第33話

 ゴールデンウィークはまだ続く。割と温情のある量だった宿題はとっくに片付けた。食堂に朝ごはんを食べに行こうとすると、朝っぱらから髪をバッチリセットした久野先輩に出くわした。


「おはようございます、先輩」


「おはようだけどその先輩ってのはやめてくれないかな、むず痒い。真琴ちゃんって呼んでくれたまえよ」


「ぐわし」


「は?」


「なんでもないです」


 いにしえのマンガについての教養はないようだ。


「ほら、Repeat after meだよ。真琴ちゃん」


「まことちゃん……」


 やたらと英語の発音がいい。一周まわってインチキくさいくらいだ。


「すばらしい、これからもそれで頼むよ。それで、これから朝ごはんかな?」


「ええ。一緒に行きます?」


「もちろん、ご相伴にあずからせてもらうよ」


 ☆☆☆


「正直なことを言うとね、和宮ちゃん。入学するまで私はクロワッサンを食べたことがなかったんだよ」


 久野先輩改め真琴ちゃんはそのクロワッサンを貪りながらそう言った。


「そうなんですか?」


「そうだとも。いやね、存在自体は知ってたし、そもそもウチのカフェでも出してるんだよね、クロワッサン。スーパーでもコンビニでも見かけていたし、食べてみたいと思ったことも一度や二度じゃない。でもどういう訳か生まれてから15年くらい食べ損ねてきたんだよ」


「売り物だからですか?」


「まさか。小さい頃は散々つまみ食いして叱られたものさ」


 きっと今でも度々叱られているんだろうなあ。


「でもなぜかクロワッサンには手を出さなかった。信じられるかい?こんなうまそうなパンをだよ」


「そりゃまたどうして?」


「分からない。それで、私はひとつ仮説を立てたんだ」


「仮説?」


「キミ、アンパンマンは知ってるだろ。愛と勇気しか友だちがいないでお馴染みの彼だ」


「そこには馴染んでないですけど……」


「でだ。アンパンマンに出てくるパンといったら、アンパン食パンカレーパン、メロンパンにロールパン、あとはクリームパンくらいなもんじゃないか」


「はあ……」


「つまりね、和宮ちゃん。私の中で、それ以外のパンはいわば『外様』になったんじゃなかろうかと、そう思うんだよ」


 何言ってんだろう。


「そりゃ、クロワッサンマンもいるかもしれないさ。けど少なくとも私は見たことないし、かりに見たことがあっても覚えていない。つまりね、和宮ちゃん」


「なんでしょう」


 どうせろくなことを言わない。


「私がクロワッサンを食べたことがないって言うのは、すなわちやなせたかしの陰謀だと思うのさ」


「……」


 ずっと何言ってるんだろう。


「私、ちっちゃい頃アンパンマン見てましたけど、クロワッサン食べたことありますよ」


「あれ?そう?」


「はい」


「そうか、あてが外れたな……」


「あの、真琴ちゃん」


「なんだい?」


「もっとマシな話題はないんですか?」


「共通の話題といったらアンパンマンかこの学校のことしかないと思ったんでね。あとは貧乏人あるあるくらいかな。個人的にはアンパンマンの話ができる人材は貴重なんだ」


「なんでですか?」


「知っての通り、ここは金持ちの粋を極めたお嬢様の集まりだよ。かえってバカになりそうな英才教育を物心つく前から受けているわけだよ。例えばウチの綾、小さい頃アンパンマンの代わりに何見てたと思う?」


「何見てたんですか?」


「能と狂言。信じられるかい?少なくとも私は見たことないし、多分婆さんになっても見ないだろうね」


「……多分、私も見ないと思います、一生」


「そうだろう?そりゃ、見てみたら面白いかもしれないさ。けど、『じゃあ見てみよう』ってなる日が来るとは全く思えない。同じ理由で歌舞伎も浄瑠璃も見たことがないし多分これからも見ない」


「そもそも、アンパンマンを見るような時期の子に能や狂言が分かるんですか?なんというか、古文で喋るはずですよね、知らないですけど」


「私もそう思って聞いてみたんだよ。『面白かったのか』って。そしたら綾、『そのときは面白くはなかった』ってさ。『でも、今は結構面白いわ』だって」


「一緒に行ったりしないんですか?」


「……今度おねだりしてみるよ。そんなに面白いんなら連れてけってね。キミは深山ちゃんとそういうのないのかい?」


「いえ。そういえば、あまり小さい頃の話をした覚えがないです」


「そうかい?そいつは意外だな」


「澄河の方からいろいろ訊いてきたりはするんですけどね。逆はあまりないかも」


「ふーん。それなら、私がひとつアドバイスをしてやろう」


「アドバイス?」


「『澄河』にはもっと優しくしてあげることだね。あの子、キミが考えている以上にナイーブだろうから」

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