第37話
美術館。休日ということもあってか人がごった返していて、中に入るまでに相当時間がかかった。お嬢様だからといってファストパスの類は持っていないようだが、お嬢様だから招待券は2人分持っていたということで、私は財布を出す必要がないことに一安心していた。高校生は一般より安く入れるからといっても決して油断できる額じゃない。私のような一端のけちんぼにしたらなおのことだ。
美術館に来たのは、確かこれで二回目だ。一回目のときは確か小学生だった。なんとかいう画家の展覧会で、本当はそんなことないけれどママ友たちの前では芸術好きを装う母君に半ば無理やり連れてこられ、私は実のところアローラ地方を大冒険していたかったのだが、懐から3DSを取り出した途端に母が怒るので、黙って訳の分からない絵を睨みつけていた覚えがある。ただ、母も本当は訳はわかっていなかったらしく、それきり母も美術館には行っていない。
いま、私の手に3DSはない。代わりにあるのはスマホだ。とはいえ、ゲームは滅多にしなくなった。見るのはもっぱらSNS、懐から取り出したら怒られそう度で言えば肩を並べるだろう。私は惜しみつつ、スマホは鞄の中にしまっておいた。
「私、この人の作品が好きなんだ」
「そうなんだ」
私は生返事をする他ない。イタリアだかフランスだか出身だという、100年だか200年だか前のナイスミドルが写真の中から睨みつけてくる。どうやら、かの有名な印象派の画家の一人とのことだ。この画家もさぞ有名らしく、さすがの私でも名前を聞いたことくらいはあるし、絵もみたような気さえする。もっとも、そんなのは私にとって大半の芸能人についても当てはまることだ。
「どういうところが好きなの?」
私は質問を絞り出す。会話が止まるのがいちばん良くない。
「色彩が優しくて、その奥にこの人の優しい感情や思いやりが感じられるの」
改めて、壁にこれみよがしにへばりついている大きい絵を見てみる。水面に揺蕩う美しい睡蓮の絵は、たしかに筆先は柔らかだし、色も優しい。とはいえ、画家の優しい思いやりまでは私には見えなかった。せいぜい、この画家は並々ならぬ努力をしたか、さもなければ並々ならぬ天才だということくらいだろうか。
「ふーん……」
「すみか、あんまり楽しくない?」
「あー、そんなことないよ。なんていうか、見方が分かんなくてさ。美術館とかあんまり来たことないから」
いっそのことだ。思ったことは言っちまおう。隠し事はいずれバレるものだ。
「だからさ、澄河が教えてよ。私を教育するつもりで」
「教育……?」
澄河さんが何かに引っかかっている。言葉選びを間違えたか?いや、教育なんて普通の単語だ。憲法にも書いてあるし。文脈を考えれば、今発した教育という単語に隠れた意味合いなんてない。
「分かった。教えるね」
少し止まったあと、澄河さんはいつも通りの笑顔に戻ってそう言った。
☆☆☆
美術館を回る時間は人それぞれ違うだろうが、多分平均値よりはずっと長いこと、私は澄河さんの講義を聞いていた。正直4分の3くらいは右の耳から左の耳へと通り抜けていったが、私のキャパシティを考えれば、4分の1もちゃんと脳に残っていることを褒めてほしいくらいだ。この4分の1だって、紙に書き起こせば相当な分量になるに違いない。
驚いたのは澄河さんのノドの頑丈さだ。私がもし同じ量の言葉を吐こうものなら終盤はホラー映画よろしく吐血していたことだろう。もしかしたらお歌のレッスンでも受けているのかもしれない。なんて言ったってお嬢様だし。
「ごめんね、すみか。私ばっかりしゃべっちゃって」
「いいの、いいの。私はまだ何も知らないってことが分かったから」
おかげで私は随分楽できたし、ついでに印象派については随分詳しくなった。この知識が役立つことかは微にして妙なところがあるが、少なくともこれからの3年間、話のタネくらいにはなりそうなものだ。
「また、一緒に美術館来てくれる?」
「いろいろ説明してくれるんならいいよ」
説明してもらわなかった場合、多分どんな有名な画家の展覧会でも10分で見終わってしまう。1分あたりの金額を考えれば大損だ。
「分かった。じゃあ、私もしっかり勉強しておくね」
マニアックにならない範囲でお願いね。今日はちょっとどころではなくマニアックだったと思う。
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