第36話 一時の気の迷いだ

「……っ!」


 ぎゃんぎゃんと怒りすぎたせいだろうか。血圧が急激に上昇したのか、ブリギッタはにわかにめまいを覚えた。


 呼吸が乱れて、足元がよろめく。割れるように痛む頭を押さえた拍子にバランスを崩して、ブリギッタはその場にふらふらと倒れ込んだ。

 

「ブリギッタさん、大丈夫ですか?」


 よろめいた体を壁に打ちつけるよりも早く、誰かが壁とブリギッタとの間に手をさし込んだ。


 マリーがはっと息を飲む。


「……ルカ様……」

「すみません……大きな声が聞こえたので……何かあったのかと……」


 ルカは気まずそうに謝った。


 ブリギッタはふらつく身体を支えられながら、視線をさまよわせる。めまいは収まらなかったが、労わるように肩を抱えられて、近くの椅子まで運ばれた。


 背を優しくさすられるうちに、荒かった呼吸が次第に楽になっていく。

 ──お怪我はありませんか、と心配そうに見上げてくるルカを睨みつけて、ブリギッタははっきりと首を横に振った。


「私は……私は何も間違っていませんからね!」

「はい。間違っていません」

 

 あっさりと肯定されて、ブリギッタの方が面食らった顔をした。

 

「全部、ブリギッタさんの言うとおりです。僕が貴族とは呼べないくらい末端中の末端で、地位も財産も何も持っていないのは事実です」


 目を凝らしても、ルカの表情に怒りは見えなかった。耳を澄ましても、彼の声に不服の色は感じられなかった。


 反発も、異論もなく、ルカはブリギッタの前に膝をついた。小柄な彼女と同じ高さに視線を保って、静かに言う。

 

「ブリギッタさんはアレクシア様をとても大事に思っているのですね。僕もです。僕もアレクシア様には絶対に不幸になってほしくはありません」


 できることなら、自分が幸せにすると言いたかった。

 堂々とアレクシアに結婚を申し込める立場でありたかった。


 だが、親は選べない。

 生まれた家は変えられない。

 流れる血は努力では越えられない。

 

「だから、心配なさらないでください。下賎な者が高貴な方を望んだりはしません。己の分はわきまえています……」


 あっけに取られるブリギッタに、ルカはもう一度頭を下げた。


「ハンスさんを手伝いに、厨房に行ってきます」


 ルカは立ち上がり、黙礼すると、きびすを返して去っていく。

 彼の姿がすっかり見えなくなるまで、一同はそろって石のように硬直していた。

 

「な、何をしおらしいことを……。殊勝なふりをしたって、私は騙されませんからね……」


 ブリギッタはまだ苦々しそうだったが、先ほどまくし立てた勢いは明らかに削がれていた。


 おそるおそる声を上げたのはアレクシアだった。


「こう言ってはなんだが……その、ルカが私を好きだというのは、勘違いだと思っている」

「勘違いですって?」

「ああ。ルカに初めて会ったのは城下の森だった。まだ日暮れには早い時間だったのに、妙に狼が騒いでいる気配がして、数人の騎士とともに森に向かったんだ」


 狼は基本的に夜行性の動物である。夕暮れ時から活動を始めることが多いので、あの日のざわめきは少々異質だった。


 森の中では案の定、狼が群れで狩りをしていた。狙っていた標的は、森に迷い込んだルカだった。

 アレクシアはすかさず持っていた弓をかまえ、矢をつがえ、照準を合わせて狼を射た。

 

「ルカは王都で生まれ育った。野生の狼を見たのは初めてだったはずだ。死と紙一重の恐怖を味わったことで、一時的に感情が高揚しただけなのではないだろうか」


 そんな話を聞いたことがある。


 今にも切れて落下しそうな吊り橋だとか、叩いたら壊れそうな石橋だとか、そういった危険な場所に異性と一緒に立つと、感じる緊張感や恐怖心を相手への恋心だと錯覚してしまうことがある──と。


