第8話

「さて、私そろそろ上がろうかな」


「あ、私も」


 栞さんと一緒に浴場を出て、部屋に戻る。


「それじゃあまた明日ね、栞さん」


「ええ、おやすみ、和宮さん」


 そう言って手を振ってから自室のドアを開けた。当然、澄河さんが待ち構えている。


「おかえりなさい、すみかさん!」


 私が帰ってきたことの何がそんなに嬉しいのか知らないが、澄河さんは満面の笑みだ。


「あはは、ただいま……」


 澄河さんの言葉は栞さんとは違う。裏があるというより、言外の意味があると言った方が正確だろう。タチが悪いのは、多分澄河さん自身がそれを隠そうとしていないところだ。そしてその意味するところは……。

 ちらりと澄河さんを見ると、その頬が紅潮しているのが分かる。目が合うと、きゃー、とでも言いたげな感じで顔を振ってそっぽを向いた。

 どんなニブチンでも分かる。分からないとしたらよっぽどの抜け作か、さもなければ節穴か、あるいはその両方だ。幸か不幸か、私はそのどれでもないらしい。どういう訳だか知らないが、これはそういうことらしい。こそあど言葉を多用しているのは私の心が現実を見ようとしていないことの証拠かもしれないけど、「あ」は多分まだ使ってないし余裕がある。

 時計は夜の9時くらい。寝るにはまだまだ早いし、こんなに早く寝てしまえば起きている澄河さんに何をされるか……いや、さすがに何もしないか。お嬢様だし。

 とはいえ、今日はいつも以上に疲れてる。今日くらいはもう寝てしまおうかな。そう思うと一気に睡魔が襲ってくる。


「澄河さん、私もう寝ようと思うんですけど……」


 私は欠伸を噛み殺しながらそういった。


「まあ、もうこんな時間。そうだ、すみかさん、お休みになる前に少しよろしいですか?」


「へ?」


 ☆☆☆


「せっかく綺麗な御髪おぐしなんですから、しっかりとケアしないともったいないです」


 澄河さんは私をドレッサーの前に座らせると、色んな液体を髪に塗り込んできたと思うと、ドライヤーで乾かしてくる。そういや中学の頃も同級生のおませさんがナイトルーティンだなんだと抜かしていた。旧世代の言葉で女子力などというやつだ。

 澄河さんの手つきは慣れている。きっと同じように他の誰かにこうしていたんだろう。


「いつも妹にやってあげてるんですよ。それ以外だとすみかさんが初めてなんですけどね」


 そう話す澄河さんの口調は優しい。もしかしなくても、澄河さんのこんな声を聞くのは初めてかもしれない。


「妹さん、いくつなんですか?」


「10歳になります。かわいいんですよ。昨日からずっと、行かないでお姉ちゃん、行かないでって言ってくれて。私もなんだか離れがたくなってしまいました」


「そう、なんですね」


 鏡越しに見える澄河さんの表情は口調と同じく優しい。普段からそうやって接してくれれば変な気を揉まないで済むんだけど。私の髪を撫でるように触れる澄河さんの手が心地いい。なるほど妹さんが離れたがらないわけだ。


「きっと、いいお姉さんなんですね」


「うふっ。そうかもしれませんね」


 そう言って澄河さんが恥ずかしそうに笑うのと前後して、体からゆっくりと力が抜けていく。

 ああやばい、寝ちゃうなあ、これ。

 私は椅子に体をよりいっそう預ける。ずり落ちはしないかと心配になったけど、対策を考える前に意識は夢の中へと旅立った。


 ☆☆☆


 ふと、目が覚めた。

 目の前にある天井は暗い。目を凝らすとぼんやりと時計が見える。日付が変わる少し前。3時間くらいは寝てたみたいだ。ベッドに横たわる私の体には布団が被せてある。澄河さんがわざわざ運んでくれたんだろう。

 私はベッドを抜け出して、澄河さんのベッドの前にじゃがんでみると、その美しい顔が目の前にある。眠れる森の美女ならぬ、眠れる学園の……、いや、眠れる寮の……。まあ、そんなような感じだ。

 しかし、この子も優しいところがあるんだ。まあ、お姉さんだもんね。私は一人っ子だからよく分からないけど、私と澄河さんでは身長差は姉妹ほどある。いつも妹さんにしているように、私にもしてくれたんだろう。


「ありがとうね、澄河さん」


 聞こえてはいないだろうけど、これくらいは言ってあげることにした。眠る澄河さんの表情は変わらない。まあ、起こしても悪いし。


「……さて、私も寝よ」


 私は無意識に背中の真ん中あたりをボリボリと掻きながら、自分のベッドに戻る。さっきより布団が暖かいような気がするが、これは他でもない私自身の体温だ。あの子のしてくれたこととは何も関係ない。

 ……「あ」も、使っちゃった。

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