10years

川本 薫

第1話

 僕、村木雅人(むらき まさと)、人生初の浮気をしたのは8月の第三日曜日だった。

「じゃあ、私、彼氏のとこ、帰るから」

 シャワーを浴びて浴室から出てきた真弓は僕にそう言った。

「彼氏? 」

「そう彼氏」

「僕のことが『好き』っていうのは嘘? それとも下手だった? 」 

「そんなこと言わなきゃいけませんか? そもそも、ランチ食べようって誘ったのは先輩ですよ。先輩こそ、私のこと、好きなんでしょ? 深澄先輩と付き合ってるのに誘ってきた先輩が私のこと責められますか? 」

 さっきまで僕の体にまとわりついていた唇から出る言葉に感情はなかった。ゴミ箱の中のくしゃくしゃのティシュと僕の身体にまだまとわりつく真弓の汗と唾液だけが嘘じゃないことを証明していた。

 僕はそのままTシャツを着た。

「シャワー浴びないんですか? 」

「どうせ、浴びたってベチャベチャのTシャツ着るだけだから」

「じゃあ、出ましょうか? 」


 冷房が効きすぎたホテルから出ると外は三伏だった。さっきシャワーを浴びた真弓の額からも汗が流れていた。ハンカチで額を押さえる姿に思わず腕をつかんだ。

「だから、そういうのじゃないんです。へんな誤解しないでくれますか? 」

 さっき僕が体を抱きしめた腕をこんなふうに振り払えるんだとびっくりするほどの力だった。


「じゃあ、私は大通りに出てタクシーに乗るんで」

 僕は無言で真弓がタクシーに乗る姿を見送った。そしてホテル横の脇道に入ってTシャツの胸ポケットからスマホをとりだした。画面には、まだ既読をつけてない黒猫のアイコンとその横に『さよなら』の4文字だけ表示されてる。


「なぁ、雅人、後輩の真弓とさ、この間、飲んだとき、『雅人先輩のこと大好きだから』って真弓がさ、言っとったで」

 暇つぶしに入ったゲームセンターで同級生の晴哉から声をかけられて真弓の携帯番号を教えられた。僕は一瞬、ドキッとした。川上真弓、学年が違えど、その可愛さクラッシャーで校内では有名だった。僕は最初、クラッシャーの意味がわからず、晴哉に聞いた。

「真弓の噂のクラッシャーってどういうこと? 」

「かき乱すってことだよ。友情も恋愛も、真弓に関わる人たちをな。でも、可愛いからな」

「まあ、あの可愛さだもんな。芸能事務所からスカウトされたとか、ミュージャンの愛人だとか、どこまでが本当なんだか……」

 他人事のように学生の頃、話していた後輩の真弓が、このなんの変哲もない地味キャラの僕を好きになるなんておかしなことだとは思わなかった。バレンタインのチョコもラブレターの数も晴哉に言うと、冷やかしにあうから言わなかったし僕は付き合っては別れる大人になりたくないと思っていた。僕は浮気ではなく真弓と本気で付き合うつもりだった。だから、今朝、彼女の深澄(みすみ)に『真弓が好きなんだ、ごめん』その一言だけをラインした。まさか、真弓に彼氏がいるなんて思ってもみなかった。僕とした後で彼氏のところへ帰るからとあっさりと言える真弓にぞっとした。さっきまで真弓といたホテルを見上げた。今だってこのホテルの中では、体を重ねてあえぎ声を出してる人たちがいる。真面目に働いてたどり着くところがここなのか? 壁についた薄汚れたシミの汚さが僕と重なって慌てて川沿いへと続く階段を登った。


