第26話

 職員室の前というのは小学生の時分から高校生になってまでいまだ妙な緊張感を覚えてしまう。しかし私も一友人としてはひかりちゃんのお願いごとを聞かないわけにもいかないし、一度交わした約束を破るほど落ちぶれてもいない。いけ好かない金持ち社長がSNSで言っていた、信用は金にも勝るなどという戯れ言を今のうちだけは真に受けて、隣人にして友人のひかりちゃんにその戸を叩く勇気を与えることこそが、今の私に与えられた最重要にして唯一の任務なのである。私はひかりちゃんの背中を撫でてやりながら、ひかりちゃんの背中を押した。ひかりちゃんは不安そうにこちらを見つめるが、私は柔らかく微笑んでさっさとノックしろと念を送る。思いが通じたのかひかりちゃんは決心したような表情で、ついに戸をノックした。


「失礼します!1年2組、瀧川ひかりです!」


「瀧川さん?」


 幸いなことに、原谷先生の席は一番手前です。


「えっと、原谷先生にお話したいことが……」


「なんでしょう?」


 原谷先生は椅子に座ったまま、不思議そうにこちらを見ている。ひかりちゃんはほかの先生、特にお局先生の手前なかなか話を切り出しにくく、モジモジしてしまっている。ここは不肖私めが手助けをしてやるべきところだ。


「原谷先生。朝早く申し訳ないんですが、ここではちょっと……。少しお時間いただいて、場所を変えてもらえますか?」


「? ええ、構いませんが……」


 ☆☆☆


 というわけでやってきたのは空き教室。結構朝早くに来たもので、人も少ない。私はひかりちゃんと先生を二人にした方がいいかなと思ったけれど、ひかりちゃんがあんまりにも悲しそうな顔をするものだから、話が済むまで教室の隅にでもいることにした。


「それで、瀧川さん。お話っていうのは?」


「あの……。昨日はすみませんでした!」


 ひかりちゃんはそう言って深々と頭を下げた。


「た、瀧川さん?どうしたの、一体……」


「昨日、私が居眠りなんてしたから、先生は私を怒って、そのせいでお局先生が……」


 ひかりちゃんは涙目だ。私は高校生なんてものはもうちょっとスレてるものだと思っていた。


「お局先生?ああ、あれはオッコツって読むんですよ」


 そんなこと今はいいの。本題はこのあと。


「確かに、授業中に居眠りすることは良くないことです。でも、あのとき私もあんな大声を出すべきじゃありませんでした。乙骨先生が怒るのももっともでした。私の方こそ、ごめんなさい」


 そう言って、原谷先生も深々と頭を下げた。それから、二人は顔を上げて、お互いに少しだけ目を合わせて、それから揃って笑顔になった。


「それじゃあ、仲直りということで。和宮さんもありがとう」


「いえいえ。友達の頼みですから」


「そう。瀧川さん、良い友達を持ちましたね」


「はい!」


「じゃあ、私は職員室に戻りますから。ふたりとも、ホームルームに遅れないように」


 それだけ言って、原谷先生は少し手を振ってから空き教室を出ていった。


「じゃ、私たちも行こっか、ひかりちゃん」


「うん。ありがとねぇ、和宮ちゃん」


「いいのいいの」


 私たちも空き教室を出た。すると、廊下で澄河さんと栞ちゃんが待っていた。


「ふたりとも。大丈夫だった?」


「うん!和宮ちゃんのおかげ」


「ほら、雨降って地固まるってやつ。ひかりちゃんはもう居眠りしないようにね」


「あんまり自信ない……」


「次は付き添ってあげないからね」


「うぅ、がんばるよぉ」


 ひかりちゃんにもいつもの調子が戻ってきた。これで一安心、と教室に戻ろうとしたとき、誰かが私の制服の端を摘んで止めた。振り返ると、そこにいたのは栞ちゃんだった。


「栞ちゃん?どうかしたの」


「あのね、和宮ちゃん。私ね」


 栞ちゃんは少し躊躇ってから話を続ける。


「ひかりが原谷先生に謝ろうって言ったこと、あの時点でなんとなく想像がついてた。だけど私は、その付き添いは私にお願いしてくれるって思ってた」


 確かに、言われてみれば。


「でも、ひかりは私じゃなくて、和宮ちゃんにお願いしてた。私ね、正直妬いちゃった」


「……」


「自覚しているかどうか分からないけど和宮ちゃんは素敵な人、それは私が保証する。でもね」


「は、はい」


「私、次は負けないから」


「は、はい、もちろん」


「それだけ。ごめんね、変なこと言って。和宮ちゃんのこと嫌いになったとか、そんなのじゃないから。むしろ好きになった」


「そ、それはどうも」


 栞ちゃんはそう言うと、前を歩くひかりちゃんの隣までかけていった。取り残された私はというと、面倒なことになったのではないか、なんて思いを表情に出すことはせずに、すぐそのあとを追いかけた。

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