第5話 ヴァルテン男爵家
ルカが家に帰りついた時には、すでに夕暮れの時刻が迫っていた。
ヴァルテン家の有する屋敷は、
紫雲の切れ端をまとって広がる城下町が、黄昏を受けて茜色に染まっていく。ひときわ大きなシルエットを描く男爵家の邸宅が、暮れなずむ夕景の中に傲然と浮かび上がる。
(……父上はどうされるだろうか)
兄の婚約者が弟の婚約者になる。当人たちは愛し合っているのだから何の問題もないと思っているのだろうが、話はそう単純ではない。
ルカからマティアスに婚約者が変わることで、ヴァルテン男爵家とクレーフェ伯爵家との関係が紛糾するであろうことは、簡単に予想がついた。
むしろなぜその点を危惧せずに浮かれていられるのか、マティアスとナターリアの今後が不安になるほどだ。
(いや……父上は何もおっしゃらないだろうな。いつものように……)
父はおそらく沈黙を決め込むだろう、と予感して、ルカは再び痛む頭に手をやった。
ペルレス王国における貴族の地位は四等級ある。上から公爵、侯爵、伯爵、そして男爵である。
外国には伯爵と男爵の間に「子爵」という地位を加えて五等級とする国もあるらしいが、世界的に見れば、貴族階級は四つである国の方が多い。
例外はあるが、国内における伯爵以上の貴族は主に建国以前からの功臣や有力な諸侯で占められており、男爵は新興の貴族であることがほとんどだ。ヴァルテン家も例に洩れず、近年になって台頭した一族だった。
ヴァルテン男爵家は、商家の出である。
薬種問屋を手がけて繁盛し、やがて流通や金融など手広く事業を営んでいずれも成功を収め、国内でも屈指の大商会として名を馳せた。
莫大な財産を築いたヴァルテン家は、王家に多大な寄付を捧げ、教会にも惜しみない寄進を重ねて、着々と地固めに励んできた。
叙爵の決め手となったのは数十年前、隣国との間に長く続いた紛争が和平調停を結ぶことでようやく終結した時だった。
破綻寸前だった王家の財政は、ヴァルテン商会からの積極的な支援を受けて、かろうじて
長年に渡る王国への経済補填の功績が認められたヴァルテン一族は、晴れて貴族の仲間入りを果たすこととなった。
富はうなるほどあったが、由緒正しい貴族ではなく平民の出で、地位は低い。
となれば、己に欠けたものを結婚相手に求めて補おうとするのは必定だ。
ヴァルテン家の先々代当主も先代当主も、上位貴族の令嬢との縁談を首尾よくまとめ、貴族としての血を濃くしてきた。
現在の当主夫人も、歴史ある伯爵家から嫁いできた女性である。
その夫人こそが、ルカのこの頭痛の原因でもあるのだが──。
「……戻りました」
出迎える者もいない扉を自分で開けて、ホールに足を踏み入れた時だった。
頭上から名前を呼ばれて、ルカはびくっと立ち止まった。
「ルカ」
階段の手すりに腕を置いて、くすんだアッシュブロンドの髪の男がルカを見下ろしている。
ルカとマティアスの父。ヴァルテン男爵家の現当主であるアウグストだ。
「父上……」
「早く来い」
アウグストは疲労のにじむ顔を伏せて、短く命じた。最近さらに白いものの多くなった髪が、ひとふさ乱れて額に落ちる。
「話があるそうだ」
話がある、のではなく、話があるそうだ、とアウグストは言った。彼からではなく別の人間からの話ということだろう。
予想はついていたし、逆らうことは許されない。
ルカは従順に父の後に続き、その人の私室を訪ねると、わざと数秒待ってから入室した。
「失礼します。奥様」
慎重に身構えていたのは正解だった。
部屋に入るやいなや視界の端が光ったかと思うと、次の瞬間、何かがルカのすぐ横の壁に衝突して粉々に破裂したからだ。
「この役立たず!」
罵る声と同時に、濃厚な
どうやら投げつけられたのは香水の入ったガラスの瓶だったらしい。すれすれのところでかわせたが、あと一歩早く入室していたらまともに顔面にぶつかっていただろう。
「クレーフェ伯爵令嬢から婚約破棄されたそうね! 婚約者ひとり捕まえておけないなんて、役立たずにも程があるわ!」
居丈高になじったのはヴァルテン男爵夫人のヘルミーネだ。アウグストの妻で、マティアスの母である。
「申し訳ありません、奥様」
ルカは殊勝に謝った。
口答えすればもっと面倒なことになるのはわかりきっていたし、ヘルミーネはただルカを貶めたいだけであって、本気でルカが婚約破棄されたことに怒っているわけではないのも読めていた。
その証拠に、ひとしきり怒鳴って罵ったら、ヘルミーネの顔は嵐が去った翌日のようにすっきりと晴れてくる。
ヘルミーネはルカの結婚が破談となったことを口惜しく思ってなどいない。むしろご満悦なのだ。
なぜなら、ルカを捨てた婚約者が選んだのはマティアスなのだから。
「まぁ、あなたなどよりもマティアスに惹かれるのは当たり前ですものね。クレーフェ伯爵令嬢の目は確かだわ」
ヘルミーネは当然と言わんばかりに言い放つ。
扇で隠した口元がくすくすと笑っているのが、透けて見えるようだった。
「何しろあなたには、卑しい平民の血が流れているのですから」
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