 部活帰りだろうか、半袖の体操服を着てきる汗だくの学生たちとすれ違う。

「映画、何時からだっけ? 」

「お金、いくらぐらい持っていけばいい?  」

 聞こえてくる会話が僕の心をゆっくりと爪弾いた。僕は鞄の中に入れていた深澄の部屋の鍵を思い出した。返さなきゃ。並木通りにある深澄が働くセレクトショップへと歩いた。彼女の深澄とは高校でクラスが一緒だった。時々、席が隣になって、『悪い、コンパス貸して』忘れた文具を貸してもらうぐらいの会話しか記憶にない。付き合うきっかけになったのは、卒業して深澄が僕の好きなセレクトショップで働きはじめたからだ。それまで制服でしか見たことなかった深澄は、シャツを襟抜きで着る着方やデニムの腰履き、僕の好みの着こなしだった。少しずつ店で服の話をするようになって、深澄の仕事終わり、ほんの少し街中のバーで飲むようになったりした。僕の話を『うん、うん』って黙って聞いてくれる深澄が物足りなくなっていったのは、晴哉から真弓の気持ちを聞かされてからだった。何かあるごとに心のなかで美化された真弓と目の前の深澄を無意識に比べてしまう。そしてこの若さという欲に真弓と寝てみたい、一番最低で僕が嫌いだった大人の僕がそこにはいた。


「村木さま、いらっしゃいませ」

 店をのぞくと店長がすぐさま気づいて外に出てきた。何か聞いていたのだろうか? 僕が店内に入ると服を畳んでいた深澄の肩を叩いてバックヤードへと入っていった。他に客はいない。

「いらっしゃいませ」

「ごめん。これ返しとく」

「ああ」

 深澄はそれ以上のことは言わず、鍵を受け取ると腰につけていたウエストポーチの中に入れた。

「突然でごめん」

「いいよ、わかってたことだから」

「わかってた? 」

「そう。真弓のね、彼は晴哉。晴哉は変な性癖でね、真弓が他の人に抱かれることで興奮するの。だから、手っ取り早く身近な友達を餌にしては、縁を切られて、とうとう残った友達は雅人だけ。だから雅人にも同じ手を使うはずって色んな人から忠告されてた。それでもね、信じてたんだ。簡単に崩れたけど」

 深澄はまっすぐ、僕の目を見た。

「生きているとたくさんのどうしようもないことがある。雅人とは、それを乗り越えていけなんだってわかったよ。でも、ありがとね」

 深澄はそう言いながら、外に出るように僕の背中を押した。深澄にさよならもありがとうも言えなかった。


♪ピロロロロ


「雅人、晩ご飯はいるの? いらないの? 」

 こんな息子の失態を知らない母からの電話だった。

「もうすぐ帰宅するから。それより、母さん、何か買ってきてほしいものある? 今、街中だから」

「じゃあ、食パン買ってきて。6枚切りよ」

「わかった」

 僕は通話終了ボタンを押してパン屋に寄って6枚切りの食パンを買った。店を出て目の前の信号が赤に変わろうとしていた。いつもだったら、走っていた。青になる前に渡れる自信満々だった。でも、僕の今はだめだ。青に変わってもしばらく立ちすくんでいた。6枚切りの食パンだけを手に持って僕が考えていることは傷つけた深澄のことでもなく母のことでもなく僕の体に全体重をかけて重なってきた真弓の体のことだった。そして、思い出した、真弓がシャワーを浴びてる時、目についたテーブルの上のジェンガのことを。僕が積み重ねて、そして、崩したのはなんだったのだろう? 8月の第3日曜日の夕暮れに横断歩道を歩きながら僕はそう誰よりも自分のことだけを考えていた。

