第6話 ルカの出生

 ヴァルテン男爵夫人ヘルミーネは、息を吐くように蔑んだ。


「ルカ、汚らわしい平民の血を引くあなたなんて、誰からも愛されるはずがないのよ」


 ルカたちの父アウグストは若い頃、身分違いの恋に耽溺したのだという。


 若き日のアウグストは気まぐれで平民たちの暮らす下町に降り、町角の花屋で働いていた若い娘を見初めた。


 明るいハニーブロンドの髪に、くるくると変わる天真爛漫な表情。駆け引きめいた貴族の会話とは違う裏表のない素直な言葉と、無垢な笑顔。

 アウグストが彼女に魅せられるまで、時間はかからなかった。

 

 アウグストは彼女の働く店に通いつめ、熱心に口説き、金貨を積んで、半ば強引に迫った。


 囲われた町娘は、やがてアウグストの子を身ごもった。


 アウグストは喜び、母子が生活できるだけの充分な金を貢ぎ、彼女のために買ってやった家へと足しげく通った。

 

 後から思えば、無垢な平民の娘と身分違いの恋を楽しみ、ままごとのような甘い蜜月を過ごしたこの時期が、アウグストにとって人生でもっとも無邪気に浮かれた、青春のごとき日々だったのかもしれない。


 月満ちて男の子が生まれ、二人は手を取り合って喜んだ。


 母親と同じ明るいハニーブロンドを受け継いだその子供は、希望を込めて″ルカ″と名付けられた。

 

 しかし母になったばかりの若い娘はほどなくして、産褥熱に苦しんだ。敗血症を引き起こして重篤となり、そのままあっけなく息を引き取ってしまったという。


 高熱に浮かされて朦朧もうろうとする中、彼女はアウグストの手を取って懸命に頼んだ。


 ──どうかこの子をお願いします。私の分まで守ってください──。


 アウグストはしっかりと彼女の手をにぎり返し、もちろんだと約束した。子供は自分が引き取り、大切に育てる──と。


 彼女は最後まで、アウグストが貴族だとさえ知ることなく亡くなった。


 そして、アウグストは生後間もないルカをヴァルテン男爵邸に連れ帰ったのだ。


 アウグストの母である先代の男爵夫人は、孫だという嬰児えいじに突然引き会わされ、卒倒するほど驚いた。


 息子が頻繁に屋敷を抜け出ていることは知っていたものの、若者にありがちな息抜きなのだろう、と大目に見ていた。


 まさか市井の女を孕ませた上に、子はすでに誕生しているとは。

 さらに相手の女は亡くなっていて、子を引き取ることもできないとは。


 何もかもが青天の霹靂へきれきで、平素は物静かな男爵夫人も大いに狼狽した。


 貴族に限って言えば、婚外恋愛を楽しむ風潮はある。名門といわれる貴族の男たちの中にも、私生児の一人や二人はいる者がめずらしくない。


 しかしそれは貴族出身の妻との間に正当な跡取りを得た上での、割り切った遊びであることがほとんどで、まだ独身の若者が子供だけを引き取ることなどめったにない。


 だが、アウグストは未婚で子持ちになってしまった。


 すでに子供がいる以上、一刻も早く正式な妻を迎えて身を固めなくては――と焦った先代の男爵夫人は、息子の伴侶となる女性を探し求めた。


 そこでとある知人から紹介されたのが、シェンバッハ伯爵家の末娘ヘルミーネとの縁談だったのだ。


 この時の決断については、男爵夫人は焦るあまりに外れくじを引いたのだ──と後に幾度となくささやかれることになる。


 ヘルミーネは高慢な性格で、侍女や使用人たちにも当たりがきついと評判だった。

 悪い噂は良い噂よりも数倍速く出回るもの。悪評つきまとうヘルミーネには、適齢期を過ぎてもなかなか嫁ぎ先が見つからずにいた。


 しかし、わけありなのはヴァルテン家も同様。


 俊巡しゅんじゅんしている間にも赤子は日ごとに育っていくというのに、贅沢を言ってはいられない。

 

 ヘルミーネの実家である伯爵家の方も、風聞が悪く悩みの種だった娘を体よく嫁がせられるのならば、願ってもないようだった。


 男爵家の地位は高くないが、ヴァルテン家は富裕なことで有名だ。ともすれば行き遅れそうだったヘルミーネにとっても、男爵家の女主人になれるのであれば悪い話ではない。

 

 そうして両家の利害が一致し、アウグストとヘルミーネの縁組が成立した。


 見合いの打診から婚約の成立、挙式の日までおよそ四ヶ月。貴族の結婚としては異例の速さだった。

 

 ヘルミーネが嫁ぐ日、実家に仕える使用人たちは一列に並んで花を撒きながら「お嬢様、どうかお幸せに!」「末永く睦まじく過ごされ、決してお戻りになりませんように!」と満面の笑顔で喝采を送ったという。さぞかし嫌わ……慕われていたのだろう。


