第23話

 私と深山姉妹は長い坂道を歩いている。行先は澄河さんが知っている。芹亜ちゃんは姉に言われて運動着を持ってきたらしい。


「せりちゃん、疲れてない?」


「大丈夫です!」


 芹亜ちゃんは元気いっぱいにそう返事する。一方、澄河さんは訊いてくれないが私はあんまり大丈夫じゃない。さっき食べたエビチリが胃袋の中で反乱を起こしている。さっきベビーカーを押したお母さまとすれ違った。私の体力は受験戦争でここまで衰えてしまっていたらしい。


「……す、澄河、さん。ま、まだ、ですか」


 息も絶え絶えに、私はそう尋ねた。


「もうちょっと!がんばって、すみか」


 同じやり取りをおよそ10分ほど前にした覚えがある。この子とは金銭感覚のみならず時間の感覚もかけ離れているらしい。世間様が価値観の相違、ないし方向性の違いと呼ぶものと考えて差し支えないだろう。水を飲もうとさっき自販機で買ったペットボトルに口をつけるが、いつの間にやら飲み干してしまったらしい。


「お義姉様、私の分のお水どうぞ」


「ありがとう……優しいね……」


 恥も外聞もありゃしない。芹亜ちゃんからペットボトルを受け取って胃に流し込むと、喉の渇きが落ち着いて腹の中のエビチリも大人しくなる。


「間接キッスですね、お義姉様」


 芹亜ちゃんがぽっと顔を赤くして、澄河さんもジロリとこちらを見ているが、そんなことはもはや問題ではない。


「……ごめんね。ちょっとエビチリ臭くなっちゃったかも、芹亜ちゃんのお水」


「大丈夫です!エビチリ大好きです!」


「すみか、私の水も飲む?」


 澄河さんも妙に赤らんだ顔でペットボトルを押し付けてくる。疲労でまともに動かなくなった脳でも、飲む以外の選択肢は与えられていないと悟るのにそう時間はかからない。


「……うん」


 私が二度目の間接キッスとエビチリ汚染を済ませた頃に、林を抜ける。その先は展望台になっていた。


「ひぃ……」


 私は景色になど目もくれず、倒れ込むようにベンチを見つけるやいなや倒れ込むようにして座った。なんで私はこんなことをしているのだろう。家でダラダラしとけばよかった。


「がんばりましたね、お義姉様」


「はは……」


 自分では見えないが、さぞ力のない笑みを見せたことだろう。芹亜ちゃんが私の頭を撫でてくれる。思ったより遠慮のない子だ。


「はい、すみか。スポーツドリンクだよ。がんばったね」


「あ、ありがとう……」


 私がペットボトルを受け取ると、澄河さんまで私の頭を撫でてきた。二人して私をかわいがってきやがる。なんて遠慮のない姉妹だこと。


「さてと。そろそろ落ち着いた?」


「うん。おかげさまで」


「それじゃあほら、こっち来てみて」


 澄河さんが柵に手をついて手招きする。芹亜ちゃんはぱたぱたとそちらへ走っていく。澄河さんは芹亜ちゃんを抱き寄せて、頭を撫でながら展望台の下を見下ろしている。


「どれどれ……」


 眼下に広がるのは薄いピンク色の、絨毯のような桜の森だ。


「きれいですね、お姉様」


「そうだね」


 桜の森は私が思っているよりも広い。月並みな表現だけど、絶景という以上にこの光景にマッチした言葉はないだろう。


「すみか、どう?」


「きれい。来てよかったと思う。ありがとう、澄河」


 自分でも驚くほど素直にお礼の言葉が出た。ついさっきまではこの世の全てを呪いたくなっていたのに、なかなかの手のひら返しだ。

 それから暫くは、私たちは何も言わなかった。深山姉妹が何を考えていたか私には知る由もないが、少なくとも私は、目の前の景色の感想については何を言っても陳腐になるし、言葉を発するよりも今はこの景色を目に焼き付けておくことの方が重要な気がしていた。


「そろそろ行こっか。名残惜しいけど、せりちゃんのお迎えが来る時間になっちゃうから」


「い、いえ、私ひとりで戻れます!お姉様はお義姉様とここに……」


 おねえさまには伝わっているのだろうか。ちなみに私にはどっちの「おねえさま」が私を指しているのか理解するまでに少し時間がかかる。


「ううん。私にもお見送りさせて。せりちゃんは私のかわいい妹なんだから」


「お姉様……」


「ゴールデンウィークになったらお家に帰るからね。そのときまで会えないのは寂しいから、今のうちにしっかりせりちゃんのお顔を見ておかなくちゃ」


「はい!」


「それじゃ、行こっか」


 芹亜ちゃんと澄河さんは手を繋いで坂道を降り始める。


「すみかも。置いていっちゃうよ」


「ああ、うん」


 この坂道を下るのか。上りよりは楽だと思うけど、それでも坂は坂だ。私は覚悟を決めて、澄河さんにもらったスポーツドリンクを飲み干した。

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