 僕が深澄の心につけた傷の深さも知らずに深澄の体の変化も知らずに僕の8月の第3日曜日はもうすぐ暮れてゆく。


*****


「雅人、彼女とか友達と遊ぶとか予定はないの? お盆休みでもずっと家にいて、ちょっと心配になってくるわ」

「はいはい、そんなに心配なら、今日はでかけます。母さん、お土産はパンでいい? 」

「どうせ、ゲームセンターでしょ? たまには、食パンじゃなくて、そうね、鯛焼きでも買ってきて」

 僕はもう30歳になったというのに実家にいてお盆休みが一週間あっても墓参り以外の予定がなかった。荷物の仕分けという単純作業の仕事だけは自分に合ってて辞めたいとか思わないだけでも僕は幸せなのかもしれない──と自分に言い聞かせていた。それでも時々、20歳の頃の夏を思い出しては胸がしめつけられた。後輩の真弓に夢中になって彼女の深澄を傷つけた。馬鹿みたいに騙されていたことも知らずに本気になった自分に怒りが沸騰して、それでも真弓の体が忘れられなくて、最低の自分を嫌というほど知った夏だった。そこには深澄への愛情なんてひと欠片もなかった。


 だけど深澄と別れてからの年月が積み重なるたび、まるでどこかから穴が開いていたみたいに、僕の中に深澄が滲んできた。その滲んだものは、あの日、僕の体に重なってきた真弓よりもはるかに重くずっしりと。その重さは誰かと付き合う気力さえ僕から奪った。

 真弓に騙されていたことを知った僕はあの夜、同級生たちのグループラインから抜けた。もちろん、彼女だった深澄のラインもブロックした。誰とも連絡をとらないようにしていた僕が真弓の近況を知ったのは、母の言葉だった。それは僕が25歳の夏だった。仕事が終わって帰宅した夜、母が僕から目をそらすように聞いてきた。

「ねぇ、言いにくいんだけど、須浜晴哉くんって雅人の友達じゃなかった? 」

「なに? 急にどうして? 」

「夕方のね、ローカルニュースで奥さんの真弓さんって人と詐欺で逮捕されたって。ほらっ、よくある物干しを田舎のおばあちゃんたちに高額な値段で売るみたいな」

 僕は慌ててスマホで晴哉の名前を検索した。母が言うように本当に逮捕されてニュースになっていた。同じ名字の真弓も。ざまあみろとか、そういう気持ちじゃなくて、僕にはどうすることもできない、僕が知ることのない世界があるんだと思った。真弓はあんな晴哉でも、晴哉も誰とでも寝る真弓でも、それでも夫婦になったんだと。


「母さん、じゃあ、ぶらぶらしてくるから。晩御飯までには帰宅するから」

「はいはい、気をつけて。あっそうだ、お父さん、少し腰が痛いようだから、ショコラの夕方の散歩は雅人、お願いね」

「りょ」

 僕は街中まで歩いた。相変わらず陽射しが強い。川沿いを通ると真弓と入ったホテルが今でもあった。本当はこんなくそ暑い中、出かけたくはなかった。だけど家にいるのも気が滅入ってゲームセンターで時間を潰すことにした。