 ヘルミーネは婚姻と同時に、まだ生後半年にも満たなかったルカの継母になったわけだが、予想に反して優しく思いやりのある慈母にな……るわけがなかった。


 ヘルミーネは新婚の夫がすでに子持ちであることに不満たらたらで、不服な態度を隠そうともしなかった。


 折に触れては夫や使用人たちに嫌味をぶつけ、コブ付きの家に嫁いでやったのだからありがたく思え、と感謝を強要した。


 それでもルカが追い出されることがなかったのは祖母、ヘルミーネにとって義母にあたる先代の男爵夫人が孫をかばったからだ。


 ヘルミーネとしても離縁して実家に出戻るような事態は避けたかったのだろう。ルカが男爵家に留まることをしぶしぶ了承した。


 結婚からほどなくして、ヘルミーネは実子を懐妊した。

 そして翌年に男の子が生まれた。


 マティアスと名付けられたルカの弟は、生まれた時から目鼻立ちの整った、美しい子供だった。


 燦々と輝く金色の髪と、ヘルミーネに似た緑の目。人目を惹く華やかな容姿を生母のヘルミーネは大層誇り、溺愛と言っていいほどマティアスを猫可愛がりした。


 弟の誕生により、もともと微妙だったルカの立場はさらに苦しくなった。


 ルカは正式にヴァルテン男爵家の戸籍に入っていたので、間違いなく父の長男であったのだが、ヘルミーネはしばしばマティアスを長男として扱い、男爵家の跡継ぎだと公言した。


 ルカが庶出であり、マティアスが嫡出であるのは事実。しかし長幼の事実も変えられない。

 どんなに婚外子と蔑もうが、ルカの方が年齢は上だ。


 だが、ヘルミーネはルカへの差別的な態度を改めるよう求められても「旦那様の長子であっても、私の長子ではありませんわ!」と拒み、「私にとっての長男は可愛いマティアスだけです!」と言い張って譲らなかった。


 かたくなな態度が軟化することはなく、ヘルミーネはルカを家族として認めなかった。


 ヴァルテンの姓を名乗ることまでは彼女にも防げなかったものの、共に食卓を囲むこともなく、団欒だんらんに混ざることも許さず、貴族の子弟なら当然つけるはずの家庭教師も許さなかった。


 ヘルミーネは屋敷内でルカを見るたびに、不愉快そうに眉を吊り上げ、「この泥棒猫!」と悪しざまに罵った。


 泥棒猫も何も、ルカが生まれたのはヘルミーネが結婚はおろか婚約するよりも前のことだ。すでに故人であるルカの母と一度も面識はないし、名前さえ知らない。


 しかし、ヘルミーネは自分の夫がかつてルカの母を愛したという過去にひどく激昂し、憤慨した。


 身分をわきまえない泥棒猫、と呼んではばからず、早世したのも当然の報いだ、平民の分際で貴族を誘惑した罰が当たったのだ──と憎々しげに吐き捨てた。


 夫のアウグストはというと、そんなヘルミーネに意見していたのはごく最初のうちだけだった。

 

 ヘルミーネは一を注意されれば十倍にして噛みついてくるし、あることないことを針小棒大にふくらませて怒り返してくる。


 そんな妻にアウグストが疲弊し、神経をすり減らし、ついには何も止めようとしなくなるまで、時間はかからなかった。


 ルカが物心ついた時にはもう父は寡黙で物静かで継母の言いなりで、家長でありながら存在感のない、幽霊のような人だった。


 アウグストは確かにいっとき、ルカの母を愛したはずだった。


 だが、熱に浮かされたように燃えあがった若い恋は、愛した人が目の前からいなくなると、急速に冷めていったらしい。


 ルカが継母に折檻されようが、食事を抜かれようが、部屋や持ち物やすべてにおいて弟と露骨に差別されていようが、アウグストはもはや何も言わなかった。


 ヘルミーネのようにマティアスだけを偏愛することもないが、かといってルカの肩を持つこともない。


 まるでアウグストは妻に何かを言うことをあきらめた時に、我が子に対する感情も同時に失ってしまったかのようだった。


 もはや二人の息子どちらにも興味を示さず、口出しもせず、アウグストは屋敷内で起こる一切合切に見てみぬふりをして、沈黙を貫いた。


 その無関心な態度は、今この場に至っても変わらない。


 ルカが継母にガラスの瓶を投げつけられても、役立たずと罵倒されても、アウグストはしわの寄った眉間に手を当てて、黙々とたたずんでいるだけだった。


 ヘルミーネに同調もしないが、盾となってルカをかばうこともしない。


 もしや目の前にいる父は自分にしか見えていない亡霊なのではないかと思ってしまうほど、黙りこんだアウグストは壁と一体化していた。

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