第29話
ドレミファソラシドの音に合わせて私たちは体育館の床に貼られたテープの間を往復する。音は少しずつ早くなっているはずだが、今はそうと分からない。無機質な女の声が一オクターブごとに数える数字と私の残りのHP以外には変化はなく、元来飽き性の私には辛い時間が続くが、真横にゼェゼェ言っているメガネっ子がくたばるまでは私はこの往復作業をやめるわけにはいかないのである。
「ひぃ……ひぃ……」
「ぜぇ……ぜぇ……」
お互い憎まれ口を叩く余裕は無い。数字を数える無機質な声の方がよほど憎らしい。ロボ女が26だなんて抜かした。片道20メートルなので、既に半km以上は走ったわけだ。こんなのは人間が走る距離じゃない。お嬢様なら尚更だ。私は箸より重いものは持ちたくないし、500mより長い距離は走りたくないんだ。
私が栞ちゃんを一瞥すると、栞ちゃんもまたこちらを見ていた。深淵を覗くとき深淵もまたなんとやら。
「ふたりともがんばって!」
「根性だよぉ、根性」
澄河さんとひかりちゃんが涼しい顔で、無責任な応援をぶつけてくる。澄河さんはともかく、ひかりちゃんにはある程度、こんな事態を引き起こした責任があるというのにだ。
そもそもひかりちゃんが授業中眠りこけてなかったら原谷先生も怒らなかったし、そのために原谷先生がお局先生に怒られることもなかったし、そうなるとひかりちゃんも原谷先生に謝りに行く必要もなかったし、私が謝罪に付き合うこともなく、すると栞ちゃんにライバル意識を持たれることもないので、今こうして死にそうになりながら走る言われもなくなるのである。
根性論なんて今日日はやらないが、今だけはそうじゃない。私の雑草魂をいいとこのお嬢様に見せてやるのだ。
「30」
嘘、まだ4個しか増えてないの?さっすが私、頭の回転が早いからこの短い間にここまでの量を考えられる。一方体力は40回分くらい減っている。エネルギーが余計に頭に向かっているのかもしれない。
何も考えるな。考えるな、感じろ。Think, But Feelなのだ。天国のブルース・リーもそう言っている。そう、これはカンフーなのだ。あれ、ジークンドーだっけ。ジークンドーはカンフーに入るのかな。いや、中国拳法のことを考えている場合じゃない。今は1回でも多く女の声を走りながら訊くことが最優先事項だ。見てみろ隣。さすが演劇部、顔だけは涼しいものだ。汗はだくだく、目はうつろ、それでも微笑みを浮かべこちらを挑発するように見つめている。
(負けてなるものか)
そんな感情がふつふつとわき上がる。きっと栞ちゃんも同じはずだ。
(負けてなるものかぁっ!)
「34」
まだ4回しか増えていないのか。
☆☆☆
結局私は42回目で力尽きた。それを見届けた栞さんは、43回目に辿り着く前に崩れ落ちた。
「し……、栞ちゃ……、だ、大丈夫……?」
「だ、大丈夫……」
大丈夫な呼吸音じゃない。私は栞ちゃんに肩を貸して、息も絶え絶えに体育館の端に連れて行ってから揃って座り込んだ。
「……引き分け、かなぁ……」
栞ちゃんがそう呟いた。多分これは、「私の負けだよ」という返答を期待したものだ。実際、ほんの少しだけではあるが栞ちゃんの方が長く走り続けていた。ただしこれは例によってスポーツ漫画ではないので、そんな爽やかな返答はしない。
「……引き分けだね」
つまり体力テスト全体を通して、私たちは公式に引き分けになる。栞ちゃんは目を丸くしているが、私は爽やかな笑顔を返すだけだ。
「でも、42回なんて新記録だよ」
「あ、私も」
「きっと栞ちゃんがいたからだね。柄にもなく熱くなっちゃった」
「私もだよ、和宮ちゃん」
そう言って栞ちゃんは私に手を差し出す。私はその手を固く握りしめた。
「次は負けないから、和宮ちゃん」
「こっちこそ、栞ちゃん」
「126」
ひかりちゃんと澄河さんはまだやってる。
「飽きないね、よく」
「ねー、信じらんない」
「わんこそばと同じだよ。自分が楽しいタイミングで終わればいいの」
「そうそう。そのへんが分かってないよね、あの二人は」
こうして絆を深めた私たちの嫉妬は今、元気に走り回ってるあの二人に向かっている。そんな私たちの呪詛を知ってか知らずか、今も二人は楽しそうに走り続けていた。
「127」
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