「母さん、これ無理。店員さん、呼んでよ、置き換えてもらうから」

「海斗、店員さん呼ぶのもQRコードよ? 」

 僕がとろうとしていた、転スラのフィギュアの前で何やら親子が話していた。後ろで待っていたら

「母さん、後ろにいるお兄さん、なんだか僕に似てない? 」

 急に男の子が振り向いて僕の顔を見た。そして、その声に僕を見ようと振り向いたお母さんの顔を見て僕は震えた。深澄──。


「何を言ってるの? 海斗」

 僕の顔を見た深澄も顔色を変えた。

「海斗、知らない人へ向けて、失礼なこと言わないのよ。さあ、店員さん呼ぼっか」

 深澄は僕に背を向けてリュックからスマホを取り出しQRコードを読み取ろうとしていた。

「よかったら、僕がとります。僕ならとれるから」

「お兄さん、まじ? 」

「ああ、まじ」

「じゃあ、母さん、僕の小銭を渡してよ」

「海斗、店員さんを呼びましょう」

「嫌だって。お兄さんがとってくれるんだから、早くお兄さんに小銭渡して」

「海斗くん? いいよ。僕が出すから」

僕は財布から100円玉、6枚とりだした。

「このタイプはね、箱が横になるようにして、横になったとき、アームで上から押さえるようにすると落ちるんだよ」

 僕は海斗くんに説明しながら、400円でフィギュアをとった。その間、ずっと深澄はただフィギュアの箱を見ていた。

「お兄さん、すげぇや。ねぇ、上の階のワンピースのフィギュアもとれる? 」

「多分」

「海斗、いい加減にしなさい。あれほど言ってるでしょ? 知らない人と仲良くしない、って」

「ご、ごめんなさい。お兄さんもごめんなさい」

「さぁ、帰ろう」

 深澄は僕の顔を見ることなく、軽く頭だけを下げた。

「お兄さん、ありがとう」 

 海斗くんは帽子をほんの少しあげて、僕にお礼を言ったあと小走りで深澄を追っかけていった。まさか、僕の?

「深澄!! 」

 いけないことはわかっていた。呼び止める権利なんて自分には微塵もないことぐらい。あの日、微塵も深澄のことを思えなかったように、僕は深澄にとって、ただの他人だ。それでも僕は呼び止めようと叫んだ。


「母さんの嘘つき。やっぱりお兄さんと知り合いじゃないか!! 」

 その声に反応したのは海斗だった。

「お兄さんが僕のお父さんでしょ? 好きな人ができたからって、お母さんをふった人でしょ? だって僕と顔がそっくりだ。ほんの少し唇が歪んでるところも、頭の渦が2つあるところも」

「海斗!! 」

「だって母さん、父さんでしょ? 僕がずっと探してた父さんが目の前にいるんだよ」

 入口で叫ぶ海斗の声に店員さんがやってきた。

「大丈夫ですか? 」

「すみません。すぐに出ますから」

深澄ではなく、僕が海斗の手を持った。

「とりあえず、ゆっくり話そう」

「ちゃんと話せる? お母さんから逃げたんでしょ? 本当は僕の存在だって知らなかったんでしょ? 」

 深澄の気持ちを代弁するように、海斗が僕に攻め寄った。こんな状態じゃ、店では話しできない。僕は大通りに誘導してふたりとタクシーに乗った。

「どこへ? 」

「ゆっくり話したいから僕の家へ」

「家って、あなたの実家でしょ? 」

「そう。でもいい、海斗が僕の子供なら、両親にも話さなきゃ」

「お父さんのお母さんとお父さん? 」

「そう、君にとってはおじいちゃんとおばあちゃんになる」

「怒られない? 母さんが一人で生んだんでしょ? お父さんには関係ないことだ、ってお母さんが責められない? 」

 海斗は今までどんな世界を見てきたのだろう? 深澄とどんな生活の中にいたのだろう? 海斗の僕を見る目にナイフを突きつけられたようなそんなぎりぎりの切迫感を感じた。


「ここだよ」

「すんげえ、一軒家なんだ、村木って書いてある」

「雅人、どういうつもり? 哀れんでる? 可愛そうだと思ってる? そんな情けはいらない。ラインだってブロックしてたよね? 海斗がお腹に宿ったときも、生まれたときも、あなたへのメッセージは届かないままだった」

「とりあえず、入って、深澄」


 玄関前での騒がしさに気づいたのか、母が出てきた。

「雅人? これは……」

「はじめまして。栗原深澄です。私が勝手に雅人さんの子供を生みました。本当に申し訳ありません。雅人さんには、なにも望んでません。もちろん、これからも、雅人さんに迷惑をかける気もありません。本当に勝手で申し訳ありません」

