第6話 亜希子、不可解な人

(亜希子、不可解な人)


 君と初めて会ったのも、この病院だったね。


 僕は廊下を歩きながら書類を見ていて、君とぶつかったんだ。

 まるでテレビドラマみたいな出会いだった。


 君は大きく跳ね飛ばされて、しばらく立てないでいたね。

 僕は大変なことをしてしまったと、焦ったよ。


「今、ストレッチャーを持ってきますから、そのまま、そのまま動かないでいてくださいっ!」


「いえ、大丈夫ですから、転んだだけですから……」


 君は、何とも言えない柔らかな微笑みを僕に向けて訴えていたね。


「あれ……、力が入らない……、どうやって立ったらいいのか、忘れてしまいましたわ……」


 そう言って、君は笑っていたね。


 僕はその時、君のその言葉としぐさで、恋に落ちてしまったのかもしれないよ。

 でも違う、あの時かもしれない。


「ちょっと、手を貸してもらっていいですか……?」


 君は手を差し出したね。


「あ、すみません! 気が付きませんで……」

 僕は慌てて駆け寄り伸ばされた君の手を取ったんだ。


 まるで、小さな子供のような柔らかな手とぬくもりだったね。

 こんな綺麗な人の手に触れて、僕は内心嬉しかったよ。

 でも君はそれ以上のことを僕に要求したね。


「すみません、力が入らないので、抱きかかえてもらっていいですか……?」


 僕は迷わず、君の背中に両手を回して抱き上げたんだね。

 その時、君のふわふわした服の襟元から君のおっぱいが見えたんだ。

 君はブラジャーを着けていなかったんだね。


「ありがとうございます。やっと立てましたわ……。私の方こそ、窓の外を見ながら歩いていたんですのよ。とても眺めがいいですから……」

 そう言って、何もなかったように、また歩いて行ったね。


 やっぱり、この時だったかな……


 二回目に会ったとき、この病院のロビーだったね。


「あ、よく合いますね……」


 本当はあれから、また君がいないかと、病院中をぎょろぎょろして歩いていたんだよ。


「先日は、すみませんでした……」


「どうかされたんですか?」

 僕は、君が何か病気ではないかと心配したよ。


「先週、この病院で、母が亡くなったんです。今日はその会計で来たんですの」


 僕は言葉を失ったよ。


「……、それは残念でしたね……」

 やっと出た言葉だった。


「…、それ、会計伝票ですか? 僕がやってきますよ」


「そんな、ご迷惑をお掛けしなくても、私、もう一日中、暇なんですのよ」


 僕は君の手から伝票を受け取り事務室に走った。


「これ、先にやってくれないか?」


「先生、向井さんを知っているんですか?」


「え、君、彼女を知っているの?」


「ええ、昔、ここの看護婦だった人ですよ。ちょっと有名な美人さんでしょう。先生も目が早いですねー!」


「そんなつもりはないけど、幾つぐらいの人?」


「先生、それって、セクハラ……」


「年を聴くのは悪いことかー?」


「さあ、どうだったか? でも先生より年上ですよ」


「君、僕の年、知っているのか?」


「先生、有名だから、みんな知っていますよー!」


「あっそう、何でもかんでも有名だな。でも、ありがとうー」


 発展のない話のなか、伝票は出来上がった。


 あまりにも透明でふわふわした感じで、お嬢様を思わせるような、変わった話し方。


 でもよく思い出して考えれば、落ち着いた口調と、丁寧すぎる話し方。

 それに母親の面倒を見るくらいだから、やっぱりかなりの年上だ。

 でも、こんなに胸が躍って引き付けられる。


 僕は彼女に清算伝票を渡して、別れた。

 決して、年上だからと言って、興味がなくなったわけでもないが、仕事が溜まっている。

 仕事のせいにしているのかと自問自答した。


 三回目の出会いは、大学病院が運営している、歩いて五分くらいのビジネスホテルのラウンジだったね。

 このホテルは遠方から病院に来る人のためと、患者さんに付き添っている家族のため、そして僕のように帰りたくても帰れない職員のために建てられた。


 そしてここのラウンジのキッチンは高級店に劣らない美味しさだと評判だった。

 僕は久しぶりに家に帰ろうと歩道を歩いていると、君がホテルのエントランスを歩いて入って行くのが見えた。


 まさかこんなところで、と思ったが、もしかして別人かと思い、僕は後を付けたんだ。

 もう君はロビーにはいなくて、僕はあたりを見回したんだ。

 やっぱり人違いかと思いつつ、入ったついでに噂のラウンジのキッチンで昼食を採ろうとして入ると、君は一人で窓際に座って、遠くを眺めていたね。


 着ている服は。やっぱりふわふわのワンピースだった。


「やーぁ、ご一緒してもいいですか?」

 僕は話しながら、彼女の了承もなく、二人席の小さなテーブルの向かい側に座った。


 彼女は、少し間をおいてから……

「……、先日は、ありがとうございました」


「前にも同じことを言ってましたね」


「そうでしたか?」


 彼女は口元に手を当ててクスクスっと笑った。

 そして続けて……

「誰かと思いましたわ……」


「え、僕ってそんなに印象薄いですかね?」


「いえ、そのおひげ、前はなかったじゃないですか……」


 そうだ、一週間ばかり研究室から出ていなかったことを思い出した。

 不精ひげで、顔が覆われていたことも彼女の言葉で思い出した。


「すいません、忘れていました。さっき研究室から出てきたばかりなんですよ。今、細胞の培養してまして、毎日毎日観察で、目が離せなくって……」


「大変ですねー」


「私、剃ってあげましょうか? 私、上手に剃れるんですよ!」


「ええ、知ってます。あの病院で看護婦をやられていたんですね」


