第25話

 夜が明けて平日だ。授業の前段はとうに終わり、本格的にカリキュラムの相手をすることになる。進学校の高校生ともなれば本来なら受験の文字がチラつくものだが、金鳳花はひと味違う。ここは言うなれば上級国民の巣窟。裏口とは言わないが、ファストパスくらいならある。AO入試と推薦入試。進学者の実に9割がその方法で大学を選んでいる。

 私だって例外じゃない。そもそも高校入試の段階でとてつもなく高い偏差値を乗り越えてきたのだから、もうしばらく私たちの本分のことは見ないふりをしていたい。

 同じことを考えているのは私だけでは無いようで、ひかりちゃんはとっくに夢の中にいる。


「瀧川さん」


 当然、それをよく思わない人もいる。我らが担任、原谷先生はその筆頭株だ。授業の進行もなんのその、くすくすと上品に笑うお嬢様方に囲まれながら、なんとも気持ちよさそうに寝息を立てる瀧川さんの机の前に、怒髪天を衝き仁王立ちする原谷先生の姿は、神話に伝え聞くインドの女神カーリーを思わせる。違いと言えば、ちゃんと服を着ているのと腕が2本なのと肌が白いのと誰かから切り取った人体の一部を束ねてぶら下げていないことくらいだ。


「瀧川さん!」


 原谷先生は怒りのギアを上げる。さっきまで微笑ましくひかりちゃんを見守っていた空気がピリッと凍りつく。


「た、瀧川さん!お、起きて!」


 隣の子がひかりちゃんを起こすため少し揺すりながら声をかけるが、効果はいまひとつのようだ。

 原谷先生はその子に優しい微笑みを向けながらそれを制すと、何かに備えるように大きく息を吸い込んだ。


 その直後、私の世界は一瞬、音を失った。いや、それは正確な表現じゃない。私を取り囲む、風が吹き、ペンが走り、校庭では体育の授業が行われている。そんな日常の中にある自然な音が、原谷先生の怒号にかき消された。


「……おはようございます、瀧川さん」


「お、おはようございます……」


 ひかりちゃんは涙目だ。しかしこれは寝ていたためではない。その原因はむしろ恐怖にある。あんな怒声を浴びせられたら誰だって怖い。むしろよく涙目くらいで済んだものだと私は感嘆していた。私だったら間違いなく大泣きしているところだ。しかしあれだけの大声、校舎全体に響いたとみて間違いない。


「ちょっと、原谷先生!?」


 隣の教室で授業をしていたらしいお局みたいな先生が慌てた様子で教室に入ってくる。


乙骨おっこつ先生。どうかなさいましたか?」


 おっこつ?読み方が違う。おつぼねだろう。見た目からして。ていうか、本当にいるんだ、おっこつって苗字の人。漫画はさすがに世代が違うので読んだことないけど、お父さんが色々言ってた気がする。


「どうもこうもありません!!なんですかさっきの大声は!?」


「す、すみません!ご迷惑でしたか……?」


「当たり前ですッ!!」


 それからお局先生の長いお説教が始まった。原谷先生はペコペコと謝るしかない。その間私なんかは楽をしていたけれど、内心穏やかでいられないのはひかりちゃんだ。原谷先生が頭を下げる度に、申し訳なさそうにしょげていた。原谷先生がようやく解放されたのは、次の授業の先生が現れてからだった。


「あら、もうこんな時間……。原谷先生、以後気をつけるように」


 そう言ってお局先生は去っていった。


「はい、すみませんでした。……すみません、今日の授業は終わります。では継野先生、よろしくお願いいたします」


「は、はい。えーっと、いったん五分休憩を取りますから、お花摘みなど行きたい方はどうぞ」


 臨機応変この上ない。


 ☆☆☆


「原谷先生が叱られたのって、私のせい、だよね」


 夕食の席、ひかりちゃんがそう言った。


「あー、えーっと、どうなんだろう」


 いつも元気なひかりちゃんの元気がない。いつものなんとなく間延びした話し方も、ぽつぽつとぎこちない。


「まあ、あれは原谷先生もあんなに大きな声出すことなかったと思う。そりゃ怒られるよ。お局先生も怒りすぎだけど」


「お局?」


おつぼねで、お局。お局さんみたいだしね」


「身分が高そうってこと?」


 ダメだ。スラングが通じない。


「えっとね、ベテランの、若い同僚にキツい物言いする女の人のことを、大奥で若い子たちをイジメてた御局様になぞらえてお局って言うの。お父さんの会社にもそういう人がいたんだって」


「なるほど。現場ではそういう歴史的な物事を比喩や皮肉として使ってるのね」


 栞ちゃんに解説されるとなんだか恥ずかしくなってくる。しかし「現場」って……。いいや、それは。


「私、原谷先生に謝りたい。でも、なんて言って謝ったらいいかな」


「普通に、ごめんなさいとか、すみませんでした、とか。そんなんでいいんじゃない?記者会見開く訳でもないんだし」


「……和宮ちゃん。一緒に来てくれる」


「え?」


 何で私が、と言いかけたところで、ひかりちゃんの大きな目が潤んでいるのが見えた。正直いやだけど仕方ない。私は優しいのだ。


「……分かった。明日の朝、ホームルームの前に行こう。いい?」


「うん!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る