第28話
「一緒に走ろうね」
「うん」
私は今さら、このきっとどちらかが裏切ってこれからの3年間に修復しがたい傷を残すことについてあれこれと言うつもりはない。
何せ私の目の前には、私を遥か後ろに置いていきたいと願ってやまない人間がいるのだ。
走る距離は1km。高一女子の平均タイムは約5分。私はそこまでは速く走れない。でもそれでいい。もし目の前の女が世界で一番遅い女なら、私は世界で二番目に遅い女でいい。私はスニーカーの紐をきつく締めた。
見てなさいよ、野上栞。これから私はあなたを音の向こうに置いていくのだ。
☆☆☆
「しゃあっ!!!!」
思わず大声が出た。そこまでにこの勝利は劇的だった。
残り500m、逃げる栞ちゃんを大外から私が差した。競馬だったら大盛り上がりの展開だ。ただし、私たちは下からワンツーフィニッシュを決めたので、私の馬券を勝った人はいずれにせよ大損をこいていたことになる。
しかし、今そんなことは関係ない。この勝負は私と栞ちゃんの1対1。戦績は3勝3敗。決着は明日のシャトルランに持ち越した。シャトルランは持久走と同じく体力勝負。持久走の結果を考えれば……
「私が勝てる、だなんて思ってるのかしら」
息も絶え絶えに、大の字に横たわる栞ちゃんがそう口にした。私はその声に振り返る。
「栞ちゃん……」
この女、まだ勝負を諦めていないらしい。先程負けたばかりだというのに、その美しい唇はうっすらと笑みを浮かべている。
「ある程度自分でペースを決められる持久走に対して、シャトルランは手綱を常に握られる。変わり映えのない体育館でひたすら往復を強いられる。往復時の身体の回転は常にペースを乱す。競技としてはもはや別物。それを分かっていないようね」
「ぜぇぜぇ言ってるよ、栞ちゃん。さすが演劇部、そんな顔をできるのは大したものだと思うけど、口が回るのは自信のなさの表れかな。あんまり強い言葉を使うと弱く見えるよ」
「ふっ。これは余裕っていうものよ、和宮ちゃん」
「……なんにせよ、体力勝負で私に勝てる、栞ちゃん?」
「……根比べなら、負けない。明日が楽しみ」
私たちの目線は再びぶつかり合った。
「あの二人、何をずっと話してんだろうね?」
「慰めあってるんじゃない?」
ひかりちゃんも澄河さんもこと重大さを分かっていないらしい。これから私たち2人の今後3年間の序列が決まるのだ。
☆☆☆
昼休憩。
いつも通り食堂で4人席に着く。
「和宮ちゃん、お茶持ってきたよ」
「ありがとう、栞ちゃん」
ひかりちゃんと栞ちゃんが4人分の麦茶を汲んで持ってきてくれる。栞ちゃんは私の分を持ってきてくれた。戦いが終わればノーサイド。そこが私たちの素晴らしい所だ。
「ひかりちゃん、持久走早かったよね」
「ま、普段から走り込んでるしね」
できる人の話は聞かないに限る。どうせ上には上がいるのだからそっちには見ない振りをして少しでも長い時間下を見ることが、人生をめいっぱい楽しむ秘訣だ。
今日の昼食はエビフライ定食だそうだ。タルタルソースの具は粗い切り方をされてごろごろしている。なんでか分からないがこういうタルタルソースの方がいいものな気がする。エビフライは普段はソースでいただくが、タルタルソースも嫌いじゃない。
一口かじると、さくさくな衣の下にぷりぷりのエビがお出迎えしてくれる。タルタルソースの中の卵の白身と混ざりあって口の中に幸せが溢れている。さっきの持久走の疲れがすうっと抜けていく感覚がある。カリカリのしっぽまですっかりいただいた。
「和宮ちゃん、しっぽ食べちゃったの?」
栞ちゃんが驚いている。
「私も食べたよぉ」
ひかりちゃんも食べる文化の人だ。
「そうなの?」
「私も、食べたことない」
「時代はSDGsだよ、おふたりさん」
「確かに……」
澄河さんと栞ちゃんは互いに顔を見合せたあと、意を決してしっぽを口に放り込んだ。
☆☆☆
授業が終わって部屋に戻った。今日の夕飯は、栞ちゃんとひかりちゃんが部活を終えたあと一緒に行く約束だ。その間私は宿題を片付ける。勉強は学生の仕事だと言う人もいるが、残業代も時間外手当も出ないのが辛いところだ。今日は数学と古文と英語。どれも時間さえかければ終わるものだから、早めに時間をかけておくのが賢いやり方だ。
澄河さんも机に向かって何か書いている。やることは私とそう変わらないと思う。
「ねえ、すみか」
ふと、澄河さんが話しかけてきた。
「なに?」
「エビフライのしっぽ、美味しかった」
「ああ、うん」
「すみかはいつも私に知らない景色を教えてくれるね」
そんなことないと思うけどなぁ。
「ありがとう、すみか」
「ど、どういたしまして」
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