第35話

 ゴールデンウィークが明けて最初の平日だ。入学式で張り切っていた同級生諸姉も、しばらくのお休みを経てぽやっと気が抜けている。中には束の間帰った実家恋しさにホームシックになっている人もいるだろう。お嬢様だって人間だ。五月病には抗えない。


「和宮ちゃぁん。ここわかんない」


 数学の授業が終わったあと、ノートと腑抜けた面をぶら下げたひかりちゃんが私の机の前にしゃがみこんだ。


「栞ちゃんの方が数学得意だと思うよ?ねえ」


 また妙な嫉妬をされてはたまらないと、澄河さんを挟んで向こう側にいる栞ちゃんに目をやる。すると栞ちゃんは仰け反って天井を仰ぎ見ていた。


「ど、どうしたの栞ちゃん」


「……ゴールデンウィークは短すぎる……」


 栞ちゃんはそれきり何も言わなくなった。


「栞ちゃんはもうダメ。ゆうべ『平日は嫌だ』って大泣きしてた」


「えぇ……」


「そんなわけでさ、和宮ちゃんに教えてもらうしかないんだ」


「分かったよ……。どこ?」


 念のため、澄河さんの方をちらりと見てみる。どうやら微笑ましく見守ってくれているようだ。妙にニコニコしている。

 ノートの上でサインとコサインがのたくっている。これは数学を苦手とする多くの人々が勘違いしていることなのだが、サインもコサインももちろんタンジェントも敵ではなく、私たちの生活を豊かにしてくれる仲間なのだ。こいつらと深い絆を築き上げた私であればこのくらいはちょちょいのちょい……。

 ……。

 なんだこれ。わかんないな。こんなん授業でやったか?

 ちらりとひかりちゃんの顔を見てみる。期待を込めた目で私を見つめている。私はすっと立ち上がり、栞ちゃんの席へ歩く。プランBだ。


「栞ちゃん……」


「……」


「ゴールデンウィーク終わって辛かったね」


「……」


「きっとやりたいことがたくさんあったんだよね」


「……」


「6月までしばらく祝日もないね」


「ぐすっ……」


「でもね、栞ちゃん」


 私は栞ちゃんの耳元に唇を寄せて囁いた。


「ここで気合い出せばひかりちゃんにいいとこ見せれるよ」


 ピクっとした。間違ってもダイレクトASMRだからではない。肝心なのは内容なのだ。


「やっぱり、ひかりちゃんを助けたげるのは栞ちゃんの役目だよ。昨日かっこ悪いとこ見せちゃったんでしょ?名誉挽回汚名返上のチャンスだよ」


 栞ちゃんはゆっくりと起き上がると、ふらふらと立ち上がった。


「……見せてみて」


「あ、うん」


「ここはね……」


 それから栞ちゃんは淡々と例の問題の解説を始めた。私はそれに耳をそばだてながら、さすがにこれは試験には出ないんじゃないかと思いつつ一応覚えておこうと思ったが、しかし今考えるべきはそんなことではない。


「……」


 さっきのダイレクトASMRが気に食わなかったらしく、澄河さんがややムッとしている。この子はへそを曲げると面倒だとさすがに分かっているので、すかさずフォローを入れるべきだ。


「やっぱアレだね。栞ちゃんはひかりちゃんにいいカッコしたいみたい。ちょっと煽ってあげればこのとおり」


「……忘れていないよね、すみか?」


「何をでしょう……」


「私たち土曜日デートするんだから」


「デート?」


「デートぉ?」


 ひかりちゃんと栞ちゃんがこっちを向く。


「あ、あんたたちは数学やんなさいよ!」


「いーや、聞き捨てならないわ。ねぇ、ひかりさん」


「ほんとよぉ。最近の子たちったらねぇ、栞ちゃん」


 こいつら、あからさまにからかってきやがる。他人事だと思って。


「で、どこ行くの?」


「プランはね。しっかり頭の中にあるの。でも内緒。すみかのこと驚かせてあげたいから」


 澄河さんがそう言った。つまり私の企てはいきなり破綻していたことになる。主導権は既に握られてきたのだ。


「じゃあ、和宮ちゃんはどこに行くか知らないんだ」


「知らない……」


「へぇー。それはドキドキだねぇ」


 ああ神様。私はどこへ行くのでしょうか。私がどこから来たのかと何者なのかは一旦いいから教えてください。


「私たちもどこか行こっか?」


「そうだねぇ。ねえ深山ちゃん、私たちにはどこ行くか教えといてよ。うっかり出くわしてオジャマしても悪いしね」


「あのね、土曜日は……」


 ちょうど私に聴こえないくらいの音量で、3人はコソコソと話をしている。その間、栞ちゃんもひかりちゃんも生暖かくニヤニヤした目でこちらを見てくる。お嬢様というのはなんて下世話なんだろう。


「いやぁ、愛されてるねぇ、和宮ちゃん」


「ねー。うらやましいわね、この」


「……私にも教えてくんない?」


「ダメだよぉ」


「良いわけないじゃない」


 良いわけないことあるか。もう一度澄河さんの方をちらりと見る。少しだけ赤らんだ顔がほんのり嗜虐的な笑みを浮かべていて、今のところ被虐的なところのない私の脳みそがひたすらに空回りしているのを見届けることしかできなかった。

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