 深澄が母に向かって頭をさげて、海斗もそれを見て頭を下げた。

「とりあえず、入って、深澄さんも僕も、雅人も」

 リビングでテレビを見ていた父も客間にやってきた。母が静かに父に深澄と海斗のことを説明した。

「孫? 」

「そう、この海斗くんは紛れもなく私達の孫よ」

「そうだ、海斗くん、何か食べたいものはあるか? これから、おじいちゃんとおばあちゃんとスーパー行くか? ちょっとだけ、お母さんと雅人に話をさせてあげてくれるか? 」

「はい」

 海斗くんの返事を聞いて、

「雅人、ふたりでゆっくり話しなさい」

そう言って、母と海斗と3人がスーパーへとでかけた。

 母は出かける前、僕と深澄の目の前にアイスコーヒーとエクレアをおいた。そして

「深澄さん、晩御飯をうちで食べて帰って」

 深澄は返事をせず、頭だけを下げた。

「海斗、迷惑をかけたり、我儘はだめだよ」

「わかってる」

 玄関のドアが閉まる音がしたと同時に、深澄は僕から目をそらした。僕はこんな時でも深澄の隣にいって抱きしめることができなかった。グラスの中の氷が少しずつ溶けてゆくのだけを見ていた。ちゃんと話そうとここへ連れてきたのは僕なのに、ちゃんと話せなかった20歳の僕が顔を出した。

 ──どの面さげて、父親のふりするんだ? お前はなにもしてないだろう? 傷つける以外に──

「深澄、ごめん。ちゃんと話そうってここへ連れてきたのに、僕は深澄にかける言葉がない。傷つけただけの僕がもう深澄に関わるべきではないんだ」

「それは、もうわかってるから」

 時計の秒針の音だけが部屋に響いていた。

「海斗が戻ってきたら帰るから」

「わかった。ただ、晩御飯だけは一緒に食べてほしい。僕にはもう親孝行はできないから、一瞬だけでも孫との時間を両親に与えてほしい」

「わかった。雅人は幸せね。素敵な両親がいて」

 シュナウザーのショコラが昼寝から目が覚めたのか、よろよろと応接間にやってきて、深澄の膝に飛び乗った。

「犬? 」

「そう、シュナウザーのショコラ。父が定年になっても、ひきこもりにならないように僕が3年前にプレゼントしたんだ」

「フワフワだね。ショコラ」

「深澄、聞いてもいい? もしもしもだ、僕が結婚したいって言ったらどうする? 」

「結婚? 」

「そう結婚」

 深澄は答えず、ただショコラを撫で続けていた。


「ただいま」

 海斗の声が玄関から聞こえてきた。

「母さん、すごいよ、おじいちゃんが連れて行ってくれたスーパー、装動がたくさんあった」

「装動? 」

「仮面ライダーの食玩のことです」

「海斗くん、仮面ライダーが好きなんだ」

「はい。お母さんが仕事してる間、僕は一人だから、仮面ライダーの装動の人形でいつも物語を作って遊んでるんです」

「ゲームは? 」

「高いから、僕は持ってません」

「海斗くん、いいや、海斗。僕がお父さんなんだ。今日まで本当にごめん。海斗の存在すら知らなくて」

「僕はこっそり探してました。だって僕には母さんしかいない。母さんが死んでしまったら、僕は一人だから。父さんを探して助けてもらうんだってずっと探してました。でも、わかりました。父さんは母さんのことが好きじゃなかったんだって。だから、もういいです。母さんと父さんがもし出会ったら抱きつくもんだと思ってましたから。母さんも父さんも楽しそうじゃない。おじいちゃんとおばあちゃんはあんなに楽しそうなのに。だから母さん、帰ろう」

 ソファーに腰掛けてた深澄の手を取ったのは僕ではなく海斗だった。

「そうだね、帰ろう。ショコラちゃんもバイバイ」

 深澄は膝の上で寝ていたショコラをゆっくりとソファーに寝かせた。

「おじいちゃん、おばあちゃん、ありがとうございました」

「ちょっと待って、深澄さん、これ」

 母は晩御飯のおかずをつめたタッパが入った紙袋を深澄に渡した。

「ありがとうございます」

 深澄の口からは次の約束はなかった。同じく海斗も。父は残念がって、玄関までこなかった。いいや、多分、ショックでこれなかったんだろう。僕も頭を下げるだけが精一杯だった。また、この8月の夕方を僕は後悔する、そう思いながら。


