第2話 末端令息は婚約破棄される


 高い天井が美しい穹窿きゅうりゅうを描いている。


 王冠を模した形のシャンデリアが燦爛と輝き、大広間を明るく照らしていた。

 きらびやかな漆喰細工の壁に灯るのは、真鍮製の飾り燭台。

 色硝子の装飾がゆらゆらと揺れて、星が流れるかのような幻想的な光を投げ落とす中。

 

「ルカ・ヴァルテン! あなたとの婚約を破棄します!」


 名指しされたルカは、ただ茫然と立ちすくむしかなかった。


「……婚約破棄……?」


 ルカはヴァルテン男爵家の長男である。他の若い令息たちと同様、家同士の合意によって貴族の令嬢と婚約を結び、本日のパーティーにも婚約者をエスコートして参加した。


 しかし生涯を共にすると誓ったはずの婚約者は、きらびやかなホールの中央に立った時、突然ルカの手を振り払い、押しのけて、指を突きつけた。

 そして、冒頭の言葉を放ったのだ。


「ええ、そうよ」


 まるで正義の判決を言い渡す判事のように、毅然とルカを睨んでいるのはナターリア・ハンナ・クレーフェ。クレーフェ伯爵家の長女で、ルカの婚約者だ。

 

 入念に巻かれたストロベリーブロンドの髪。長いまつ毛にふち取られた若草色の瞳。華奢で可憐なナターリアはまるで砂糖菓子のように愛くるしい令嬢だが、この日のために気合いを入れた化粧はやや濃い。


「理由はもちろんわかっているわね?」

「いや……全然……」

 

 かぶりを振るルカに、とぼけないで、と怒って、ナターリアはまなじりを吊り上げた。


 周囲の貴族たちが何事かとざわめきながら、二人に注目している。


「あなたの悪事はすべて聞かせてもらったわ!」

「悪事?」


 ルカがきょとんとくりかえした時だった。


 遠巻きに見守っていた他の貴族たちの中から、一人の男が颯爽と進み出た。


「……マティアス?」


 目を丸くするルカを見下ろして、さも得意げに笑んだ長身の青年は、マティアス・アウグスト・ヴァルテンだった。

 ヴァルテン男爵の次男で、ルカの年子の弟である。


 雄々しい体格に、俳優のような甘いマスク。

 ハンサムな貴公子として人気を博しているマティアスは、ナターリアのとなりに並ぶと、さも当然のように彼女の肩を抱いた。


「ルカ、私は今ここにあなたとの婚約を破棄し、マティアスと新たな婚約を結ぶことを宣言します!」


 マティアスと手と手を取り合い、ナターリアは高らかに宣言する。

 再びルカを睨めつけて、責めるように言った。


「あなたは長男であることを盾にして威張り、自分は目上なのだから敬えと、いつもマティアスを虐めていたそうね」

「虐めていた? 僕が?」

「大切な私物を捨てたり、食事を台無しにしたり、階段から突き落としたり……信じられないわ! それが血のつながった兄弟のすることなの?」

「いや、それは全部……」


 僕がされた側だけれど、とルカが言いかけた言葉は、ナターリアに遮られた。


「家族の輪に入れないのは日常茶飯事、些細なことで難癖をつけて暴力をふるうこともめずらしくなかったそうね。酷すぎるわ! 可哀想なマティアス……」

「ああ、ナターリア。君はなんて心優しいんだ」

「マティアスはあなたの非道な仕打ちにけなげに耐えていたけれど、私にだけ真実を打ち明けてくれたの」


 ──私はいいのだ。兄の横暴にも甘んじて耐えよう。だがあなたのような美しい女性が兄に騙され、兄の本性を知らずに結婚して苦しむのを見過ごすことはできない──。


 ナターリアに近づいてきたマティアスはそう苦しげに吐露し、続けて愛をささやいた。


 ──私の身などどうなってもいい。ただあなたを救いたい。許されない恋と知っていながらあなたを愛してしまった、愚かな私を笑ってほしい。ナターリア。


「なんて勇気のある行動なのかしら……。そんなにも私のことを気遣ってくれる彼の思いやりに、心を打たれたわ」


 ナターリアはとろけそうな目で、マティアスを見上げる。


「あの真剣な瞳を見た時に、本物の愛に気がついたの。私の運命の人はマティ、あなたなのだと……」


 マティと愛称で呼ぶナターリア。いつの間にそんなに親しくなったのか。


「ナターリア……」

「マティ……」


 うっとりと見つめ合う二人は、完全に自分たちの世界に没入している。


 マティアスは勝ち誇った顔でルカを見返した。


「兄上。もう言い逃れはできません。潔く罪を認めてください」

「罪って……」

「ナターリアは私を愛しているのです。これまでの悪行を悔い改め、ナターリアを不幸な婚約から解放してください」


 マティアスのハンサムな顔つきに、隠しきれない優越感がにじんでいる。


 弟を虐げ、悪辣な本性を隠して婚約者を騙そうとした悪役令息。


 そんなシナリオはすでに上梓じょうしされ、今この場で上演されているのだと。ルカが何を言いつくろったところで、もはや覆すことはできないのだと、そう言外に告げているかのようだった。


