第37話 水汲みと大男

 翌日も快晴だった。


 澄んだ青空から、明るく晴れた陽光が燦々と降ってくる。日ざしを浴びて、木組みの滑車がくるくると回る。


「よいしょ、っと!」

 

 清水をたたえた手桶を取って、ルカは額の汗をひと拭きした。

 

 水の確保は、リートベルク邸のような急峻な山中に建つ城にとっては死活問題だ。


 方法は大きく二つある。一つは地下水を汲むことだ。地中深く掘った井戸に縄を通した手桶を入れ、滑車を使って人力で水を汲み上げる。


 もう一つは屋敷の屋根という屋根に雨樋あまどいを渡し、天水を集めて一か所に貯めておくことだ。前者は主に飲料水や調理用として、後者は掃除用や畑に撒くために使っている。


 水汲みは骨の折れる力仕事だが、毎日欠かせない作業でもある。


 最初のうちは重たい水を抱えて何往復もするのに疲弊することもあったが、剛腕の騎士たちに鍛えられている成果もあって、日に日に楽に行えるようになってきた。

 

 水は貴重だから無駄遣いできない。ルカは汲んだ水を慎重に、調理用の大かめの中に移していく。

 やがて大甕いっぱいに、澄んだ清水が満ちた時だった。

 

「誰か! いるか!?」

 

 洗い場の方から呼ぶ声がして、ルカは思わず静止した。

 まるで野獣の咆哮のような猛々しい声だった。

 

「わ……」

 

 厨房に連なる中庭の手前に立っていたのは、見上げるような大男だった。


 騎士団の大柄な騎士たちと毎日のように接しているルカでも驚くほどの、堂々とした巨躯。肩幅も胸板もがっしりとしていてとても厚く、短く刈り込んだ黒髪の下には猛禽のように鋭い眼光が光っている。


 特に目を引くのは顔の傷だった。大男の額から眉間を斜めに通り、頬にかけて、深々とした溝のような古傷が走っている。

 

 普通の村人には見えないから、流れ者の傭兵だろうか。


 歴戦にして凄腕の戦士、という肩書きがよく似合いそうな筋骨隆々とした男は、ルカを悠然と見下ろして、強面の顔をさらにしかめた。

 

「ん? 新しく人を雇ったのか?」

 

 暑そうに首元をくつろげながら、大男が尋ねる。

 

「すまんが、水を一杯もらえるか?」

「はい。水ですね」

 

 ちょうど先ほど汲んだばかりの新鮮な水がある。

 良かった、と思いながら水瓶に手をかけたルカは、少し考えてから男に向き直った。

 

「ただの水ではなく、少し手を加えてもいいですか?」

「ああ」

 

 男は鷹揚に答える。


 ルカはいったん厨房の奥に引っ込むと、またすぐに戻ってきた。

 

「どうぞ」

 

 見た目は普通の水と変わらないが、攪拌したような名残りがある。


 男は器を一気にあおり、カッと目を見開いた。

 

「美味いな! 塩、それに砂糖も入っているのか? それにこの香りは……」

「はい。ごく少量の塩と砂糖です。それに柑橘を絞った汁を加えています」

 

 騎士団の騎士たちが鍛錬後に大量の汗をかいているのを見て、塩分を補えないかと試作したものだった。


 疲れた体に染みわたるような爽快感は騎士団の面々に大好評で、最近では作ったそばから飛ぶようになくなってしまう。


 初対面の人間に出すのは少し緊張したが、美味いと言ってもらえたのでホッとした。

 

「遠くから旅されてきた方には、塩けのあるものがいいと思ったんです。柑橘の酸味は疲れも取ってくれますし、ちょうど良いかと」

「なぜ私が遠方から来たとわかった?」

「その外套です」

 

 ルカは男がまとっている上着を示した。長い毛足を縮絨しゅくじゅうして作られた厚手の外套だ。裏地も起毛で、防寒性に優れた仕立てになっている。

 

「かなり冷え込む季節になってはきましたが、今日は比較的暖かい日ざしに恵まれたので、厚手の上着を着ている方はめずらしいです。失礼ですが、履き物も冬用ですよね。だからもっと北方の、隣国との国境沿いから来たばかりなんじゃないかと思ったんです」

「ふむ……」

 

 顎をおおう黒髭に手を当てて、大男はしばし思案しながら、

 

「ありがとう。美味かったよ」

 

 と豪快に笑った。


 大きな手を振ってきびすを返した大男は、足音も雄々しく、悠々と立ち去っていく。

 

「良かったぁ。喜んでもらえて」

 

 見た目は恐ろしいが、優しい人で良かった──。


 ほっと胸をなでおろしたルカが作業を再開すると、中庭から穀物庫につながる出入り口には、いつの間にかエミールが立っていた。


 男の出ていった方向をぼかんと見つめて、エミールは口をぱくぱくさせている。

 

「エミール? どうしたの?」




 ***




「アレクシア! 戻ったぞ!」

 

 アレクシアは執務室で執事のエッカルトと、城下街に新しく設ける診療所の運営に関して話し合っていた最中だった。


 ノックもなく突然に扉が開いたかと思うと、熊のような大男が厚手の外套をひるがえして、たくましい両腕を広げた。

 

「お父様?」

 

 驚く間もなく、抱きしめられる。アレクシアも背が高い方だが、熊のような大男──父の方がさらに規格外なほど大きい。

 

 この城と土地を統べる辺境伯にして、アレクシアの父。

 ヴィクトル・アレクサンダー・リートベルク。

 

「旦那様!? あと数日ほどでお戻りになるとの報せが、昨日届いたばかりですが……」

 

 エッカルトが片眼鏡のレンズをごしごしと拭きながら尋ねると、ヴィクトルは豪快に笑った。

 

「愛しい娘に会いたくてな。一足先に帰ってきてしまった」

 

 ヴィクトルの愛馬は、リートベルク領の所有する軍馬たちの中でも群を抜いて駿足だ。疾風のように山脈を駆け抜けて帰還してきたのだろう。部下たちを置き去りにして。

 

 少しだけあきれながら、アレクシアも笑む。


 強く抱きしめてくる父の、無精髭が伸び放題に伸びた頬に顔を近づけて、軽くキスをした。

 

「お父様。視察はいかがでしたか?」

「実に有意義だったぞ。積もる話がたくさんある」

 

 ヴィクトルが愛する一人娘との再会に目を細めると、顔に刻まれた古傷も一緒に綻んだ。

 

 山腹から、澄んだ空気が吹き下ろしてくる。


 久方ぶりに主君を迎えたリートベルクの城は、注ぐ陽光も心なしか和らいで、琥珀の色にまどろんでいた。

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