 その夜、僕を気遣って海斗の話はしないと思っていたら、父も母もほぼ海斗のことばかり口にした。いちいち値段を必死で見るところとか、食べたいものや欲しい物があるとそこで立ち止まって二人の顔を見るところとか、いかにお母さんが大好きで、だからこそ、お母さんが亡くなることを思うと時々苦しくなることとか、もう会わせることのできない孫のことを漫勉の笑みで話されても僕はただ苦しくなるだけだった。この目の前のコロッケだって、きっと海斗が選んだはずだ。その夜、僕はもうメッセージなどこないというのに、10年ぶりに深澄のラインのブロックを解除した。


「ねぇ、雅人、9月の最終の土曜日、丸一日、予定あけといて」

「何? 母さん、別にいつも暇だよ」

「でも、その日だけは絶対に予定を入れないでね」

 おかしなことを言うもんだと思いながら、僕は深澄と海斗のことばかり考えていた。そしてコンビニやスーパーで仮面ライダーの食玩を見つけるたび、渡せるわけもないのに箱ごと大人買いした。


 母に言われていた9月の最終土曜日、朝、目が覚めて台所に行くと、運動会か? と思うような重箱に唐揚げや巻きずしが詰められていた。

「これ何? 」

「海斗の運動会のお弁当」

「海斗? 」

「そう」

「なんで、母さんがそんなこと? 」

「深澄さんに手渡した紙袋の中に、私の携帯番号とあなたがずっと家に毎月いれていてくれたお金をいれておいたの」 

「それがなんで海斗の運動会? 」

「深澄さんがみんなで来てくださいってショートメッセージくれたのよ」

「はあっ? 僕抜きで? 」

「だから、雅人も行くの。保護者のリレーにでるのよ」

「僕がリレー? 」

「そう、海斗が楽しみにしてるって。おばあちゃんの弁当とお父さんのリレーを」

 そして、その時だった。僕のスマホからラインの着信音がした。深澄だった。

『海斗も楽しみにしてるので運動会来てください。走れる格好で』

 親子3人でタクシーに乗って海斗の通う小学校まで行った。正門のところで深澄が待っていた。あまりにも自然に

『お母さん、ありがとうございます』

 深澄がそう言ったので、僕と父は呆然とした。そして、廊下を歩いていた海斗は僕たちを見つけて、かけよってきた。

「父さんが走るって言ったらみんな期待してるから」

「海斗、プレッシャーかけるなよ」

 深澄が早くから起きて場所取りしたテントの下で母が

「深澄さん、ありがとね。久しぶりに楽しんでお弁当作ったわ」

そういった。父も

「まさかなぁ、もう運動会なんて縁がないものだとこの小学校の運動場の匂いも赤白帽子も本当に懐かしいなぁ」

そう言って、今にも泣きそうなぐらい目を潤ませていた。


 

 開会式がはじまって、僕はずっと海斗を目で追っていた。深澄も両親もまた同じく海斗を目で追っていた。海斗、お前は今、少なくとも4人の眼差しに守られてるんだ。そんなことを思うと涙が出そうになった。


『6番、夫婦リレーに出られる保護者の方は入場門前に集まってください』

「雅人さん、出番だ」

そういって深澄が立ち上がった。

「夫婦リレー? 」

「そう、私と雅人さんが二人三脚で走るリレー」

 僕らは夫婦じゃなかった。でも、少なくとも、深澄が『夫婦』として僕を選んでくれたことが素直に嬉しかった。

「頑張れよ。深澄さんの足手まといになるなよ」

父は苦笑いした。


 

