは娘の小言を聞き流して、ルカの寝顔をつくづくとながめた。

 

「しかしヴァルテン男爵といえば貴族の中でも裕福なことで知られている家だが、それにしてはずいぶんと細っこい小僧だな……」

「これでもかなりましになったのですよ。ここに来た当初はもっと痩せていて、貧相と言っていいくらいでした」

「何だと?」

 

 父と娘はしばし黙った。

 

「……ルカは自分のことを、父親の私生児だと言っていました」

「私生児か。王都暮らしの暇な貴族たちにはさほどめずらしくない話らしいが……ヴァルテン家の女主人は確か……」

「ヘルミーネ夫人です。実家はシェンバッハ伯爵家だったかと」

「シェンバッハ家のヘルミーネなら私と同世代だ。昔からいたく評判の悪い令嬢だったな。高慢で意地が悪く、身持ちも悪いと……」

 

 ヴィクトルの言葉を聞いて、アレクシアは形の良い眉を寄せた。


 庶出だが長男のルカと、嫡出だが次男の弟。


 傲慢で意地が悪いと評判の正妻が、さぞかし継子のルカを邪険にしたであろうことは想像に難くない。

 

「……」

 

 アレクシアが腕をこわばらせたせいだろうか。それまで心地よさそうに抱かれていたバルーが、ひょいと身をよじって飛び降りた。


 バルーはそのままソファーに近づいていき、眠るルカの胸元に転がり込むようにしてじゃれついた。

 

「こら、バルー」

 

 バルーが肉球で叩くようにじゃれたせいで、ルカのシャツがはらりとめくれる。


 はだけた胸元を直そうとして、アレクシアははっと息を飲んだ。

 

「……これは」

 

 ルカの胸、鎖骨の下あたりには、火傷の痕がくっきりと刻まれていた。


 童顔の面立ちには似合わないほどの無残な傷だった。焼けただれた傷口が引きれて、まだらな紅斑になって残っている。

 

「酷いな……」

 

 新しい傷ではない。十年以上は経っていそうだが、今でも痛々しさは変わらなかった。

 

 事故ならばこんな位置に傷がつくことは考えにくい。


 誤って暖炉に触れる、あるいはうっかり焚き火の中に転ぶといった場合、幼児であってもとっさに手をつくものだ。こんな形で胸にだけ傷を負うことはかえって難しい。

 

 十年以上前の、まだ子供であっただろうルカに、誰かが故意に傷を負わせた。


 しかも手当ても治療もろくにせず、放置したのは明らかだ。


「……」


 アレクシアは愁眉を寄せた。


 先日一緒に出かけた秋の祭りで、ルカが城の者たちはみんな優しいと言っていたことを思い出す。


──誰も嫌がらせをしたり、悪評を流したり、理不尽な暴力をふるったりしないから──と。


 つまり、これまで彼の周囲にはそんな残酷な悪意が渦巻いていたということだ。


 ルカがいつも天真爛漫に笑っているから、それ以上深刻に追及することはなくきてしまった。


 この残忍な傷跡を見れば、彼が受けた仕打ちはただの陰口や嫌がらせなどではないことがありありとわかる。


 仮にも貴族の家の長子である彼を、いったいだれがここまでむごい目に遭わせたのだ。

 

「……男爵夫人か?」

 

 ルカの生家の人間──とりわけルカを疎んじ、邪険に扱ったと思しき人物が頭に浮かんで、アレクシアは唇を噛んだ。

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