 ルカは絶体絶命の極限状態にさらされ、死も覚悟したであろう寸前で、アレクシアに命を救われた。

 その時感じた安堵や感謝の思いを、恋や愛と取り違えてしまったのではないだろうか。


 今もまだ、彼の勘違いは続いているのかもしれない。

 だがきっと、じきに目を覚ますはずだ。


「だからルカの言葉をそのまま鵜呑みにしては可哀相だと思っている。いずれ思い込みが解けて、我に返るのだろうから」

「そうでしょうか……?」


 マリーが首をかしげると、アレクシアは軽く笑った。


「私を想い続けるような奇特な男はいない。今までもずっと、そうだっただろう?」


 かつてアレクシアに求婚した令息たちは、全員が早々に挫折した。誰も長くは続かなかった。


 最初こそ胸焼けするような甘い愛の言葉をささやいてきた彼らは、すぐに手のひらを返してアレクシアを野蛮だ粗野だはしたないと非難した。


 勝手にやって来て、勝手に去っていって。

 一方的に求愛され、結婚を迫られて。

 一方的に失望され、貶められて。

 ──いったいなんなのだ、とアレクシアはあきれた。

 

 アレクシアは別に傷ついたわけではない。

 傷つくほど、求婚者たちに心を許したわけではないからだ。


 男という生き物に幻滅した──とまでも言わない。

 ろくでもない男たちを立て続けに見はしたが、だからと言ってすべての男を一緒くたに語れるわけではないことくらい理解している。


 それでも、男に頼らずに生きていこうという思いは強まったし、彼らが語る愛や恋や真心などという言葉はあてにならないものだな──と思ったのは事実だ。


 ルカを過去の令息たちと同一視しているわけでもない。


 ルカ自身は信頼できる人間だと思っているが、それでも彼の寄せてくれる想いは恋ではなく、感謝や恩義に分類されるものではないかと──つまりは勘違いだろうと、そう思っている。

 

 アレクシアは漆黒のかぶりを振って、きっぱりと言った。


自惚うぬぼれる気はない。ルカの感情は一時の気の迷いだ」


 マリーは密かに首をかしげた。


(ルカ様がこの地にいらしてもう何ヵ月も経つのですが……一時の迷いとはもう言えないのでは……)


 一時というには長いだろうとマリーは思うが、口にするとせっかく鎮火していたブリギッタの怒りが再燃してしまいそうなので、黙っておくことにする。


 ブリギッタは長いスカートの裾を整えてから立ち上がると、アレクシアに向き直った。

 

「もう結構。あのよそ者にこれ以上惑わされるのは時間の無駄です。本気だろうと勘違いだろうと関係ありません。お嬢様のお相手にふさわしい身分でないことは確かなのですから」


 ブリギッタの言わんとしていることは察しがついた。アレクシアが幼いころから、耳にたこができるほど聞かされてきた説教だからだ。


「いいですか。お嬢様はこのリートベルクの後継者。必ずご結婚なさらなくてはいけません! 辺境伯の使命を理解し、地位と血統と人格を兼ねそなえ、お嬢様を公私ともに支えるご夫君を、必ずやお迎えになるのですよ!」


 怒涛のような勢いで言い切ったブリギッタは、さらに念を押した。


「断じて、あのよそ者などではなく、ですからね!」

「……う、うん……」


 アレクシアはいずれ父の後継として、辺境伯の地位に就く運命にある。

 絶対に結婚しなければならない立場だと承知しながらも、過去の令息たちの件もあってなかなか積極的に進める気にはなれず、これまでは持ち込まれた縁談ものらりくらりと避け続けてきた。


 現辺境伯である父が色よい顔をしなかったこともあるが、要するにアレクシア自身も色恋沙汰に興味がないのだ。


 城内の一部屋にはこれまでアレクシアへと送られてきたパーティーの招待状や求婚状、見合い相手の釣り書きが、封も開けていない状態でどっさりと山積みになっている。


「……もっともお嬢様のご結婚の前には、最大の難関がありますが」

「ええ。もうお一人、絶対に乗り越えなくてはならない壁がありますわね……」


 エヴァルトがぽつりと言いかけ、マリーが遠い目をした時だった。


「お嬢様、よろしいですか?」


 いつになく急いた様子で、エッカルトが部屋に入ってきた。エヴァルトの父親で、リートベルク城の執事だ。


「たった今、早馬が参りました」


 エッカルトがさし出したのは、小さな棒状の筒に入った手紙だった。


 伝令に使われる通信筒だ。封緘ふうかんられた紋章は、この城に掲揚された旗と同じもの。


「旦那様──リートベルク辺境伯のご帰還です」

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