『それでは順番に並んでください、1年生から6年生、学年別です』

 僕と深澄は4年生の列の先頭に並んだ。足に巻く紐が配られる。

「雅人、大丈夫? 」

「ああ、それより、深澄、走るときは僕に寄り添って体重傾けて、僕が深澄をひっぱるから」

「うん、わかった」

 

 行進の音楽が流れて、僕らは運動場に出た。海斗が僕らに手をふってるのが見えた。

「最初の選手はコースに並んでください」 

 僕は深澄の左足と僕の右足を紐で縛る。

「深澄、一、二、一、二」

 僕の声に合わせて深澄も

「一、二、一、二」

声を出す。


「よーいどん!! 」

 ピストルの音が響いて、僕らは走り出した。甘えることができなかった深澄の体が僕に寄りかかりながら、僕は全力で深澄とゴールに向けて走った。深澄の『一、二、一、二、』掛け声に合せて。

 ゴールテープを一番で切ったのは、僕と深澄だ。海斗がすぐさま、かけよってきた。

「父さんたち、速すぎ!! 」

「海斗の親、神!! 」

 僕と深澄は息があがりそうだった。

「雅人、凄い!! 高校生の頃と変わらないね」

 全力を出したのはいつぶりだろう? こんな晴れ晴れしい気持ちになれたのも。テントに戻ると両親はハンカチで目頭を押さえていた。

「雅人の子供の頃、思い出したらなんか泣けてきてね。ああ、まだまだ雅人、あなたやれるんじゃん。深澄さんとだって」

「深澄のおかげだ。久しぶりにこんな気持ちになれたのは」

 深澄はうつむいて泣いているようだった。


『午後の競技は1時からです』

 放送が流れて、海斗もやってきた。

「お父さん、本当にかっこいい、僕、お父さんみたいになりたい」

「ありがとう、海斗」

「さあさあ、ここからはおばあちゃんの出番よ。久しぶりに頑張ったんだから、しっかりと食べてね」

 母が重箱を広げると、

「まじすごい、お父さんもすごいけど、海斗のおばあちゃんの弁当も神!! 」

 海斗の友達までも周りに集まってきた。

 母は海斗の友達にも紙皿と割り箸を渡して

「本当にたくさん作ったから、好きなもの食べてね、深澄さんも海斗も」

「海斗、今日は運動会、終わったらお寿司食べておじいちゃんところへ泊まるか? 」

「母さん、いいの? 」 

「海斗、お寿司だって楽しみだね」

「じゃあ、深澄も泊まるんだ? 」

僕がそういうと

「父さん、何考えてるんだよ? 」

海斗がニヤリと笑った。


 あの夏から動けなかった僕の心がようやく、一、二、と動けた日だった。いいや、本当は、動いていたのに、気づかなかっただけなのかもしれない。


 帰り道、海斗と両親が歩く姿を見つめながら深澄と話した。空を見上げる僕と同じように深澄も空を見上げていた。


「なにかあるわけじゃないのにね、なんで見上げるんだろうね、そこには、雲しかないのに、なにか、いつだって幸せがある気がするんだよね。雅人、また、よろしくね。さよならから10年もかかったけど、またこうやって巡り会えたから。やっぱり好きに戻ってこれたことが嬉しいや」

「だめだ、深澄、それ以上、なにも言うな、僕が泣けてくる」

「雅人、泣いてもいいんだよ。私達はようやく気づけたんだから。ひとりじゃ生きていけないって」

 深澄はそういうと僕の手をぎゅっと握った。

「お父さん、お母さん、早くこっち来て、タクシーが来る前におばあちゃんがみんなで写真撮ろうって」

「わかった、急いでいくよ」


 あの夏から10年目の夕暮れだった。

 空は同じ空なのに──。






 



 


 

 

 







 









 






 













 











 



 


 


 

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10years 川本 薫 @engawa2023

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