「どうしてそれを……?」


「この前の会計の時、事務の人が教えてくれたんです。向井さん。名前までは知りませんが……」


「亜希子です。あなたは……?」


「江崎鉱之と言います」


「立派なお名前ですねー」


「そうですか。硬そうな名前でしょう」


 ちょうどその時、ランチが届いた。


「ここはナース時代から、よく利用していたんです。本当に美味しいですわねー」


「僕もです。疲れたとき、ここで食事をすると元気が出てくるんです」


 彼女はそう言って、一緒に注文したリンゴジュースを胸を張って飲み干した。

 その時、ワンピースの上から乳首が突き出ているのが見えた。

 彼女、またブラジャーを着けてないんだ。


 乳首が気になるとその周りの乳房までも薄らと確認できてしまった。

 彼女は自分で透けてることを知らないのかもしれない。

 教えるべきか、それを言ったら、一変に嫌われるのではないかと戸惑った。


 でも、やっぱり……


 僕は、口元に手をあてて、少し身をかがめて、少し身を乗り出して、彼女に近づいた。


「亜希子さん、乳首が透けて見えますよ……」


 彼女は、大きく笑って胸を押さえたものだから、ふわふわのワンピースをとおして、はっきりと乳房の形が現れた。


 彼女はそのまま、笑ったまま……

「私、ブラ嫌いなんです。締め付けられるのが苦しくて、家では着けてないんですのよ。それでも改まって外に出るときは、ちゃんと着けて出るようにはしているんですけど……。今日は久しぶりのランチに気を取られてしまって、忘れてしまいましたわ……」


 彼女は、そう言って、また思い出したようにくすくす笑った。

 それから、さっきの僕の格好を真似するように、彼女はうつむき加減に身を乗り出し、手のひらを口元にあてた。


 僕も大きく身を乗り出して、彼女のかざす手のひらの前に耳を寄せた。


「でも、パンツははいていますわよ……」

 言い終わらないうちに、彼女はのけぞり口元に手をやって笑った。


 僕はそれに答える言葉が見つからず、ただ一緒に笑うしかなかった。


 最初に会ったときの印象は、物静かなお嬢様といった感じに見えた。

 でも今は、こんなに笑う人だとは思わなかった。

 どこかのお嬢様学校の女子高生と話している気分だった。


 僕が話に詰まっているのを察したのか、彼女は続けて話を進めた。


「さっきのおひげの話ではないですけど、私、陰毛が、ないんですの」

 僕は何の話なのか分からず、ただただ微笑んでいた。


「昔、剃毛の練習で、陰毛を剃ってみたの。それが気持ちよくって、気持ちよくって、それから少しでも伸びてくると、また練習と思って剃っちゃうの。そのうち癖になって、あれから今でも、つるつるになるまで剃っちゃうんですの。昨日の夜も、今日のお出かけのために、剃ってきたんですのっ!」

 彼女はまた、のけぞるように大きく笑った。


 僕は、ようやく話の内容が見えてきた。

 彼女はパンツの話から、その中身の話までしているのだと……


 陰毛と具体的な名前を言ってしまうのは看護婦としての常なのか……

 ますます話についていけない。ただ笑うしかなかった。


「剃ってあげましょうか? そのおひげ……」


「あ、ああ、これくらいなら電気カミソリですぐだから……」


「じゃー、陰毛は、電気カミソリだと剃れないでしょうー?」


「いいや、僕は、剃毛してもらうほど、どこも悪くないから……」


「残念……、私の腕前を見せてあげたかったのに」

「あ、ははは、じゃー今度、是非……」


「それなら、私の剃った跡見たくないですか? お腹から恥丘から股の間まで、つるつるなんですのー! もともと毛が薄くて、肌が細かいでしょう、股の間なんか、こうやって、剃刀のお腹と肌をぴたりと合わせるんですのよ。決して刃を肌に当てないように、力を入れずにゆっくり剃るんですの……」


 彼女は下を向いたとき、自分が服を着てたのを思い出したように、一度動作を止めて、それからゆっくりと僕の方を見てにこりとした。


「剃刀の刃を当てなくても毛は剃れるんですか?」


「そうなの。剃刀のお腹で剃る感じで、剃るというより、剃刀のお腹で撫でる感じかしら。だから気持ちいいのね」


「それが、技なんですね」

 僕は、股を広げて剃刀を持って悶えている彼女を想像してしまった。


「……、見たくありません?」

 彼女はもう一度言った。


 おかしい、尋常ではない。普通の女子なら、会った三回目で、陰毛の話などするのだろうか、それとも僕を誘っているのか……


 でも、ここで「また今度、……」と言って逃げ出すのは簡単だ。

 しかし幸運にも、一緒にランチが食べられるほど近づけたのに、ここで別れたら、今度いつ会えるかわからない。

 それに、ここで断れば、意気地のない男と思われて軽蔑されるかもしれない。

 そのことの方が僕にとって屈辱だ。


「勿論、見たいですよ。男なら誰でも……」


「それはよかったですわ。さあ、行きましょうー」

 そう言って、彼女は立ち上がった。


「今からですか?」


「見せてあげますわ……」

 予想以上の彼女の行動に、僕は中途した。


「私、三時まで、時間が空いていますの。ここで、外を眺めながら、ぼーっとしていようかと思っていたんですのよ。あなたは、これから御用事でも……」


「いえ、ちょうど自宅に帰るところでした」

「じゃあ、一緒にいられますわねー」


 彼女は、座っている僕の方に来て手を差し伸べた。

「お部屋に連れて行ってくださらない」


 そこまで言うのなら、僕は覚悟を決めて、立ち上がってから、彼女の差し出された手を取った。


 あの柔らかな手だった。


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