「ナターリア、僕の話を……」

「言い訳はやめて! この期に及んでシラを切るなんて、本当に男らしくないのね!」


 せめて話し合おうとしたが、無駄だった。


 ナターリアは聞く耳を持たず、声高にルカをなじる。


「男らしくない……?」

「ええ」


 ナターリアの桜桃のような愛らしい唇が、嘲りの形に歪んだ。


「ルカ、あなたは“末端令息”ですもの。地位もなければ頼りがいもない人なんて、男らしさを感じられないわ」


 「末端令息」はルカに対してささやかれる陰口だ。いや、本人の前だろうと遠慮なく叩かれるのだから、もはや陰口ですらないかもしれない。


 ヴァルテン家の爵位は、貴族の中でもっとも下の男爵。さらにルカは父の私生児で、母は平民。


 一番低い地位の、さらに身分の低い出自の子。

 貴族社会において最下層といっていい立場にあるルカは、いつからか「末端令息」と揶揄されるようになっていた。


 ナターリアの残酷な通告に、三人を取り囲んでいた貴族たちはくすくすと嘲笑を漏らした。


 ナターリアはさらに駄目押しを重ねる。


「その点、マティアスは背も高くてハンサムで、あなたよりずっと男らしいわ──」


 ヴァルテン家の兄弟は、年齢はルカの方が上だが、マティアスの方が身長が高く、体格も大きい。


 ルカは童顔で、数歳も年下に見えるほど痩せているが、マティアスは肩幅が広くがっしりとしていて、実年齢よりも大人びて見える。

 

 この国では、男性は身長の高い方が好ましいとされている。背の低い男は蔑まれる傾向にあり、平たく言えば人権がない。


 女性は逆に小柄で華奢で、慎ましく淑やかであることが美徳とされる。


 男は強くて勇ましくて雄々しくあるもの、女はか弱くてたおやかで男に守られるものというのが、上流階級に根強くはびこる価値観だった。


 平均よりも低い身長と、筋肉質とは言いがたい貧相な体型のルカは、男らしさという魅力では底辺の部類なのだ。


「殿方は長身な方がいいに決まっているもの。自分とさほど背丈の変わらない相手なんて、願い下げよ」


 ナターリアはうっとりとマティアスの胸に顔をもたれる。


 そんなたくましい胸筋を誇る恋人が、身長でも体格でも劣る貧弱なルカに虐められるのは無理があるのではないかなど、疑いすらもしていない様子だ。

 

「……わかった。婚約破棄は受け入れる」


 ──もう何を言っても無駄だ、とルカは察する。


 ナターリアが高身長の男に魅力を感じるのは本人の自由だ。だからといって、この場で自由自在に背を伸ばせるはずもない。

 ナターリアにとって自分が好みではないというなら、これ以上ルカには何もできない。

 

 ルカは胸に手を添えた。

 やるせない無力感がこみ上げたが、せめてもの矜持きょうじで背を張り、はっきりと告げる。


「クレーフェ伯爵令嬢。マティアスと幸せに」


 釈然としない気持ちを推し殺して、ルカは二人を祝福した。


 その言葉が、まるで白旗を上げたかのように見えたのだろう。

 成敗された悪役令息が罪を認め、しっぽを巻いてすごすごと屈する、敗北のシーン。


 目撃した貴族たちの目にはそんな風に映ったらしい。雪崩を打つように、わあっと大きな歓声が沸き起こった。


「クレーフェ嬢! ご婚約おめでとうございます!」

「まるでお芝居の一幕のようでした!」

「なんて情熱的な愛……お二人の絆に感動しましたわ!」

 

 若い令嬢たちが、興奮冷めやらぬ様子でどっと押し寄せてくる。


 恋物語に憧れる年頃の少女たちにとって、ハンサムな男爵令息と可憐な伯爵令嬢のカップルは、あたかも劇場で上演される舞台の主役のような美男美女に見えたようだ。


 マティアスがさらにナターリアを強く抱き寄せ、二人ではにかみながら聴衆に手を振ると、熱狂の声がさらに甲高くなった。


(なんだ、これ……)


 反論する気力も失って、ルカは唖然とした。


 弟と婚約者に裏切られたショックよりも、自分はいったい何を見せられているんだ──と困惑する気持ちの方が大きかった。

 

 婚約を破棄したいなら、それでもかまわない。だが順序というものがあるだろう。


 ナターリアとルカの婚約は、クレーフェ伯爵家とヴァルテン男爵家の間で取り決められたもの。破談にするのなら、お互いの父親たちを交えて手続きを進めるべきであって、王宮のような公的な場で華々しく発表するような話ではない。

 単に場違いだというだけでなく、王家に対して不敬ですらある。


 ──二人ともいったい何を考えているんだ、とルカは頭を抱えた。まさか、何も考えていないのだろうか……。

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